返し矢
ずっと昔、一人の若者がいた。若者は生まれつきひねくれ者で反抗的なたちだったので、自分たちの暮らし方が気に入らなかった。
若者の一族は山に住んで、季節ごとにところを変え、獣を狩り、木の実を採って暮らしていた。
その年はいつになく獲物が少なく、もう十日以上獲物が獲れなかった。若者は仲間と獣の足跡を追って山道をたどっていたが、足跡は途切れてしまっていた。
「ここの辺りをぐるぐる歩き回った跡がある」
と若者は言った。
「足跡をごまかしているんだ。それからどっちに行ったのか、この崖下の木を伝って遠くに逃げたのかも知れないし、岩場に逃げたのかも知れない」
「それじゃ、二手にわかれて追うか」
「その先でまた道がわかれてたらどうするんだ?それにほら、この足跡の上にはすでに落ち葉が何枚かつもっている。きっともう何日か前の足跡なんだ。今頃はもう、ずっと遠くに行ってるだろう」
「この近くに住み処があれば別だろう」
「そうかもしれないけど…」
若者は首をふって言った。
「ああ、やっぱり獣を追って生きる生き方なんて、骨ばかり折れて実りが少ないんだ。俺はもうこんな生き方はやめて、山のふもとの人たちみたいに、ひとつところに止まって、稲を育てて暮らしたいよ」
「そうやけになるなよ。狩りをするには気が長くないとだめだ」
「わかってるよ。俺だって狩りの腕が誰かに負けてるわけじゃない。腕には覚えがあるんだ。でも、少ない力でより多くの実りがあるなら、そっちのほうがいいじゃないか」
そこへ、近くの茂みが動く音がしたので、二人はとっさに振り返って弓を構えた。しかし…
「なんだ、雉か…」
草影から現れたのは雉だった。雉は神の使いだから、殺してはいけないと云われていた。雉は死んだ者の魂をあの世に連れていくとも云われていた。
「悔しいがしょうがないな」
仲間は弓を下ろした。雉は、すぐそこに人がいるというのに恐れる風もなく、辺りの地面をついばんでいる。人に慣れているのだ。人に狩られることがないとわかっているものだから。
若者は腹が立って、矢を射た。
「おい!」
仲間が叫ぶ。矢は雉の頭のすぐ横をかすめて、後ろの木に突き刺さった。雉はぱっと駆け出して、すごい速さで逃げていった。
「当てはしないよ。わざと外して射ったんだ」
「お前なあ…」
「そうだ、当てようと思えば当てられるんだ!」
「…」
「雉が神の使いだなんて、誰が言い出したことなんだ?他の鳥となんの変わりもない、ただの鳥じゃないか」
「そうは言うけど、俺の婆さんが子供のころみんなで雉を殺して食ったら、雉を食った者はみんな病になって死んでしまったと言ってたぞ。婆さんは雉の肉を食わなかったから死ななかったと言ってた」
「それだって、死んだのは別の訳があったかもしれないじゃないか」
「そうかもしれないけどさ…だがまあ、今日はもう帰ろう。日も落ちてきたし」
二人はみんなの元に帰ってきて、女達が集めてきた木の実や、ドングリの渋みをとって、粉にして固めた者をみんなで食べた。狩りに出た他の者たちも、やはり獲物は獲れなかったようだ。もう何日も肉を食っていない。鹿や、猪や、兎の肉が食いたい…、今日も獲物が獲れなかったので、女達の目もどことなく冷たい気がする。
「今日も獲物は獲れなかったようだな」
長老が言った。
「どうだろうか、まだ少し早いが、もう冬の狩り場にいくべきか、どうかな。お前たちはどう思うか」
「いいと思います」
「私もそう思います」
と、人々は言う。しかし若者は言った。
「俺はそうは思わない。まだ冬の狩り場では、熊が眠りについていないかも知れない。眠りにつく前の熊は一番危ない。まだここでも獲物が獲れるはずだ。いや、俺なら獲れる」
これを聞いて、人々もどうするか決めかねるようだった。
長老は言った。
「それでは、籤を引こう」
(また籤か…)
と、心のうちでは不満に思う若者。
何度も聞いたことがあるが、長老はおみくじのいわれを話した。
「ずっと昔、我々の先祖は天で暮らしていて、それから高い木を伝って、地上に降りてきた。その頃は天が今よりずっと近くにあって、木を登ればいつでも天に帰ることができて、神とも話ができた。
しかし、一人の若者がいて、神が空の上を歩く足音を聞いて、神を弓矢で射てやろうと思い、矢を射た。矢は神の元に届いたが、当たりはしなかった。若者は逃げて、誰が射たのか神にはわかるまいと考えていたが、神がその矢を拾い上げて、“この矢を射た者が悪い心を持って射たのなら、その者に当たれ”と言って投げ返すと、矢は若者に当たって、若者は死んでしまった。それが人を葬るようになったいわれで、神は雉をやって彼の魂を連れ去った。
それからは、天はずっと遠くに行ってしまったので、人々はもうどんなに高い木に登っても天に帰ることができなくなって、地上で暮らし始めた。
そして神を、高い木よりも上にあるということで、高木の神と呼ぶようになった。もう神と話すこともできなくなったので、木を削っておみくじを作り、神のお告げを聞こうとするようになったのだ」
そう言うと、長老はおみくじを袋の中でかき回して言った。
「高木の神よ、冬の狩り場に向かうことは、よろしいかよろしくないか、お告げを下さい」
そう言って籤をひくと、籤は良しと出た。それで人々も、冬の狩り場に向かうことに心が向いたようだった。
まだここに残る者もいるかも知れないが、いずれはみんなを追っていくだろう。
その夜はみんなその場で寝たが、若者は腹に据えかねて、眠れないでいた。
彼にはおみくじも、雉と同じように、ただの木にしか思えなかった。ただの木に先の事なんてわかるものか。
山のふもとに住んでいる人々のことがいやでも心に浮かんできた。若者は肉と交換に彼らが作っている米をもらったことがあった。
山の中をぐるぐる回って、熊や狼を恐れながら獣を追いかけたりせずに、ひとつところに止まって、あれを食って生きていけたらどんなにいいだろう。彼らの話では、山のふもとでは熊や狼もほとんど見ないと言っていた。冬の狩り場に行けば、またふもとから遠くに離れてしまう。
若者は起き上がって、誰かを起こさないように自分のおみくじをひいてみた。占いは悪しと出た。
(やっぱりな)
若者は思った。
(でももう、俺を引き留めようとしても無駄だ)
若者はそのまま、そこを立ち去った。自分の一族を捨てて、山のふもとで、ひとつところに止まって稲を育てている人々の間で暮らし始めたのだった。
初めは慣れないことばかりだったが、若者はつとめて人々にとけ込み、その暮らしになじもうとした。その甲斐あって、彼らの間から妻をもらった。しかも、人々の間で敬われていた家の娘で、彼らの仲間として、認められたことの証でもあった。
妻は巫女の家の娘だった。彼らの間では、豊作を願って、土地の神が特に敬われていた。暦もずっと几帳面につけられていて、日や月の神も敬われている。
「ここが名持ち様の社よ」
「名持ち?」
「名というのは土地のことね。土地の神様よ。土地がよくなければ稲は育たないから、私達にはとても大事な神様なのよ。それに、雨や、日や月も…みんなが協力しあわなければいけないのよ。だから、収穫したものはまず神に捧げて、みんながつつがなく、来年も豊作であるように祈るのよ。」
「素晴らしいな!山にいた頃は、どうにかして獲物を獲ることばかり祈っていたものだ。いや、奪うことを、だ。ここでやってるように、みんながつつがなくいられるように、みんなに祈るほうがどれだけ良いことか!」
しかし、三年ほどたつと、凶作の年がやって来た。蓄えがあるので、すぐに飢えはしないが、来年はどうなるか、いや来月はどうなるかと、心の内に恐れがわいてきた。
おまけに、若者は病にかかって床に伏せるようになった。どうしてこんな時に病にかかるのかと、若者は恨めしい気持ちがした。このところ肉を食っていないからかもしれない。ここの人々もたまに狩りをして肉をとったりはするが、やはりあまり得意ではないようだ。
若者はようやく病が癒えてくると、弓矢を取って、山に狩りに出かけようとした。妻が引き留めて言う。
「あなた、病み上がりなのに、狩りに行くなんてよくありません。また病がぶり返すかもしれないし、獣に襲われるかもしれません」
「しかし、凶作だというのに、手をこまねいているわけにはいかない。何か食べるものをとってこなければいけないだろう。ふもと近くなら、危ない獣もそうはいないはずだ。心配するな。鳥でも射って帰ってくるから」
「私は胸騒ぎがするのです。今朝、家の前の木に雉がとまっていて、何かしきりに鳴いていました。あなたが外に出てくると、すぐに飛び去ってしまいましたけど、あの雉の鳴き方は悪い兆しのような気がします。」
「なに、雉だって?鳥の鳴き方や飛び方で先の事を占うなんてできやしない。俺も昔やっているのを見たことがあるが、あんなもの当たりはしない」
そう言われて、妻もそれ以上は言わずに見送った。
山に入ったが、なかなか獲物は見つからない。昔ほど、山道を軽々とは歩けなくなっている自分を、若者は見いだして、心の内に焦りを覚えたものだ。はや日は傾き始め、おまけに雨が降り始めて、空は暗くなってきた。
と、草がすれる音がして、若者はそちらをとっさに振り向く。
雉だった。だが今は、逃げようともしない雉ではなく、若者を見るや逃げ出した。若者はとっさに矢を放つ。矢は雉の尾のあたりに刺さったが、命はとれず、雉はすごい速さで駆け出した。
若者は追いかけた。矢は確かに当たった。いずれ力が尽きるはずだ。雉は逃げて、高い木のあるところに来た。雉は木に飛び上がろうとする。木に向かって逃げようとする様は、まるで高木の神に助けを求めでもするかのようだ。若者は悪い兆しを感じながらも矢を射たが当たらず、雉は枝の上に飛び上がった。若者は追いすがり、木の下に来て、矢をつがえ、枝の上にいる雉を狙った。
その時、雷が落ちてきて、若者も、雉も、木も一緒に打ち砕いて焼き払い、その地響きは山の中にも、山のふもとにも響きわたったものだ。
「こうして若者は死んだのだった。あとから、人々は焼け落ちた木の近くで若者が死んでいるのを見てそれを知ったのだ。人々は、彼は高木の神に撃たれて死んだのだと言いあった…と、私の婆さんが言っていた」
「昔はそんなことがあったんですね」
「そうだ」
「でも私達も、今ではひとつところに止まって、稲を育てて生きていますし、私も名持ち様の巫女になっています」
「そうだな。しかしその頃には、定住するのにも良しというお告げが出たらしい」
「本当ですかねえ」
「ともかく、もうこういう暮らしを始めて五十年にもなるからな。今はこの生き方をうまくやるようにするのが良し、だろう」
「そうですね」
祖父の話を聞きおえて、巫女はもう寝ようと思って、床についた。そうすると、夜の闇の中に、なにやら泣き声のようなものが聞こえて来る。はっとして起きると、その声が言う。
「俺とお前たちの間に何の違いがあるんだ?どうせ定住生活を始めるなら、俺の時に始まってもよかったのに。いや、実際俺が始めたんだ。お前たちの中で、最初に定住を始めたのは俺なのに」
「あなたは、ひょっとして、今日おじいさんが話してくれたあの若者ですか?」
「そうだ。なぜ俺はこんな目にあわなければならなかったのか?俺とお前たちと、同じことをやったはずなのに」
「…私達の時には、高木の神のお告げも吉だったとおじいさんは言っていました」
「じゃあ、なぜ俺の時には吉じゃなかったのか?なぜ神は俺には吉を出してくれなかったのか?」
「私に言われましてもどうにもなりません」
「…」
しばらく声は黙っていたが、やがて言った。
「それならせめて、今からでも俺を弔ってはくれまいか。そうしたら、もし俺にできるならお前たちがつつがなく豊作に恵まれていられるように助けよう。そして、今の暮らしを始めたのは俺だということを覚えておいてくれよ」
次の日、巫女がその事を皆に話して、あの若者のために社を作ってやろうということになった。しかし巫女の祖父は、村の中の社にではなく、外に社をたてるべきだと言ったので、村の外で彼を弔い、社を建てて祀った。
巫女は言った。
「おじいさん、これでつつがなく豊作に恵まれると良いですね」
「そうだといいがな…」
「どうしたんですか?何か心配ごとがあるんですか?」
「そうだな…改めて思えば、最初に矢を返されて死んだ男のために、人々は地上で暮らすはめになったと言われているが、もしあの若者のために今の暮らしが始まったのだとしたら、今は特に問題もないとしても、後から今より大きな災難が起こりはしないかと思えてきたんだ」
「でも、お告げは吉だったんでしょう?」
「そうらしいがね。でもそれも、より悪くはない、というだけなのかもしれない。とはいえ、もしそうであっても、それも仕方ないことなのかもしれないが」