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病弱令嬢、夜会で倒れる 後編

 不意に、強い腕に引き寄せられる。

 視界が回転し、次の瞬間、背中に確かな温もりを感じた。

「……っ」

 低く息を呑む気配が、耳元で震える。

 支えられている――

 そう認識した途端、張り詰めていた身体から、すっと力が抜け落ちていった。


 ぐらついていた視界が、わずかに定まる。

 胸を締め付けていた息苦しさが、ゆっくりとほどけていく。


(……あら……?)


 おかしい。

 倒れかけたはずなのに、苦しさが、急速に遠ざかっていく。


 逃げ場のなかった熱が、どこかへ流れ出していくような感覚。

 代わりに、ひんやりと澄んだ空気が、胸の奥へと満ちていった。


 腕の中の重みを受け止めながら、テオドールは息を詰めた。

 軽い。

 驚くほどに、細く、脆い。

 それ以上に――


(……身体が軽い)


 胸の奥を蝕んでいた枯渇感が、一瞬にして和らいだ。

 いつもなら、夜会の終盤には現れるはずの倦怠がない。

 思考が冴え、呼吸が深くなる。


 ――ありえない。


 混乱しながらも、腕を緩めることはしなかった。

 無意識のうちに、彼女を包み込むように抱き留めている。


「大丈夫ですか」


 低く抑えた声が、自分のものとは思えなかった。

 返事はない。

 だが、腕の中で、彼女が小さく息を吸ったのを感じる。

 規則正しい呼吸。

 わずかに、落ち着いてきている。

 その事実に、理由の分からない安堵が込み上げた。


 ――離したくない。


 そんな考えが浮かんだことに、テオドールは強く眉を寄せる。

 理屈のない衝動。

 騎士として、あまりにも不適切だ。

 それでも、彼女を支える腕には、自然と力がこもった。


 周囲のざわめきが、遅れて戻ってくる。

 誰かが名を呼び、使用人が駆け寄ってくる気配がした。

 テオドールは、静かに顔を上げる。


「別室を」

 短く、しかし揺るぎない声音だった。

「この方を、休ませます」


 ――それが、この二人の関係の始まりだった。



 重厚な扉が閉じられると同時に、夜会の喧騒は嘘のように遠のいた。

 柔らかな照明に満たされた控えの間で、メルセデスは長椅子に横たえられる。


 扉は閉められず、開かれたままだ。

 異性と二人きりになることを避ける――騎士として、ごく当然の配慮である。

 廊下の向こうを、使用人たちが忙しなく行き交っていくのが見えた。


「……失礼します」


 そう断ってから、テオドールは彼女の背を支え、クッションを整える。

 その動作は必要最低限ながら、驚くほど丁寧だった。

「……申し訳、ありません」

 かすれた声が、ようやく零れる。


「ご気分は」

「……少し、楽に……なりました」


 そう答えてから、メルセデスは自分でも驚いたように、そっと呼吸を整えた。


 胸の奥に居座っていた息苦しさは、確かに薄れている。

 先ほどまで身体を満たしていた熱も、引き潮のように遠ざかっていた。

(……どうして)

 理由は分からない。

 ただ、横に立つこの騎士が近くにいるだけで、身体が静かに落ち着いている気がした。


「……倒れる前から、具合が悪かったのですか」


 問いかけは低く、抑えられている。

 そこに、責める響きはなかった。


「……ええ。よく、あることですので」


 その言葉に、テオドールの眉が、わずかに動く。

「……よく、ある?」

「はい。少し休めば……いつも、治まります」

 慣れた調子で言い切った瞬間、室内の空気が、ほんのわずかに張り詰めた。


 テオドールは、何かを言いかけ――

 結局、口を閉ざす。


 代わりに、長椅子の背に手を置いたまま、彼女の様子を注意深く見守っていた。

 近い。

 そう気づいた途端、メルセデスは胸の奥が、小さく波立つのを感じた。


(……けれど)


 不思議と、嫌ではなかった。

 むしろ、この距離が保たれている限り、発作が戻ってこないような――

 そんな錯覚すら覚える。


「……先ほど」


 沈黙を破ったのは、テオドールだった。


「貴女を支えた時、私も……少し、楽になった」

 言葉を選ぶような、短い間。

「気のせいかもしれませんが」


 その視線が、ほんの一瞬だけ、自分の手元に落ちたのを、メルセデスは見逃さなかった。


「……そう、ですか」


 どう答えるべきか分からず、彼女は小さく微笑む。

「私も……同じように感じました」

 それ以上、言葉は続かなかった。


 理由は分からない。

 意味も、名も、与えられない違和感。


 ただ――

 確かに、そこに“何か”があった。


「ベルンシュタイン伯爵家次男、テオドールと申します」


「申し遅れました。レルヒ子爵家の娘、メルセデスと申します。お助けくださり、ありがとうございました」


 お互いに名乗り、見つめ合い――沈黙が落ちる。

 扉の外で、控えめな足音が止まった。


「ベルンシュタイン卿。……少々、お時間を」


 使用人の声に、テオドールは静かに頷いた。


「すぐ戻ります」

 そう告げてから、一瞬、躊躇うように視線を落とす。

「……無理はなさらず」


 それだけを残し、彼は部屋を出て行った。

 扉が閉じる。


 残された静寂の中で、メルセデスは胸元に、そっと手を当てた。

 ――まだ、楽だ。


 その事実だけが、不思議な余韻となって、心に残っていた。


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