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第二章

私、なにやってるんだろう…

薄暗い廊下で、壁にもたれて大きく息をつく。


挿絵(By みてみん)


「なに、やってんだろう」

声に出してみた。…洗面所のドアの向こうから、河童の鼻歌が聞こえる。2階からは、沙耶と琴美の笑い声が聞こえた。…もう、こっちに付き合ってくれてもいいのに。

「おほー、2週間ぶりのシャワーだ!」

蛇口全開にされたシャワーの水音と河童の奇声が反響して、浴室はすごく騒がしい。

「静かに浴びてください!…隣近所にだって、見張りを頼んでるかもしれないんだから」

「…お前、そこでなにやってんの」

「あなたが不穏なことを企まないように、見張ってるんです」

どはははは…と浴室に下品な笑い声がこだまする。

「俺だって小学生はストライクゾーン外だ」

「し、失礼な!中学生ですっ!」

「中一?」

「………だったらなんですか」

「4ヶ月前は小学生じゃねぇか」

鼻歌交じりに、憎たらしいことを言う。…なによ、ひとの家に勝手に押しかけて、シャワー全開で使ったあげくにセクハラ発言?

「…ちなみに、沙耶ちゃんと琴美ちゃんは同い年?」

「みんな同級生ですっ!」

つい声を荒げてしまった。ムキになっても喜ぶだけなのに。

シャワーの音が止まった。…はぁ、ようやく出てくる。はやいとこ、あいつをガレージに追い払って、部屋に戻らなきゃ。

「今の子は発育がいいな。琴美ちゃんのほうなんか、ありゃBカップくらいあるだろ」

…もう決めた。何言われても相手にしない。

「流迦ちゃんも頑張れー」

…うるさい。黙れ。もう何も喋るな。

「こ~んなスポーツブラとかしてる場合じゃないぞ~」

…黙れって。もう相手してやんないんだから。


………


………


……なに―――!!


「こっこの変質者!!」

頭が真っ白になって、気がついたら、全裸でうずくまる変態河童を檜の手桶で滅多打ちにしていた。肩で息をしながら涙目の河童にさらに蹴りを入れる。

「出しなさい!!どこにしまったの!!」

「おっお前…俺は冗談で…」

「冗談で何!!いいから出しなさい!!」

「だから冗談だよ!見てないって!!」


……見てない……


「スポーツブラかなーと思って、ちょっとカマをかけてみただけだ!…お前、大人しそうな顔して恐ろしい娘だな…」

頬にばっと血が上った。…こいつ…こいつ……!!

「ゆ…許せない!!死ねこの変態河童!!」

「ちょ、ちょっと待って、死ぬ前にパンツ履かせてくれ」

「うるさい、全裸で死になさい!!」

「まじで!?羞恥プレイ!?」

「……流迦、なにやってるの?」

再び手桶を振り上げた瞬間、騒ぎをききつけた沙耶と琴美が降りてきた。

「た、助かった!聞いてくれ、この暴力娘が突然飛びかかってきて桶で打擲を!!」

「だってこの変態が!!」

この変態に…スポーツブラを言い当てられたとは言えず、口をつぐんだ。肩が怒りでわなわな震える。

「とっとにかく気が変わったから!もうこんな奴、ガレージにだって置いてやらない!!」

「まーまー、流迦さん、落ち着いて落ち着いて」

「そうだよー、麦茶でも飲んでー」

沙耶と琴美がなだめるようなフリで、ヘッドロックで私をドアの外に引きずり出した。胸がさりげなく頬にあたる。…ふん、私はちょっと遅れてるだけなんだから。

「…何があったか知らないけど、上京の誓いを忘れたわけじゃないだろうね」

沙耶がドスの聞いた声で囁く。首を絞める力がちょっと強まる。いたいいたい。

「今のうちに東京にツテをこしらえておくのも、立派な上京計画だよ~?」

「それにさ、それに」

琴美が浮かれた声で囁いた。

「…あのひと、よく見ると結構かっこよくない?」

「だよね!?琴美も思った!?」

「実家は東京だし、ちょっと変わり者っぽいところをさっぴいても、全然アリだよね」

ナシだ。あんな変態。絶対ナシ。

「とにかく!…流迦、待望の海外拠点を潰すことはまかりならん!」

「………海外って…まぁ、広い意味では海外だけど……」

とん、とん、と二階に上がってくる足音が聞こえた。足音はわざとらしく私の部屋の前でとまる。しばらくすると、ドアの隙間から河童がじっとりと覗いているのが見えた。

「――姫のお怒りは解けましたかな?」

「あー平気平気!この子なら、もう怒ってないですよー、ね!」

琴美は1オクターブ高い声で歌うように言うと、私の背中をつつきながら同意をうながす。…こんな変態河童のどこがいいのか。

「…もういいから、さっさとガレージに帰ってください」

「お、いいの?やりぃ!」

奴は無遠慮な小学生みたいに笑うと、さくっと踵を返して階段を駆け下りた…と思ったら、少し引き返して、もう一度部屋を覗き込んで、大人びた口調で言った。

「…さっきは、ごめんな」

「……う」

「私たち、手伝いますー♪」

どたどたと階段を駆け下りていく3人の足音を聞きながら、こわばった顔の筋肉を、ゆっくり、ゆっくりとほぐしていく。


―――急に謝られて、びっくりしただけなんだから。


火照った頬を麦茶で冷やして、窓からガレージを見下ろす。…今日は散々だ。白熊は食べ損ねるし、ガレージに河童は住み着くし。…3人が、玄関から走り出してくる。もつれあって笑いながら、大騒ぎで。

私があんなふうに笑えなくなったのは、いつからだったかな…。





かつん、かつんと、硬いものがガラスにぶつかる音で目が覚めた。

天井近くの壁時計は、午前5時を指している。まだ蝉も鳴いていない早朝…窓ガラスが振動するたびに聞こえる。かつん、かつん。

「…あいつ!」

いらっとした。ガレージを見下ろすと案の定、河童が手を振っていた。少し乱暴に窓をあける。こんな不愉快な気持ちなのに、朝の空気は頬に冷たくて気持ちいい。

「…なんのつもりですか!」

眠いのとスポーツブラの恨みがあいまって、思わず声を荒げた。

「ちょっと来てくれ、手伝って欲しいんだよ」

「後にしてください…いま何時だと思ってるんですか」

「昼から大雨だろ?雨が降る前にやっておきたいんだよ。…1人より、2人でやったほうが絶対早く済むじゃん」

…いら。

「知ったこっちゃありません」

「早く済めば、それだけ早く出発できるんだぞ。…それとも流迦ちゃんはステキなお兄ちゃんに、一日でも長くここにいてほしいのかい?」

「…手伝います」

奴のペースに乗せられたんじゃない。言い合いが面倒になっただけなんだから。



挿絵(By みてみん)


鉄くずの山を掻き分け、こめかみを、頬を伝う汗をぬぐう。痛いほど耳朶を打つ、蝉の斉唱。勢いを増してきた太陽が、ちりちりと肌をあぶり始めた。…どこからか、ラジオ体操の歌が聞こえる。あたーらしーいー、あーさがきたー…


―――あの河童め。


門を出るそぶりを見せたあたりで、引き返せばよかった。

村はずれの『廃棄自転車置き場』で足を止めたその瞬間、こいつを置いて逃げ帰ればよかった。肝心なところで勘がはたらかない自分に腹が立つ。


「これと同じ型のブレーキがついたチャリを見つけてくれ」

一時間前、ひしゃげたブレーキを見せられ、廃棄自転車の山を顎で示された。

「……え?」

「こいつはどうしても直らないんだよ。スペアも使い切った」

「買えばいいでしょ。自転車屋の場所が知りたければ、タウンページくらい貸します」

調べてやんない。こいつのための労力が惜しい。

「金がない」

「……廃棄自転車がなかったら、どうする気だったんですか」

「駅前あたりでバラして盗む」

……最低。


「山には登るなよー、ケガするからなー」

…だれがあんたのブレーキの為に危ない橋を渡るか。腹いせに手近な山を蹴りつけてやった。自転車に紛れて、鍋のフタとか雑誌とかポリタンクとかが顔を出す。廃棄自転車に紛れて、生活ゴミも違法に捨てられてるみたい。

あぁもう臭い、暑い、いまいましい。こんな変な形のブレーキ、どこにも見つからないし。

「お前、いまその辺蹴ったろ。崩れるからやめとけよ」

「いちいち五月蝿いです」

「そうむくれるなよー。…途中にグミの実がなってたな。済んだら食おうぜ」

「済んだらさっさと帰って朝ごはん食べます。一人で食べてください」

へーいへい、という声が聞こえて、再びじゃりじゃりとくず鉄をまさぐる音が聞こえ始めた。私も一応、音だけさせておく。真剣になんて探してやんない。

「おぉ、これは!」

山の裏側から声がした。

「見つかったんですか?」

内心ほっとしたけど、わざとぶっきらぼうな声を出す。

「流迦ちゃん、ちょっと来てみ」

なによ、面倒くさい。私はわざとゆっくり体を起こして、のろのろと近づいた。

「ほらコレ!見たことあるか!?」

目を輝かせて私を見上げる河童の傍らに、雨に濡れてたわたわになった雑誌が転がっている。珍妙な下着をつけた女性の表紙に、活き活きとした赤い文字で『週刊エロトピア』。

……どっと疲れがわいた。

「…寡聞にて存じ上げません。いい加減にしないとセクハラで警察呼びますよ」

「馬鹿、そっちじゃない!」

…その割には、なんか成人雑誌を選り分けたような形跡があるんだけど。

「これだ、これこれ。…まだあったんだなぁ」

河童は、くず鉄の山からカラフルな箱をつかみ出した。それは六面の全部が、マス目で仕切られている、おかしな箱。彼が箱をぐっとひねると、一番上の列がくるっと回った。

「ルービックキューブだ」

「るーびっく…」

懐かしさを噛み締めるように、ぐっと頷いて再び掌の箱をぐるりと回した。

「このキューブ、色がバラバラだろ。これをこうして…えーと、こうして…」

河童は額に汗の玉を浮かべて箱をこねくり回しはじめた。

「…あれ?腕が落ちたな…昔は全校一のスピードを誇った俺様が…」

よく見ると、色は6色。河童の手の動きを見ていると、どうも面の色を揃えたがっているみたい。…ちがう、そうじゃない。そこを動かすと、こっちが揃わなくなる…ちがう。ここを動かさないと絶対に揃わない…

「貸して」

まどろっこしい。河童からルービックキューブをひったくると、頭の中で描いたとおりに手を動かした。カキカキカキと軽快な音をたてて、キューブは高速で回る。…心地いい予定調和が、掌の上で展開される。私がタクトを振って、キューブは私の思い通りに模様を替える…


「…すげえ…」


河童の呟きに、ふと我に返った。掌に6面全ての色が揃ったキューブが収まっていた。

「あっ…」

つい、むきになった…

思わず唇を噛みしめた。…私は、また…


「すげぇな!お前、初めてだろ!?」


挿絵(By みてみん)


キューブごと手を握られて、はっとして彼を見上げた。思ってたより人懐こい瞳が、一点の曇りもなく、私を見返してきた。…咄嗟に目を逸らした。

「…なんですか」

「お前天才だな!…こういうのって、どうなんだ?一瞬で頭の中でシミュレーションできるのか?」

…言葉が出なかった。

びっくりしたのもあるけど、正直、自分でもどう表現していいのか分からなかったから。…それぞれのパーツの『道筋』が全部見えた。私はそれに沿って手を動かしただけ。

恐る恐る、もう一度目を上げてみた。

河童は好奇心だけをたっぷり湛えた瞳で、私とキューブを見比べている。

…それだけなんだけど、ひどくほっとした。胸の中で、何かがするっとほどけたかんじ。だから…

「まどろっこしいんですよ、へたくそ」

…皮肉が口をついて出た。

で、さっと回れ右して足早に自転車の山を後にした。

「おい、ちょっと待てよ!パーツ探し終わってねぇよ!!」

「おもちゃで遊んでる余裕があるなら、一人でやればいいでしょう」

口の端がむずむずして抑えきれない。頬は勝手に熱くなる。耳が痛いほどの蝉の声を避けるフリをして、耳と頬を手でおおった。…次第に、駆け足になっていく。

「…天才だって!」

つい声にだしちゃって、慌てて口をつぐんだ。…グミの木に囲まれたいつもの小道が、少し眩しく感じた。





玄関を開けると、奥のほうからけたたましい電話の音が聞こえた。…お父さんの声みたいに。どうせこの時間に無遠慮に掛けてくるのは、あのひとしかいない。なるべくゆっくり靴をぬぐと、きっちり揃えて電話の音がするほうへ歩いた。

「…はい、狭霧でございます」

よそいきの声で応じる。お父さんはそのほうが喜ぶから。

『わぁはなんしよるかっ!何度鳴らしても電話に出んと!!』

「ごめんなさい、ラジオ体操に行っていたの。お友達のおうちの近所でやってるって聞いて、ちょっと懐かしくなったの」

少し舌足らずに、ゆっくりと喋る。非行になんて走りそうにないカワイイ娘を演出。…非行なんてかったるいこと、やる気もないけど、疑われること自体がうざい。

『おっ…そかそか、ラジオ体操ば体によかばってん、これからも続ければよかばい』

「毎日早起きは大変そうだわ。…どうしたの?」

『…友達ちゆうんは、あの沙耶ちゃんとか琴美ちゃんが?』

「ううん、クラスのお友達」

『そか。…あんな…あんし、おいのいねか日に泊まりち、ちぃっと親の躾ばなってなかごたるな。…流迦ん友達にふさわしくなかちことあらんがね?』

…こめかみが、ぴりっとした。私があなたの言うこと素直に聞いているだけじゃ不満?友達まで、あなたの思い通りの子を選ばなきゃいけないの?


……はいはい、わかった。こう言えば満足するんでしょ?


「…2人とも手芸部の友達なの。どっちものんびりやさんだから、文化祭の展示物が間に合わなそうなんだもん。だからおうちに呼んで、一緒に手伝ってあげたくて」

家庭的な女の子たちなのよ、とアピールすればいい。このひとは、そういうのが大好きだから。

『ほんなこてぇー、流迦はよかおごじょばい!ええが、わいがおるときじゃったら、いっでん呼んだらよかよ』

「ほんとう?お父さん、ありがとう!」

『じゃっどん部活もてげてげにして、いっちゃんげぇにも顔出しゃったもんせ。な?』

いっちゃんに会いにいけと釘をさすと、返事も待たずに電話を切ってしまった。


…最近、いっちゃんの家に顔出すの、気が重い。


いっちゃんが嫌なわけじゃない。まだ幼い彼が、無邪気に私の腰にしがみついて『ぼく、流迦ちゃんのお婿さんになるが!』と、黒目がちの瞳で見上げてくると、実はちょっと幸せな気分にさえなる。

でもそれは小さな女の子がお父さんに言う『おおきくなったらパパとけっこんする!』と同じ、いつかはさりげなく消えていく幸せのはずだった。


父さんが、余計なことを思いつかなかったら。


姶良の本家にツテが出来れば、今後の選挙が有利になる…そう考えたんだと思う。お父さんは、まだ分別のつかないいっちゃんに、会うたびに私を嫁にするか、嫁にするかと吹き込みはじめた。…最近、いっちゃんは期待に満ちた瞳で私を見上げる。

だから、胸が痛む。


「手芸?そんなおしとやかな集いにゃ見えなかったが」


背中から突然、男の声がした。

「なっ……!」

いつの間に入ったのか、河童が私の真後ろで、棒アイスをしゃぶっていた。

「玄関開いてたぞ」

「だからって…!!」

「ガレージ暑いんだもん。お手伝いさんとやらが来るのは昼過ぎだろ?」

そういって河童は勝手に台所に入り込むと、止める暇も与えず、勝手に麦茶を取り出してコップに注いで飲み始めた。

「なにしてるんですかっ!!」

「あ…わり、つい実家感覚で」

まったく悪びれた様子もなく、おかわりまで注いでいる。ここまで図々しいと、怒る気力が失せる。

「…図々しすぎていっそ斬新ね」

「斬新だろ」

にやりと笑って、コップをもう一つ取り出して麦茶をなみなみと注ぐ。で、私のほうに差し出した。

「要りません」

「汗いっぱいかいたろ。脱水症になるぞ」

「自分で注ぐから要らないって言ったんです!」

むかついたけど、確かに喉は渇いてた。コップをひったくって、わざと不味そうに飲む。

「おーこわいこわい。…あ、またシャワー借りるわ」

河童はテーブルにコップを置くと、当然のように洗面所に消えた。

「ちょ…ちょっと!」

「お構いなくー、タオルの場所は分かるから」

そういうことじゃなくて…!!と言いかけて飲み込む。妖怪に軒先を貸せば、母屋を取られる。なりゆきとはいえ、家に河童を引き入れた私が悪いんだ。きっと。





「で、君はまたそこにいるのか」

洗面所から、くぐもった声が聞こえる。私は布団たたきを持ったまま、洗面所のドアにもたれていた。

「これ以上、家の中で好き勝手されたらたまらないですから」

洗面所に私の下着が残ってないことはチェック済み。排水溝までぴっかぴかに掃除してやった。突然何か言われても、鼻で笑い飛ばしてやるんだから。

「昨日、浴室散らかしっぱなしでした」

「あれはお前が乱入したから…」

「私が散らかしたと思われるでしょ。今度片付けしないで出たら、もう貸しませんから」

「ほーう、じゃ時間差で発見されそうなところに、ありえないほど長い陰毛仕込んでおいて親父に『流迦…お前…お前っ…!』とか思われるようにしてやろう。えーっと、一番長い陰毛はど・れ・か・な」

ガツン!と布団たたきの柄でドアを殴ると、ひえっとか、おーこわ、とかそんな声がシャワーの音に紛れて聞こえてきた。

…しばらくして、シャワーの音が止んだ。

「…なぁ、流迦ちゃん」

「…なんですか」

またセクハラ発言だったら、もう口利いてやんない。

「余計なお世話かもしれないが…あれ、嘘だろ」

「………なんの話ですか」

「手芸部の話」

声のトーンが、少し変わった。

「…私が、手芸部なのは本当です」

別に、好きで入ったわけじゃないけど。

「ふぅん…親父さんと話すときって、いつもあんな感じなのか」

「悪いですか」

…返事が、ない。何でなにも言わないの。余計なことはいくらでも言うくせに。なんで、私の嘘が気になるの。いま、ドアの向こうでどんな顔してるの。


何一つ自分からは聞けなくて、ただ、衣擦れの音に耳を済ませるだけだった。


「どう言えばいいのか分からないけどさ」

ようやく、彼が喋りだした。…さっきよりも一段低いトーンで。

「手芸のほかに、やりたい部活ってなかったのか」

「――将棋」

ぽろり、と口からこぼれた言葉。

自分でも、意識してなかったのに。やりたいことがないから、親が望みそうな部に入った、さっきまで、そう思っていた。

「へぇ、いいじゃないか。なんで、将棋部に入らなかった?」

「――お父さんに、禁止されてるから」


もう忘れたと思ってた遠い記憶が、いらつきと一緒に浮かび上がってきた。


お父さんが、軽い気持ちで私の前に広げた将棋盤。

『流迦―、将棋教えてやるばい、相手せんね』

――そう言ったのは、お父さんのほうだった。

駒の動き方を教わって、並べてもらって、お父さんが先手で始めた。

お父さんの駒の動きを目で追った。次の手も、その次の手も予測できた。私はそれが面白くて夢中になった。飛車を取れ、王将を追い詰めろ!…さあ、次の一手で積み…


その瞬間、将棋版が弾けとんだ。


『うなー!!』

青天の霹靂。何が起こったのか分からなくて、目をぱちくりしている私を血走った目で見下ろし、お父さんはなおも怒鳴った。

『わっぜぇ、なますかんおなごじゃ!!おなごのくせに、男の面子ばつぶしよってからに!!』

『で、でもお父さん…』

『うぜらしっ!ぎをゆなっ!お前は将棋ばせんでよか!!』

この事があってから、うちでは全てのゲームが禁止された。いっちゃんの家に遊びに行った時だけ、私たちしかいない部屋で、いっちゃん相手にゲームが出来る。それが、ひそかな楽しみだった。


お父さんは、女の子が男をしのぐことが、お腹の底から嫌い。

だからこの家にいるかぎり、私はお父さんの気に入ることしか、やっちゃいけない。

でも、でも私は…


――堰を切ったように、言葉があふれ出した。彼は、黙って聞いている。たまに、相槌のような唸り声を出しながら。

どうしたんだろう。…こんなこと、沙耶たちにしか言ったことないのに。


「…お前は、どうしたいんだ?このまま、親父さんの言うとおりに生きていくのか」

私の言葉が尽きるのを待っていたように、彼が問いかけてきた。衣擦れの音は、もうやんでいる。

「高校卒業まではガマンするんです。卒業したら全部かなぐり捨てて、遠くに行く。東京…じゃなくても構わない。とにかく、ここじゃないどこかに」


「……ひどいな、お前」


がん、と頭を殴られたような気がした。…ひどい?どっちが!?私の気持ちを踏みにじり続けたあのひとが、じゃなくて私が!?

「…なんで…?」

やっとの思いで、その一言だけ絞り出した。

「言いたいこと言わないで、どんな無茶振りされても従い続けといて、突然手の平返して『あんたなんか親じゃない!』って手の届かない所に逃げちゃうのかよ」

「悪い!?そうされても仕方ないことを、あのひとはしてきたのよ!!」

「んー…そう、なんだが」

かしかし…と頭をかくような音がした。

「…お前の親父さんてこう…多分、多分なんだけどさ、周りの感情に無頓着なひとなんじゃないか。力技で場の空気を作って我を張って、周りが何も言わないからって、それが多数派の意見と思い込むようなところ、あるだろ」

「………」

「お前が何も言わずに従ってきたから、自分が作り上げた『理想の娘像』に、お前も満足してると思ってるんだろうよ」

「…最悪じゃない。私のやり方以外に、うまくやれる方法があるの?」

「うまいやり方かどうかじゃない!」

…肩が震えた。…なによ、河童のくせに、なんで私を叱るような声、出すのよ…

「しょっちゅうぶつかり合うことになるだろうな。親父さんは毎日不機嫌かもしれない。悪くすりゃ、顔が曲がるほど殴られるかもしれない」

「………」

「でも伝わるかもしれないだろ。お前がどうしたいのか。…少なくともギリギリまで親をたばかって、最後に裏切ってハイさようならなんて結末よりよっぽどマシだ」


――あんたに、なにが分かるのよ。


「…気ままなよそ者に、なにが分かるのよ!!」

乱暴にドアを開けて押し入った。濡れ髪のまま浴室のドアにもたれていた河童は、ぎょっとしたみたいに身を起こした。

「褒めてもらえると思ったのに…盤面ひっくり返されて怒鳴られる気持ちがわかる!?当然みたいに政略結婚の道具にされる気持ちは!?」

「お、おいおい、ちょっと…」

あとからあとから、バラバラの言葉が出てきた。それを止めることが出来ずに、目の前のひとに叩きつけ続けた。一つ残らず、全部。

「初めての将棋っ…うまくできて…褒めてくれるって…さっき言ってくれたみたいに、すごいって…天才って言ってもらえるって!!」

彼の目元が、何かをこらえるように歪んだ。…私、なにしてるんだろう。こんな通りすがりの河童に…八つ当たりみたいなこと言って。

「…その」

ごめんなさい、って言いかけた瞬間、チャイムが鳴った。

「るーかーちゃーん♪」


――――げ。


顔を見合わせた。…こめかみを汗が伝ってたのは、浴室の湿気のせいだけじゃないと思う。

「るーかーちゃーん、あーけーてー」

「…いっちゃん!?」

…君はどうしてこんな朝早く、こんなタイミングで来るのかな。

「おっ…俺どうしよう」

さっきの強気モードはどこにいったのか、彼はたちまち河童的な動きで洗面所をぐるぐる回り始めた。…なんか台無しなかんじだ。

「いっちゃんにバレたらお父さんに筒抜けなんだから!絶っっ対に見つからないで」

「お前が一旦近所の公園にでも連れ出せばいいじゃん!」

「一瞬でも、あなたに留守を任すなんてごめんです!」

「いや待ってくれよ、ここ蒸し暑い、せめて他の」「あぁもう時間がないの!!」

浴室のドアを開けて、むわっとする湯気の中に蹴り込み、出てこられないようにデッキブラシで閂をかけた。うっという呻き声のあと、摺りガラスをカリカリひっかく音がした。





「…どうしたの?こんな早くに」

いっちゃんは、今日もやっぱり汗だくだった。首にラジオ体操のスタンプカードをかけたままだ。ラジオ体操が終わって、一目散に走ってきたんだろうな、きっと。日なたの匂いがする髪を私の胸元におしつけて、いっちゃんがぐいっと顔を上げた。

「約束したがよ!今日、いっしょに図書館行くって!」

「あー…」

河童探しから逃れるために、そんなことを言った気がする。それで結局、当の河童に転がり込まれてるんだから、人生ってなにがあるか分からない…。

「午後から大雨降るって、お母さん言っとった。だから早めにいくがよ!」

ぐいぐい腕を引っ張られる。…ちょっとまって、このまま『アレ』を浴室に置いていくのは非常にまずいんだけど!

「あのね、いっちゃん…」

「流迦ちゃん、ぼく、ここ来る途中にすごいの見たがよ!」

「じゃ、そのすごいのの話が聞きたいな。…今日は図書館やめて、うちで遊ばない?」

「えー、図書館がよかよ!ぼく、『火の鳥』の続き読むが!」

「そうなのー、いっちゃんの大好きな、アイスクリームがあるのになー」

「食べる!」

いっちゃんの髪がふわりと降りた。かがんでサンダルの金具を悪戦苦闘しながら外して、玄関の隅っこにちょこんと揃えて、ふと動きを止めた。

「…こん、きっさね靴…誰ん?」

「こっこれは…」

じとり…と、うなじを汗が伝った。ひと月くらい風雨に晒したようなぼろぼろの靴が一足、玄関の隅っこに、ぐんにゃり倒れてた。

…あの河童はもう…!小学生でさえ、よその家では靴をそろえて脱ぐのに。

「うーん、なんだろ、お父さんの靴…かな?」

なんだか分からないフリをするしかなかった。

「ふぅん…」

いっちゃんの目が、すっと細まった。そのまま、まるで何も見なかったみたいに立ち上がり、私のほうをちらっと見た。

「じゃ、アイスの前に手ぇ洗うがー」

背中をイヤな汗が伝った。…まさかダメとは言えない。笑顔のまま凍りついていると、いっちゃんは無邪気に洗面所のドアを開け放った。

「わー…これ、なんけ?なんか悪かもん、閉じ込めたごたる」

「開けちゃダメ!!」

悲鳴に近い声が出た。いっちゃんがびくっと首をすくめて振り返る。

「ぅわっひったまがった!なんね、流迦ちゃん」

「う…その」

「これしたの、流迦ちゃんけ?」

浴室のドアに刺さったデッキブラシを、不審げに眺めまわしている。…うん、なにこれ、すごい不審。咄嗟のこととはいえ、何で私こんなことしちゃったんだろう。

「えと…えと…でっかいカマドウマがいて…」

……それだけ!それだけのことなの!だからもうデッキブラシのことは忘れて!

「はははは流迦ちゃん、ひっかぶいじゃな。よかけん、ぼくが追っ払ってやるが」

あぁん、まずい、男の子的使命感を刺激しちゃった!!…どうしよう、どうしよう、どうしよう…浴室に変な男が立ってたら、いっちゃん超びっくりするだろうなぁ…というか、こんな状況がお父さんにバレたら…最低でも、夏休み中自宅謹慎だろうなぁ…。

「んー、がんこなブラシじゃ。流迦ちゃん、これどうやって刺したんけ?」

なんか周りの景色がぐるんぐるん回り始めた。洗濯機に手をついて顔を伏せる。もう見てらんない。やめて、やめてってば、ちょっとほんとにやめて―――。

「どげんしたね、流迦ちゃん。顔真っ青ばい。夏バテ?……あ、とれた」


……きゃああぁあぁぁぁ!!


「―――カマドウマ、おらんがね」

いつもどおりの、いっちゃんの声がする。洗濯機に伏せてた顔をあげて浴室を覗く。一応、浴槽と天井も確認する。

「―――いない」

シャワーを使ったあとの、まだ湿っぽい浴室。…からっぽの。

強い日差しといっしょに、生暖かい風が吹き込んできた。ふと視線をあげると、半分開いた浴室の窓。

「逃げたかぁ…」

「ずいぶんジャンプ力ばあるカマドウマじゃ」

助かったけど。

逃げるのは、当たり前だけど。


河童は本当に消えてしまったような、ただの夢だったような、そんな気がした。


日向の匂いが、私のわきをすり抜ける。アッイスッ、アッイスッとリズミカルに口ずさみながら。

…ふと、玄関のほうに目をやる。逆光でよく見えないけど、あの汚いシューズは、なくなっているような気がした。…蝉の声が、遠く聞こえる。


それは私の日常。結局なにも変わらなかった、私の毎日。





「…でね、ラジオ体操の帰り道に見たが、ぼく」

アイスクリームを口の端につけながら、興奮気味に身を乗り出すいっちゃんに笑顔を返す。とても優しく笑えた気がする。…気が抜けたみたいに。

「どんな河童?」

「髪ぼさぼさで、甲羅しょって、赤い木の実食ってたがよ!河童って木の実も食うが?」

「さぁ、どうなのかな」

…グミの実がなる小道だ、きっと。いっちゃんも見てたなら、やっぱり夢じゃないんだ。さっきまで口げんかしてたのに、なんかすごく昔のことみたい。

「…なに、考えとうね?」


挿絵(By みてみん)


ぼんやりしてたら、いっちゃんが私の顔を覗き込んできた。

「…うぅん。河童のこと」

「…ふぅん」

いっちゃんは、それ以上なにも聞かなかった。この子は時折、ひとの気持ちを見透かしたような目をする。本当は私が思っているより、ずっと大人なのかな、君は。


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