契約のはずが、溺愛です 後編
アマデウスが離れを訪れたのは、昼下がりのことだった。
「やあやあ。調子はどう?」
いつもの軽い調子で、彼は応接室の椅子に腰を下ろす。
「おかげさまで……とても、安定しています」
メルセデスは丁寧に答えた。
それは、紛れもない事実だった。
発作は起きていない。
息苦しさも、身体を満たす熱も、ほとんど感じない。
(……本当に、不思議)
テオドールがそばにいるだけで、身体が静かに落ち着く。
触れれば、なおさら。
だがそれは、あくまで“契約の効能”なのだと、彼女は信じて疑わなかった。
「ふうん。数値もきれいだ」
アマデウスは簡易計測具を弄りながら、ちらりと二人に視線を向ける。
テオドールは壁際に立っている。
だが、その視線は終始、メルセデスに向けられたままだ。
彼女が少し姿勢を変えれば、気配が動く。
咳払い一つで、距離が自然と縮まる。
(……あ)
アマデウスは、内心で吹き出しそうになった。
(これはもう、“診察”いらないやつだな)
「ねえ、テオ」
「何だ」
「最近、寝不足じゃない?」
「……問題ない」
即答だった。
だが、その返事よりも先に、アマデウスは把握している。
夜中、彼が何度も目を覚ましていること。
隣の寝室の気配を、無意識に確かめていることを。
契約は白い結婚ではなかったが、夫婦の寝室は別だ。
一緒では、メルセデスが落ち着いて眠れないのではないかとの、配慮からだった。
「ふーん。まあいいや」
あっさり引く。
メルセデスは、そのやり取りに居心地の悪さを覚え、視線を落とした。
(……やはり、ご迷惑を)
自分がいるせいで、彼の生活が乱れているのではないか。
騎士としての務めに、支障をきたしているのではないか。
「……あの」
小さく声を上げる。
「何だ」
テオドールは、即座に応じた。
「わたくし、もうずいぶん楽になりましたから……
あまり、お気遣いなさらずとも……」
言葉を選びながら、慎重に続ける。
「その……必要以上に、時間を割いていただくのは……」
その瞬間。
室内の空気が、僅かに変わった。
テオドールの眉が、ほんのわずかに寄る。
だが、何も言わない。
代わりに――
「無理はしていない」
それだけを、静かに告げた。
「……はい」
メルセデスは、それ以上踏み込めなかった。
(……やはり、契約)
必要だから、そうしているだけ。
そうでなければ、説明がつかない。
アマデウスは、二人を交互に見てから、口元を押さえる。
(あー……これは、気付いてないな)
「ねえ、メルセデス嬢」
「はい?」
「君さ。ここに来てから、誰かに冷たくされたこと、ある?」
「……え?」
不意の質問に、彼女は首を振った。
「いいえ。皆さま、とても……親切で……」
少し言い淀み、続ける。
「……過分なほどに」
アマデウスは、満足そうに頷いた。
「だよね」
テオドールは何も言わない。
その表情も、微動だにしない。
(……完全に、自覚なし)
アマデウスは、内心でにやりと笑う。
(いやあ、これは……後で知ったら、相当くるぞ)
診察を終え、立ち上がりながら、彼は軽く告げた。
「順調。文句なし」
「ありがとうございます」
メルセデスが頭を下げる。
アマデウスは最後に一度だけ、テオドールを見た。
(幸せそうだねえ。……君は)
もちろん、口には出さない。
出す必要がないからだ。
――この優しさが、どれほど深いものか。
彼女が知るのは、まだ先の話。
◆
昼下がりの離れは、穏やかな静けさに包まれていた。
陽だまりの中、メルセデスは小さな卓で針仕事をしている。
指先を動かす彼女の傍らで、給仕を終えた侍女が、穏やかな表情で一礼した。
「お疲れではございませんか、若奥様」
「いいえ……大丈夫です」
そう答えると、侍女はほっとしたように微笑んだ。
「それは何よりでございます。若様が知れば、きっと安心なさいます」
(……若様――テオドール様が)
胸の奥が、微かに揺れる。
「テオドール様は、いつも……
その、わたくしの様子を気に掛けてくださいますから」
侍女は、何気なく頷いた。
「はい。昔からそうで……いえ、いえ」
途中で言葉を切り、首を振る。
「いえ、昔からではありませんでしたね」
「……?」
メルセデスは、針を止めた。
「若様は――本当に、他人に興味を示されないお方でした」
淡々とした語り口。
事実を述べるだけの、穏やかな声。
「え……」
「夜会でも、どなたに声を掛けられても、必要最低限で。ご令嬢方には、特に」
メルセデスの胸が、きゅっと締め付けられる。
(……それは、騎士として、節度を重んじていらっしゃるだけ……)
そう、思い込もうとする。
「ですから、初めは皆、噂しておりました。『若様はご結婚なさらないのでは』と」
侍女は、そこで柔らかく笑った。
「けれど、若奥様がいらしてからは、まるで別の方のようで」
(……違う)
(違います)
(それは、治療のため……)
「視線も、声も、歩調も。すべて、若奥様に合わせておられます」
針が、指先から落ちた。
「……あ」
慌てて拾おうとした瞬間、侍女が先に屈み、拾い上げる。
「どうぞ」
そして、悪気のない調子で続けた。
「昨夜も、若奥様が眠られるまで、灯りを落とされませんでしたし」
(……気遣い)
(それだけ)
(弱いわたくしに、配慮してくださっているのです)
「夜半にお苦しくなられないか、何度も様子を聞きにいらして」
(当然だ)
(契約で、治療を請け負っているのだから)
そう、必死に言い聞かせる。
「……あの」
メルセデスは、震えそうになる声を、どうにか抑えた。
「それは……わたくしが、体調を崩しやすいから……」
「はい」
侍女は、何の疑いもなく頷く。
「若様は、そういうお方ですから」
――だからこそ。
その言葉が、胸に深く突き刺さる。
(……違う)
(違う)
(期待してはいけない)
胸の奥で、静かに、強く、自分に言い聞かせる。
(これは、契約)
(優しくされるのは、役目だから)
(もし、勘違いをしてしまえば――)
指先が、ぎゅっと強張る。
(契約が終わる時)
(きっと、もっと辛くなる)
それだけは、耐えられない。
「……ありがとうございます」
メルセデスは、微笑みを作った。
「皆様に、ご迷惑をお掛けしないよう……努めます」
侍女は、少し切なげに、しかし何も言わず、一礼して下がった。
扉が閉じる。
静寂。
メルセデスは、胸元にそっと手を当てる。
(……何も、特別ではない)
(特別であってはいけない)
そう思い込むように、深く息を吐いた。
――それでも。
胸の奥に残る、わずかな温もりだけは、どうしても否定できずにいた。




