契約のはずが、溺愛です 前編
ベルンシュタイン伯爵邸は、王都でも指折りの格式を誇る屋敷だった。
本邸から少し離れた場所に設けられた離れ――
それが、テオドールとメルセデスの新居とされた。
「こちらです」
簡潔な案内とともに馬車を降りたメルセデスは、思わず息を呑む。
本邸に比べれば控えめとはいえ、離れは一棟丸ごとが住居として整えられており、庭園に面した回廊や、日当たりの良い居間まで備えられている。
(……立派すぎるくらい)
その感想を口にするより先に、テオドールが静かに言った。
「まずは、家族に挨拶を」
本邸の応接間には、すでに人が揃っていた。
ベルンシュタイン伯爵と夫人。
そして、テオドールの兄と、その妻。
「ようこそ、メルセデス嬢」
伯爵夫人は柔らかな笑みを浮かべて立ち上がる。
その視線に、探るような鋭さはない。
そこにあるのは、純粋な歓迎の色だった。
「遠いところを――」
「長くはなりません」
テオドールが、淡々と遮る。
一瞬、空気が止まった。
「彼女は、まだ体調が安定していません」
事実を述べただけの言葉。
だが同時に、揺るがぬ意思表示でもあった。
「挨拶のみで、失礼します」
伯爵は一瞬だけ目を瞬かせ、すぐに苦笑する。
「……相変わらずだな、お前は」
不満の色はない。
「分かった。今日はそれでいい」
形式的な言葉だけが交わされ、立ち話のまま、あっさりと終わる。
歓迎の席も、祝いの言葉も、茶菓子もない。
メルセデスは、その様子に小さく胸を縮めた。
(……やはり、わたくしは)
治療のために迎え入れられただけの存在。
長居するべきではない、招かれざる客。
「失礼致します」
深く頭を下げると、伯爵夫人が何か言いかけた。
だが、テオドールはすでに彼女の背に手を添えている。
「こちらへ」
有無を言わせぬ仕草だった。
離れへ戻る途中、メルセデスは口を開く。
「……ご家族に、ご迷惑をおかけしてしまったのでは」
「問題ありません」
即答だった。
「……そう、ですか」
小さく微笑む。
(……当然ですよね)
歓迎される理由など、ないのだから。
◆
一方、本邸の応接間では、まったく別の空気が流れていた。
「冷たすぎやしないかしら」
夫人がため息をつく。
「あの子、疲れているようには見えなかったわよ」
「いや、疲れている“かもしれない”からだろう」
伯爵が肩を竦める。
「昔からだ。ああと決めたら、周りが見えなくなる」
兄は苦笑しながら腕を組んだ。
「それにしても……せっかく義妹が来たというのに」
「本当よ。お茶くらい、一緒にしたかったわ」
夫人は名残惜しそうに扉を見る。
「とても、可愛らしい方だったわね」
誰もが同じ感想を抱いていた。
だが――
「……あの子が疲れる」
その一言を盾に、テオドールはすべてを拒んだ。
それが、彼なりの最大限の配慮であり、
誰よりも早く、彼女を“守る側”に立った証だった。
そのことを――
メルセデスだけが、まだ知らない。




