崩れ落ちた前提
言葉が、追いつかなかった。
テオドールの声は低く、淡々としていて、そこには感情の昂りも、劇的な響きもない。
それなのに――一つ一つが、確かに、メルセデスの中に積み上げてきた前提を、正確に打ち抜いていた。
(……契約、では、なかった?)
頭の中で、何度も反芻する。
けれど、どこを探しても、反論の糸口が見つからない。
治療だけなら、別の方法があった。
それを選ばなかったのは、合理性の欠如ではない。
最初から、選択肢に存在しなかったのだ。
(……わたくしは)
“役目を終えたら去る存在”。
“いずれ必要とされなくなるもの”。
そう定義してきた自分自身が、音も立てずに崩れていく。
胸の奥で、何かがひび割れる感覚がした。
契約だから。
そう言い聞かせることで、期待しないでいられた。
傷つかないで済んだ。
拒まれる可能性を、最初から排除できた。
――それが、違った。
(……最初から、妻……?)
その言葉が、遅れて、深く沈み込んでくる。
理解した瞬間、呼吸が浅くなった。
愛されていない、と思っていた。
それは思い込みですらなく、事実として受け入れてきた前提だった。
だが今、それが根底から否定される。
(……では、わたくしが感じていたものは)
安心も、安らぎも。
傍にいるだけで身体が楽になる感覚も。
夜、静かに隣に立たれるだけで、胸の奥が落ち着くことも。
すべて、契約の範囲外だった。
喉が、きゅ、と鳴る。
視界が滲んだ理由が、分からなかった。
泣くつもりなど、なかったのに。
涙は、音もなく、ただ落ちる。
拭うという選択肢すら、思い浮かばなかった。
(……わたくしは)
愛されていない前提で、
愛されている振る舞いを、受け取っていた。
その事実が、遅れて、胸を締めつける。
――知らなかった。
彼の沈黙が、言葉足らずだったこと。
無関心ではなく、当然すぎて説明されなかっただけだということ。
今さら理解しても、すぐには追いつけない。
けれど。
胸の奥で、ずっと凍りついていた場所が、じわりと、痛むほどに熱を持ち始めた。
(……前提が、違っていた)
そう気付いた瞬間。
メルセデスの世界は、音もなく、完全に組み替えられていた。
言葉を失ったままのメルセデスに、テオドールは何も言わず、少しだけ顔を近付けた。
それだけだった。
威圧ではない。
けれど、室内の空気が、確かに変わる。
「……っ」
思わず一歩、下がろうとして――
背中から寝台に倒れ込むのを、テオドールは片手で支えた。
いつの間にか、寝台に片膝が乗っている。
メルセデスを包み込むように。
逃げ道を計算した動きだった。
騎士のそれだ。
「メルセデス」
命令ではない。
促しでもない。
「俺を、見てくれ」
メルセデスは、反射的に従ってしまう。
身体が先に、理解していた。
テオドールは、メルセデスの後頭部を持ち上げるように手を回す。
夜色の髪が、さらりと揺れた。
影が落ちるぎりぎりの距離。
テオドールの顔が落ちてきそうな感覚に、メルセデスは、軽い酩酊のような感覚を覚えた。
「……ここにいる限り、貴女は倒れない」
断言。
「俺がいる」
理由の説明は、それだけだった。
メルセデスの胸が、早鐘を打つ。
逃げたいわけではない。
けれど、逃げられないと理解した瞬間、
感情が、制御を失いかける。
「……テオドール、様……」
名を呼ぶと、彼の視線が、僅かに揺れた。
それを悟らせないまま、彼は静かに手を伸ばす。
完全に。
彼女の世界から、退路が消える。
「離れようとする理由が、まだ理解できない」
低い声。
「だが」
一拍置いて。
「理解できないからといって、許容する理由にもならない」
理屈が、静かに首を絞める。
「貴女がここにいることは、俺にとって“前提”だ」
視線が合う。
近い。
呼吸の温度が、分かる距離。
「……安心してくれ」
そう言って、テオドールの指先が、そっとメルセデスの唇に触れる。
力は込められていない。
ただ、そこにあると示すだけ。
「逃げる必要はない」
優しく、しかし逃走不能の声。
「俺が、離さない」
宣言だった。




