第2話 歪みはじめる日常
最推しそっくりの完璧美少女を盗み見する薔薇色の学園生活が、気づけば三か月も経っていた。そんな俺の日常はある日の放課後を境に、ゆっくりと確実に歪み始める。
俺は帰宅後に体操服を学園に忘れたことに気付き、自宅からとんぼ帰りしていた。こんな遅めの時間に校内へ入るのは初めてで、妙に心臓が落ち着かなかったのを覚えている。人気のない廊下は自分の足音だけがやけに大きく聞こえた。
誰もいないはずだと、そう思いながらクラスの扉をガラガラと横に引いた。
そして――固まった。
視界の先、窓際の一番後ろの俺の席に、信じられない光景があったのだ。
そこには俺の机にそっと手を置いた、「白鳳の天使」が立っていた。
「……えっ?」
「あっ!?」
声が勝手に漏れる。すると俺に気付いた彼女も、まるで悪事が見つかった子どものように、びくりと体を跳ねさせた。
彼女の大きな瞳がさらに見開かれている。お互い硬直して時間が止まった。夕暮れの残り光が窓から差し込み、彼女の横顔を淡く照らしている。その幻想的な姿は、やっぱり現実味がなかった。
「ゆ、雪城くん……?」
震えた声で、天使が俺の名前を呼んだ。
俺を知ってるの……!?脳が現実を処理しきれず唖然としてしまった。
「あっ、あっ、天宮さん……?」
情けない返事しかできない。心臓がうるさい。彼女はとても慌てた様子で、机から手を離した。
「……っ!あっ!ご、ごめんなさい!ちょっと、その……考え事をしていて……!」
お、お、俺の席で…???
「ち、違うの!ほんとに、違うから!」
「えっ??」
何が??
彼女はひどく動揺してる様子で、顔を真っ赤にしながら両手を胸の前でぱたぱたと振る。その動きに合わせて、ぽいんぽいんと巨乳が揺れて存在を主張した。
「ゆ、雪城くん、こんな遅い時間にどうしたの……?」
「あっ!俺は忘れた体操服を取りに来たんだけど……!」
凝視している大きく揺れる巨乳に撃沈され、意識が飛びかけてた俺は天使の音色で息を吹き返した。
「た、体操服!?」
「う、うん」
不思議と彼女は過剰に喰いついた。
「そ、そうだよな、体育あったもんね!うん、明日もあるよね!体操服は、洗濯しないとね!大事だよね!」
「……う、うん??」
なんでそんなに焦ってるんだろう?違和感を感じて少し冷静になれた。
普段の天使は冷めて感じるほど、もっと完璧で落ち着いている。余裕ったぷりで誰に対しても柔らかく微笑む美少女だ。こんなに言葉を噛んで、目を泳がせて、顔を真っ赤にして焦り動揺しまくってる姿なんて、見たことなんてない、らしくない。いつも見てたもん!
「こんな時間に……その、びっくりしたよ」
「俺もびっくりした、天宮さんがいると思ってなかったし……」
「……そう、だよね」
彼女の視線が、ほんの一瞬だけ俺の机に落ちるのを見逃さなかった。やっぱり何かあったのかな?そんな思いが頭をよぎった瞬間、なぜか彼女の顔がさらに赤くなった。
「やっ、ち、違うの!ほんとに、違うから!」
「えっ?ど、どうしたの??」
「いや、あの、違うっていうのは、その……!」
完全に挙動不審だ。
目を合せようとしてもついっと背ける。両手で自分の真っ赤な顔をぱたぱた仰ぎ、小さく跳ねて胸を盛大に揺らしながら、長い髪が乱れ舞う。体の線にぴったりフィットとした制服が、彼女の曲線を際立たせていた。
俺は今ここで、尊死するかもしれない。享年十六歳。
「ただ、その……少し、風に当たりたくて。窓の近くが、好きで……それで……」
「ああ、なるほど、座って良かったのに」
なんだか言い訳のように呟く彼女は、俺の言葉にまたまた大きく慌てふためいた。
「と、とにかく!私は帰るね!」
「えっ?あぁ、うん……?」
「また、明日ぁー!」
ほとんど逃げるような勢いで、彼女は鞄を抱えると、俺に少しぶつかりながら教室を飛び出していった。廊下を走る足音が遠ざかっていき、静寂が訪れた。
俺はしばらくその場から動けず、ようやくの緊張が解けた後、膝から崩れ落ちた。なんかフライパンで往復ビンタ食らった気分。そんな衝撃的な出来事と、光景であった。
「……天使と、まともに話をした……!しかも、俺の名前を呼んでた……!し、しかも、触れた……!!」
思いもよらない突然の目の保養に、魂を抜かれたようにふらふらと、自分の席に座る。まだこの空間に彼女の体温が残っているような気がした。机に掛けた体操服の袋に手を伸ばしたその時、床に白いものが落ちているのに気づいた。
「……あれ?」
それは可愛らしい白い装丁の日記帳だった。淡い色のカバーに、繊細な金の縁取り。どう見ても女子の持ち物だ。そして、数分前にここにいた人物は一人しかいない。
「……これって、まさか?」
心臓が嫌な音を立てた。
こ、こ、これを、どうするぅ?
机の上に置いておく?いや、誰かに拾われたらまずい。教室の机の引き出しもロッカーも、鍵がかかっている。というか、そもそも女子の机やロッカーを触るとか論外だろ。
窓の外はすっかり暗くなっていた。
どうしたものかと悩み困り果ててしまう。しばらく待って日が暮れても彼女は帰ってこなかった。俺は教室で悩み続けた末、深くため息をついた。
「……明日、天宮さんに直接返そう」
その日記帳を大事に鞄へと仕舞い、持ち帰ることにした。鼓動がやけにうるさいまま、俺は静まり返った校内を後にする。この選択が浅はかだったと、この後すぐに後悔することになった。
その日の夜、俺は珍しくネトゲにログインできなかった。
いつもなら手早く夕食を済ませ風呂に入り、日課のようにPCを立ち上げる。ログイン画面に流れるBGMを聞くだけで気持ちが落ち着き、フレンドチャットに顔を出せば、いつものメンバーがくだらない話で迎えてくれていた。
だが今日に限っては、ログインボタンにカーソルを合わせたまま指が動かない。どうしようもなく視線は、机の上に置かれた“ソレ”に吸い寄せられていた。
白く可憐な装丁の日記帳。
俺はゲーミングチェアにもたれ、天井を見上げる。
教室での俺は、間違いなく善意の塊だった。いや本当に。やましい気持ちなど微塵もなく、ただ「大事に保管して無事に彼女に返そう」と、それだけだった。誇っていいくらいの清らかさでそう思ってた。
だが、だがな……今、ここに、目の前に確かに存在する日記帳。この意味を俺はよく理解していなかった。
物理的に、俺の手の届く場所に……!
あの「白鳳の天使」の神秘の一端が、今ここにあるのだ……!
鞄から日記帳を取り出した時、ようやく事態のデカさを悟った俺。
ああ、日記帳の中身が、どうしてもどうしても、気になりすぎる……!見たい……!見たい……!!見ていいよねぇ……!!?
俺はごくりと唾を飲み込んだ。
「……いやいやいやいや!」
両手で頭を抱え込む。
駄目だ、絶対に駄目だ。これはプライバシーだ。覗き見はダメだ。俺はそんな最低な人間ではない。ボッチでオタクではあるが、最低ではない。重要な事なので二度言いました。彼女を盗み見してたのは常識の範囲内だ、そうだよね??
しかし、しかしだ。
この状況下で、この神秘の扉を前に開かずにいられる男子がいるだろうか?これは男の本能だ、神秘が目の前にあれば開き中を覗きたくなるのが男だ!俺は歴史に忠実なだけなのだ!!そうだろう!?
善と悪の俺が、脳内バトルを繰り広げていた。悶々と沸き上がる煩悩に俺の理性は浸食され、もう無理だった。
「あああぁ!もう無理だぁ!!おしまいだぁあ!!!」
俺は己の罪深さに叫びながら、日記帳を手に取った。
「ごめええぇん!エリシアたぁん!!」
これは青春の不可避な試練なのだと自分に言い訳しながら、邪に染まった俺はゆっくりと表紙をめくった。紙の擦れる音が、やけに大きく響く。
そして――俺はあまりの衝撃に目を見開いた。
「……は?」
綴られていたのは、想像していたような可愛らしい女子の日記でも、恋の悩みでもなかった。
白鳳の天使。完璧美少女の光の裏側。
そこで俺は、天使の……闇を覗くことになる。
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