契約のはずが、溺愛です 中編
ベルンシュタイン伯爵邸の離れに仕える使用人は、必要最低限の人数だけが選ばれていた。
年嵩の執事補佐。
古参の侍女が二人。
庭の手入れを任される下僕が一人。
いずれも、テオドールを幼い頃から知る者たちだった。
だからこそ――彼らは、揃って言葉を失った。
(……あの、若様が)
(あんなにも)
(あんなにも、気に掛けておられる……!?)
椅子を引く。
風向きを確かめる。
歩幅を合わせる。
疲れの兆しを見逃さない。
命じる声は少なく、表情も変わらない。
だが、その行動のすべてが、若奥様を中心に組み立てられている。
(信じられない……)
(あの若様ですよ?)
(社交界で、どれほど令嬢方に塩対応だったか……)
本邸で働く侍女たちの中には、かつて何度も視線を向け、微笑みを向け、それでも完全に無視されてきた者もいる。
その“熱い視線”を、若様は一切、覚えていない。
――それが今。
若奥様が少し咳き込めば、即座に距離を詰める。
立ち止まれば、無言で支える。
(……別人では?)
使用人たちは、内心で戦慄していた。
さらに、彼らはもう一つの事実に気づく。
若奥様の荷物が――あまりにも、少ない。
衣装は控えめ。
装身具も最低限。
日用品も、必要な分だけ。
そして。
(……レルヒ子爵邸から、侍女が付いてきていない)
普通なら、ありえない。
特に、体調が優れない令嬢なら尚更だ。
(……大切に、されていなかったのか)
誰も口には出さない。
だが、全員が同じことを思った。
だから。
若様が過保護なら。
自分たちは、それ以上に大切にしよう。
それが、この離れの暗黙の合意になった。
「奥様、お茶をどうぞ。少し温めにしております」
「歩かれた後ですから、こちらにお座りを」
「お疲れでしたら、すぐにお部屋を整えます」
誰も、理由を聞かない。
誰も、“契約”など口にしない。
若様が、あれほどまでに守ろうとする存在なのだ。
(……ならば)
(この方は、ベルンシュタインの“若奥様”だ)
それだけで、十分だった。
一方。
メルセデスは、その視線の意味を知らない。
自分は、招かれざる客なのだと。
必要だから、置かれているのだと。
だから、今日も胸の奥で、そっと繰り返す。
(……これは、契約)
その言葉だけが、
この優しさに溺れてしまわないための、唯一の支えだった。
◆
それは、昼下がりのことだった。
離れの小さな書斎で、テオドールは書類に目を通していた。
軍務と領地管理の報告書を、淡々と片付けていく。
その傍らで、メルセデスは長椅子に腰掛け、刺繍枠を手にしている。
静かな時間だった。
使用人たちは、必要以上に音を立てぬよう、慎重に動いていた。
――その時。
「……っ」
かすかな息の乱れ。
それを聞き取ったのは、執事補佐ではない。
古参の侍女でもない。
テオドールだった。
彼は顔を上げるより早く、椅子を引いた。
「こちらへ」
短い言葉。
だが命令口調ではない。
メルセデスは、反射的に立ち上がろうとして、膝が揺れた。
次の瞬間。
書類が床に落ちる音がした。
テオドールは、躊躇なく机を離れ、彼女を抱き留めていた。
「……すみま、」
言いかけた言葉は、最後まで届かない。
彼は何も言わず、長椅子に座り直し、自分の膝に彼女を乗せた。
「……大丈夫だ」
囁き声。
低く、確かな響き。
片腕で背を支え、もう一方の手で、そっと彼女の手首を取る。
(……あ)
使用人たちは、息を呑んだ。
魔力の循環が安定する瞬間を、彼らはもう知っている。
だが――
今の動きには、理由が多すぎた。
距離が近すぎる。
抱き方が慣れすぎている。
何より――
(……怖がらせない)
その配慮が、完璧すぎた。
「無理をするな」
「……はい」
それだけの会話。
だが、テオドールの指は、無意識に彼女の背を撫でていた。
一定のリズムで。
落ち着かせるための、動作。
(……あの若様が)
(人前で)
(女性を、膝に)
古参侍女は、静かに目を伏せた。
執事補佐は、視線を逸らし、深く息を吐く。
――察した。
これは“治療”ではない。
これは“必要だから”でもない。
(……守っている)
(守ることが、前提になっている)
やがて、メルセデスの呼吸が整う。
「……もう、平気です」
「そうか」
テオドールは、すぐに降ろそうとしなかった。
数拍、待つ。
彼女が完全に落ち着いたのを確かめてから、ようやく腕を緩めた。
「休め」
「はい……」
彼女が部屋へ戻るのを見届けてから、テオドールは書斎に戻る。
床に散らばった書類を拾い上げる。
まるで、何事もなかったかのように。
――だが。
使用人たちは、互いに視線を交わした。
誰も、何も言わない。
言う必要がなかった。
(……これは)
(完全に)
(奥様、だ)
その日から。
離れの使用人たちの中で、
「契約」という言葉は、完全に消えた。
残ったのはただ一つ。
――若様が、心から大切にしている方。
それだけだった。




