第十三話◆陽炎〜幸〜◆
出会いは二年前
歳は同じ十六。
白い肌に漆黒の瞳、整端な顔立ち。舞踊でも嗜んでいたのかと思わせる、しなやかな振る舞い
たまに見せる柔らかな笑顔
女子の私でも見とれる、とても綺麗な子だと思った。
出会った日の事を、貴方は今でも覚えてる……?
「きゃっ」
足元で小さな音がして少女はつまづいた。
ガラガラと音を立て、木枠で出来た粗末な荷台が通り過ぎる。
ふと周りを見渡すが、皆気にもかけない、通り過ぎて行く。
皆、私が見えないの……?
手をついたまま私は、また涙目になる。
それを零さぬよう、久しぶりに見上げた空は夕暮れ。いつもなら、秋風に朱くそまる空
なのに、今にも泣きだしそうな空は灰色に染まっていた。
辺りでは提灯に火が灯り、行灯は光を放ち、刷り硝子には模様が浮かぶ。
皮肉な事に、涙で滲んだこの場所は、なお一層煌びやかだった……
妓達にとって、此処島原は牢獄でしかないのに。
“こんなんじゃあかん、弱音は吐けへん……泣いたらあかんえ……”
そう誓えば誓う程、涙が滲む。
(本間にへげたれや……)
此処に売られてから、半年が経った。なのに芸者(※当時、春を売るだけが仕事ではなかった)としての芽も、遊女としても、何一つ成長しない自分。
売られた運命を受け入れられず、私は泣き虫になった。
小さな頃から泣き虫だったのだけれど
大人の、妓の仮面を被った今でも、その下の涙は止める事が出来ずに居た。
「大丈夫……ですか?」 そんな私の目の前に、手が差し伸べられる。
「こんなん……」
平気。そう言いかけて顔を上げた私は、思わず目を丸くした。
――……きれい
とっさに私は、その手を取るのを躊躇う。
自分は醜女だから……と。
決して醜い訳ではない。少し手をかければ、上等な代物になるだろう。だけど自分を卑下する少女は、それに気付かない。
そして、差し出された手は相も変わらずそこにあった。少女は観念したようにその手を取り、立ち上がる。
俯いたままとはいえ、自分の顔は多分、耳まで真っ赤だったと思う。
(恥ずかし、早よう帰らな女将はんに怒られ……)
「――きゃっ」
「動かないで、下駄の鼻緒が切れてる」
よろけた私を、とっさに彼の腕が受け止める……綺麗な顔とは見合わないそれにスッポリ包まれ、私は固まった。
彼は頭を一撫でし、私を落ち着けると、足元に跪いて下駄の鼻緒を手際良く直してくれた。
「あ……有難う」
顔を赤らめた私に、貴方が優しく微笑む。
「――何してる?行くぞ」
遠くで貴方を呼ぶ声がして、貴方は何度も振り返りながら去って行った。
遠くから響いた貴方の名は、阿修羅。
穏やかな優しい笑顔、華のような人。
その日、私は恋に落ちた……
綺麗になりたい。偶然でも、またいつか貴方に会えるかもしれないから。
それから直ぐだった。貴方が私を訪ねてくれたのは……
貴方が私を訪ねて来てくれた時、ほんに涙が出る程嬉しかった
そんな私を、貴方は笑いながら抱きしめてくれた……
全部、全部覚えてる。
****
「嘘……や」
ウチの手から簪がスルリと落ちる
それは蝶を象った、鼈甲の簪。
出逢った頃、夜鷹(※遊女の最低ランク)程の価値しかなかったウチにとっては、とても豪気な代物。
貴方がくれたモノ
「任務が……あって、その、阿修羅は……多分」
そう言って、火邑は口ごもる。
今言った言葉も多分、耳には入らないだろう。
「…………」
ただ沈黙。其れは多分、永遠を感じる程の暗闇。
恐る恐る顔を上げた瞬間、火邑は目を丸くした。
「どうして――」
「……何で笑えるんやて思ってはるんどすえ?」
幸は、鼈甲の蝶を愛しそうに撫で、胸に抱いたまま瞳を閉じる。
貴方に逢って私は変わった。強くなった。辛い時こそ笑わなきゃいけないと悟った。
貴方に恋をして、ただ幸せだと笑う事を、
あなたを忘れない事を、強く生きる事を、私の全てを変えてくれた運命の人を忘れない強さを……
「火邑はんにも、いつか分かる日が来ますえ」
「……そうかい」
火邑は小さく呟き、帰り仕度を整え立ち上がる。
「火邑はん」
「え?」
「……嘘がお下手どすな」
「――ッ!?」
「有り難う……」
そう言って、幸はクスクスと小さく笑った。
ふと見上げた外は時雨……今日も人通りの絶えない此処は煌びやか。
あの日の景色はもうないけれど、目を閉じればあなたの笑顔がそこにある、いつでも逢える。
ねぇ、もうすぐ春が来て、夏が来て……、
「姐さん、時間どす」
「……シズ。しとしとと天露が落ちる、綺麗な朧月やねぇ」
そう呟いて、女は立ち上がり、颯爽と部屋を後にする。
「姐さん忘れもん?」
振り返る幸に、世話係のシズが不思議そうに問ふ。その言葉に幸は少し悲しそうに、憂いを帯びたように答えた……
「……いいえ」
そしてまた笑って見せる。
また……
あなたと迎えるはずだった三年目の秋が来る
その時は、泣いてもええどすな……?
天神である彼女の名は、お幸。
阿修羅が愛したヒト……