契約結婚
応接間の空気は、ひどく静かだった。
「――治療を目的とした婚姻契約。期間は一年」
アマデウスが、いつになく真面目な声で告げる。
「生活を共にし、定期的な魔力循環を行う。
その結果、双方の体調が安定すれば、契約は更新も解消も自由。
強制は一切なし」
机の上には、すでに用意された契約書があった。
王国法に基づく正式な婚姻契約――
ただし、その条項の大半は「治療」と「相互同意」に割かれている。
「世間向けの理由は、こちらで整えるよ」
アマデウスは軽く指を鳴らした。
「功績ある騎士への縁組。
伯爵家次男と子爵家令嬢の政略結婚。誰も疑わない」
疑う理由など、どこにもない。
むしろ、出来すぎているほどだ。
メルセデスは、膝の上で手を重ねた。
「……確認、させてください」
声が震えないよう、慎重に言葉を選ぶ。
「この契約は……治療が主目的、なのですね」
「当然です」
答えたのは、テオドールだった。
即答だった。
一切の迷いも、含みもない。
「情は不要。義務は最小限。
必要なのは、魔力循環が成立する環境だけです」
淡々とした声音。
それは、あまりにも合理的で、正しくて――
メルセデスの胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「……期限が来たら」
「状況を見て判断します」
やはり、即答。
「私の意思も……尊重、されますか」
その問いに、テオドールはわずかに眉を動かした。
まるで、問われる意味が分からないとでも言うように。
「勿論です」
それ以上の言葉はなかった。
――それだけ。
そこに、温度はない。
少なくとも、言葉の上では。
(……そう、ですよね)
メルセデスは、静かに納得しようとした。
これは治療。
これは契約。
彼は騎士で、合理を選ぶ人。
自分に向けられているのは、善意と責任感だけだ。
指先は、膝の上で固く絡み合っていた。
契約書の文字を追っているはずなのに、視線はどこか宙を彷徨っている。
その様子を見て、アマデウスがわざとらしく咳払いをした。
「まあまあ、そんな顔しないでよ。
命を削るような契約じゃないんだから。
寧ろ、命を増すと言っていい」
軽い調子で、片目をつぶる。
「君にとっては“治療”、テオにとっては“回復手段”。
お互い助かる。完全なる利害一致だ」
空気を和ませるつもりだったのだろう。
「それにさ、伯爵家の騎士がわざわざ申し込む縁談だよ?
普通なら“ありがたく拝受”ってやつだ」
その言葉に、メルセデスは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
(……そう、ですよね)
胸に浮かんだのは、安堵ではなく、静かな納得だった。
(わたくしには、これ以外の価値は……)
病弱で、社交にも出られず、役に立つのは体質だけ。
それでも“助かる”と言われるのなら、それで十分なのだと。
「……ご迷惑をおかけしてしまうのでは、と」
小さな声が零れる。
「治療とはいえ……わたくしのような者が、ベルンシュタイン伯爵家に」
アマデウスが、しまった、という顔をした。
「いや、そういう意味じゃ――」
だが、その瞬間。
「問題ありません」
遮るように、テオドールが言った。
あまりにも即座で、断定的な声だった。
「合理的です」
それだけ。
庇う言葉でも、慰めでもない。
ただ、事実を述べただけのような口調。
メルセデスは、僅かに息を呑んだ。
(……合理的、だから)
それ以上の理由は、ない。
そう理解した瞬間、胸の奥で何かが、すとんと落ち着いた。
「……はい」
彼女は微笑む。
「でしたら、わたくしは、この契約に従います」
それは受諾であり、同時に、自分を押し殺す選択でもあった。
そう告げた瞬間、テオドールの肩から、ほんの僅かに力が抜けた。
気付いたのは、アマデウスだけだっただろう。
アマデウスだけが、二人を見比べ、内心で頭を抱える。
(……あーあ。完全に、ズレた)
その違和感が、後に致命的なすれ違いになることを、この時点で理解していたのは――彼だけだった。
だが、指摘はしなかった。
「決まりだね」
アマデウスが、明るく締めくくる。
「じゃあ、ここに署名を」
羽根ペンが差し出される。
メルセデスは一呼吸置き、名前を書いた。
少し遅れて、テオドールも迷いなく署名する。
躊躇はない。
確認もない。
まるで、最初から決まっていたかのように。
インクが乾く。
それが、この契約の成立を告げる合図だった。
「――これで、夫婦だね」
アマデウスが、軽い調子で言う。
メルセデスは、その言葉の重さに、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
夫婦。
けれど、それは名前だけ。
(……契約だから)
そう、心の中で繰り返す。
感情を持ち込んではいけない。
期待してはいけない。
これは、互いのための合理的な選択なのだから。
顔を上げると、テオドールがこちらを見ていた。
その視線は真っ直ぐで、静かで――
なぜか、逃げ場がないほどに近い。
「よろしくお願いします」
形式的な言葉。
けれど、その声だけは、妙に低く、深く響いた。
メルセデスは、小さく頷く。
「……こちらこそ」
こうして。
治療のための契約結婚は、静かに成立した。
それが、互いの人生を根底から変えるものになると――
まだ、二人とも、正しく理解してはいなかった。




