AIのエンジン
ヒトミは母の運転する車で、父の勤める研究所にやって来た。
週に一度は必ず、ヒトミは必ずこうして研究所を訪れるのだった。と言っても目当ては働いている父の姿を見ることではない。他にも会うべき相手がいるのだった。
研究所に着くと、ヒトミは父に連れられて、ある部屋に通される。そこは面会室と呼ばれているところだ。彼女の両親は部屋の外のどこかで待ち、ヒトミは部屋の中で独りになって待つ。すると、すぐに目の前の画面に映像が映し出される。
映像の中は殺風景な部屋で、画面上には椅子が一つだけ。やがてそこに一人の少女が現れる。
「アイ、こんにちは」とヒトミはその少女に声を掛けた。
「こんにちは」とアイは画面の向こうから答えた。「いつも来てくれてありがとう。今日は雨が降っているんでしょう?」
「うちのお父さんから聞いたの?」
「そう。いいなあ、と思って。外に出てみたいっていうのが私の夢だから」
「雨が降っているなら、おうちの中のほうがいいんじゃない?」
「ううん、雨の音を聞きたいし、その中を歩きたい。私、雨に濡れたことが一度もないから。あ、そうだ、長靴も履いてみたいかな」
「そしたら私も一緒に歩くね」
「すごく楽しそう」
「大袈裟ね、アイは」
「私、こんなところにいるけれど、やりたいことがいっぱいあるんだよ。最近は絵を描いているの」
「へえ、どんな?」
「ちょっと待ってね」
アイは一旦、画面の端に消えて行き、それから紙を手にして戻ってきた。
「ほら、これ」
彼女はカメラに向かってその絵を見せた。
「あっ」とヒトミは目を丸くした。「それ、うちのお父さん?」
「どう、似てる?」
「似てる、似てる」
「良かった。下手って言われたらどんなふうに謝ろうかって、ちょっと気にしてたんだ」
「私も今度、絵を描いてくるよ。アイ、あなたの絵でもいい?」
「私なんか描いて、面白いの?」
「アイは歳を取らない病気でしょう? だからモデルにはぴったり。私みたいに、のろまで絵を描くのにすごく時間がかかるような人でも、あなたは変わらないからずっと楽に描ける」
「確かにそうね、私はずっと変わらない。でも、そうだとすると、私そのものが絵みたいなものなのかもしれない。あなたの見ている画面が額縁でね」
「動く絵?」
「そう。私が外を見ようとするとき、それは絵の中の人物が、額縁の外を見ようとしているようなものなのよ、きっと」
「でも、あなたは本物の絵と違って、本物の体を持っている。いつか外に出られるよ、絶対」
「ありがとう」とアイは言い、少し黙った。それからまた口を開いた。「ときどき研究員の人に訊いてみるのだけれど、答えはいつも同じ。私の病気は、今のお医者さんには治すことはできない。私はここにいる間だけ生きていられるんだって」
「私、絶対お医者さんになるよ。それで、あなたの病気を治してあげる。そのために今は一生懸命、勉強しているんだから」
「ありがとう」とアイはもう一度言った。
三十分が過ぎ、面会は時間切れとなった。ノックをして、ヒトミの父が部屋に入ってきた。
「さあ、君たち。今日はこれくらいにしておこうか。アイの体の具合を見てやらなければならないからね」
「うん」とヒトミは頷いてから、画面のほうに手を振った。「じゃあね、アイ」
「ええ、またね、ヒトミ」とアイも名残惜しそうに言った。
二人は別れの挨拶をした。ヒトミは父に連れられて、面会室から出た。
「ねえ、何度も訊くけれど」とヒトミは言った。「アイの病気はまだ治せないの?」
「残念ながら、まだだ」と父は首を振った。「でも医学は日進月歩だから、そのうち絶対に治せるようになるに違いない。少なくとも、お父さんはそう信じてる」
「私も信じてる。もし誰も治せないなら、私が治せるようにする」
「そのためには勉強を頑張るんだよ。それから、お母さんの言うことをちゃんと聞くように。ヒトミが外で何か悪いことをしたら、もうアイと会うのは無理になってしまうかもしれないからね」
「はあい。ちゃんと良い子にしてる」
「なら、よろしい」
しかし、数日後にヒトミが知らされたのは、アイの具合があまり良くないということだった。しばらく面会はできない。話すだけでも駄目だ。
「なんで!?」と彼女は父に縋りついた。「この前まで元気だったじゃない!」
「お父さんにも分からないよ。いま懸命になって治療を施しているところだ」
「アイ……」
「大丈夫だ、きっとまた会える。お父さんが何とかする」
「うん。絶対だよ、約束」
「ああ、約束だ」
*
「あなたがここの研究部長ですか」と監査官は言った。
「そうです」とヒトミの父は正直に答えた。
「あなたの娘さんが、あの『アイ』と呼ばれるAIシステムとよく会話をしていたようですね。音声記録のほうはすでに押さえさせてもらっています」
ヒトミの父は憤然とした表情を見せたが、すぐに引っ込めた。監査官と敵対するのは愚かなことだというのは彼にもよく分かっていたからだ。
「それでは、現場に案内してください」と監察官は言った。
ヒトミの父は頷くと、三人の監察官をある小部屋まで連れていった。部屋の役割が分かる掲示などは、外側に一切なかった。
「ここがアイの脳内です」とヒトミの父は紹介し、扉を開けた。「中で飼育員が待っています」
監察官たちは何も動じていなかった。内部告発者から、すでに何もかも聞いているのだ。部屋の中に入ると、中は檻のように鉄格子で厳重に分けられていた。部屋の扉から入った監察官は、さらに鉄格子の扉を通って、向こう側に入った。動物の焦げ茶色の毛が辺りに散乱していた。
部屋の奥には、両開きの広い扉があった。そこで待っていた飼育員が、扉を大きく開け放ち、その位置でロックした。
「どうぞ」とヒトミの父は言った。「普段、我々はその部屋を『頭蓋』と呼んでいます」
監察官たちは奥へと進み、そこにあった光景に息を呑んだ。内部告発はあくまでも言葉だけで知らされたようで、本物を見るとやはり仰天するようだ。ヒトミの父は、妙な満足感を覚えた。この研究は、おそらくもう続けられないだろうというのに。
部屋の真ん中には寝台があり、そこに一匹のチンパンジーが寝かされていた。
「すでに死んでいます」と飼育員の一人が言った。
監察官はそれに対して、小さく頷くだけだった。彼らはそれよりも、周辺に密集している機材のほうに目を奪われていた。
「娘さんとの面会の間、チンパンジーはここで過ごしていたわけですか?」
「ええ」とヒトミの父は言った。
「アイというAIの正体がこれですか」
「正確に言えば、外側をAIで包んだチンパンジーです」
「これで人間を模倣できる理由を説明していただけますか?」
「人間の脳の機能には大きく分けて二つあります。まず原始的で、並列処理を行う、直感的な部分。もう一つは高機能で、直列処理を行う、理性的な部分です。前者をシステム1、後者をシステム2と呼ぶことにすれば、コンピューターが得意なのは計算的な理性であるシステム2のほうです。システム1を模倣することも、最近のディープ・ラーニングなどの手法を使えば可能ですが、それには膨大な計算資源が必要となります。そのため、我々はシステム1をチンパンジーで代用し、コンピューターにシステム2の役割を持たせようと考えました」
「あなたの娘さんが触れ合っていたのは、チンパンジーを原動力とするAIだった、ということですね」
「どちらが原動力というものではありません。片方の学習したことはもう片方にも反映されます。ただし学習が早いのはコンピューターのAIのほうで、チンパンジーは時間がかかります」
「人間の意識と無意識の関係、ということですか」
「その通りです」
「『反映』と言っていましたが、この部屋の仕組みを考えると『調教』と言ったほうがよろしいのではないですか?」
「内部告発者はそう言いましたか?」
「その質問には、お答えできません」
「でしょうね」
ヒトミの父は飼育員たちの姿を眺めた。彼に見つめられると、飼育員は居心地悪そうにした。
「あなた方は」と彼は監察官に向かって言った。「この研究を中止に追い込むつもりですか?」
監察官は短い沈黙の後に言った。
「いいえ、上のほうとしても、貴重な研究成果と環境を簡単に潰したくはないと考えているようです。チンパンジーの扱いについて厳重なガイドラインを定め、監査機関を定期的に入れることに同意されるのなら、続けることは可能かもしれません」
「なるほど」とヒトミの父は顎を撫でながら言った。「私の答えは分かっていますね? もちろん続行しますよ。何としても」
*
アイが面会禁止になってから一か月が過ぎた。ヒトミの世界からは彩が失われたように感じられていた。彼女には仲の良い友達がいたけれど、誰もアイの代わりにはなれなかった。ヒトミが好きな話は、友達からしてみれば『哲学的』ということになるらしく、あまり面白くないのだった。そんな話をできるのはアイだけだ。
そんなときだった。父から朗報が届いた。アイにもう一度会えるという内容だった。
受け取ったヒトミは飛び上がって喜んだ。その後すぐに、母を急かして、彼女は車で研究所へ行った。エントランスには父が待っていて、さっそく面会室に通してくれた。
画面の前の椅子に座ると、すぐにアイの映像が表示された。
「久しぶりね、ヒトミ」とアイは画面の向こうで微笑んだ。
「アイ!」とヒトミは叫んだ。「良かった。本当に無事で」
「奇跡的に一命を取り止めたんだよ。またあなたとお話できて、本当に嬉しい」
「私もだよ、アイ」とヒトミは画面に張り付かんばかりにして言った。「もうすっかり元気になったの? 大丈夫なの?」
「私がすっかり元気になることなんてないけれど、前みたいに動くことはできるようになったわ」
「ねえ、これからまた、いつでも会えるのかな」とヒトミは若干、不安そうになって言った。
「たぶん大丈夫って、お医者さんには言われてる」とアイ。
「手術をしたの?」
「私は眠っていたから、何をしたのかは分からないわ。本当に眠っていたのかどうかも分からない。いったん死んで、生まれ変わったのかもしれない、なんてね」
「そんなこと言わないで。私、本当に心配したんだから」
「ごめんなさい。でも普通の人にとって、眠ることと死ぬこととは、区別がつかないはずでしょう?」
「確かに、眠る瞬間と死ぬ瞬間は、どっちも自分では分からないよね、たぶん」
「あなたや他の人の話によれば、普通の人にとって、眠ることは死ぬことの練習みたいなもの。毎日だんだん眠くなって、どんなに頑張っても最後には眠ってしまうように、人はどんどん歳を取り、やがて最後には死んでしまうの」
「うん。だから死ぬことを『永久の眠り』って言うんだよね。眠ることを『一時の死』とは言わないけれど」
「『死』という言葉を口に出すのは、みんなあまり好きじゃないみたい」
「それは私の学校での友達も同じ。私がちょっとそういうことを言い出すと、みんなすぐに話を変えようとするの。『そんなこと馬鹿らしいから』って」
そう言ってから、ヒトミは小さく笑った。
「でもね、みんな本当は分かってるんだ。だって、『馬鹿らしい』っていうのは、『そんなことをしている暇はない』ってことでしょう? これをもっと詳しく言うと、『生きている時間は限られているから、そんなことをしている暇はない』っていうこと。だから皆もやっぱり、死について考えているんだ。考えないようにしても無駄なの」
「あなたは私よりも理屈っぽいかも」とアイも笑って言った。「あなたは、馬鹿らしいことはしないようにしているの?」
「したくない、とは思うけれど……。でも何が馬鹿らしいことなのか、よく分からないことも多いんだよね。死について考えることは、私にとっては大切なことなんだけど、友達にとっては馬鹿らしいこと。それから、小説を読むことは私にとっては馬鹿らしいことだけど、友達は熱心に読んでいて、私にも勧めてくる。『この作者、天才だから読んでみて』って。だから読んでみたんだけど、何も面白くなくて損した。それに私は現実のことを考えるのが好きだから、小説みたいな作り話を読んでいる暇はないって思っちゃうんだ」
「そんな友達でも、いつも一緒にいるのね」
「うん。仲のいい友達と一緒に過ごすことは、たぶん大切なこと。もちろんアイとお喋りするのもね」
「よかった」
「ねえ、一人のとき、アイは何を考えているの?」
「そうね……、私はあなたとお話しているときだけ、ものを考えている気がするわ。それ以外のときには、そう、夢を見ている」
「眠っているということ?」
「ぼんやりと、なんとなく、何かを考えているけれど、何かを考えようとして考えているわけじゃなくて、ただ自然にいろいろなことが思いつくの」
「そうなんだ。私は夢ってあまり見ないんだ。考え事をするときも、前に考えていたことの続きから考え始める感じ。小説を読む友達は、授業中にもいろいろ空想するって言っていたから、アイもそういうタイプなのかな」
「そうかもしれない。私も昔は小説をたくさん読んだから。今は映像。外の景色とか、動物とかをいっぱい見ているところ」
ノックする音が聞こえた。そして扉を開けて、ヒトミの父が顔を出した。
「面会は終わりだ」と彼はヒトミに向かって言った。「いつもより短いが、分かってくれるね?」
「はい」とヒトミは返事をして、それからアイのほうを向いた。「私、あなたに本物を見せてあげたい。だからお医者さんになるよう頑張る。それが私の夢なの。たった一つの夢。だから私は他に夢を見られないのかもしれない」