離れる決意
それは、突然のことではなかった。
むしろ、あまりにも静かに、自然に――
メルセデスの中で、結論は形になっていった。
(……魔力は、安定している)
朝、目を覚ますと、かつて常に胸の奥にあった重さは、今はほとんどない。
眩暈も、息苦しさも、ここ数日は顔を出していなかった。
(……契約の目的は、果たされつつある)
それは、喜ばしいことのはずだった。
けれど。
胸の奥に広がるのは、得体の知れない不安だった。
◆
「……本日は、本邸にお邪魔して、書庫で過ごそうと思います」
朝食の席でそう告げると、テオドールの手が一瞬止まった。
「書庫は冷える」
「懐炉がございますから」
即答だった。
「……では、私も――」
「どうぞお気遣いなく」
メルセデスは、視線を落としたまま、柔らかく遮る。
「少し……一人で、考え事をしたくて」
その言葉に、テオドールは黙り込んだ。
拒絶ではない。
だが、距離を取られたことは、はっきりと伝わった。
「……分かった」
そう言った彼の声が、わずかに硬いことに、メルセデスは気付かないふりをした。
◆
書庫は、静かだった。
考え事をするには、ちょうどいい。
一日中、離れているのは初めてではない。
今まで何度もあったことだ。
騎士の役目は、それほど軽いものではない。
王宮の警備に、王都の警邏、そして郊外の森での魔物討伐。
だがそれでも、日をまたいで邸を空けることは、一度もなかった。
テオドールは、泊まりの任務は免除してもらったのだと、アマデウスから聞いた。
今までの功績から認められた、特例だという。
(甘えてばかりいてはいけない)
(これ以上、テオドール様の重荷になっては……)
だが、メルセデスは小さく吐息する。
魔力の流れが、昨日までとは違う。
(……少し、重い)
胸の奥が、じわりと熱を持つ。
「……大丈夫」
そう呟いて、深呼吸をする。
これは、必要なことだ。
この距離に、慣れなければならない。
(いずれ、こうなるのだから)
――だが。
時間が経つにつれ、視界が揺らぎ始めた。
指先が、冷たい。
息を吸うたびに、胸が詰まる。
(……おかしい)
魔力が溜まり始めているのが、はっきりと分かった。
「……まだ、平気……」
そう言い聞かせて、椅子の背に手をつく。
(そう……護符。護符の結晶を、作れば――)
(溜まった魔力を外に出せば、大丈夫)
だが、立ち上がろうとした瞬間、視界が暗転した。
◆
同じ頃。
テオドールは、離れの執務机の前で、無意味に書類を見つめていた。
文字が、頭に入ってこない。
胸の奥が、妙に落ち着かない。
(……何だ)
理由は分からない。
だが、体が重い。
呼吸が、浅い。
魔力が、いつもより早く消耗している感覚があった。
訓練をしたわけでもないのに、魔物討伐を成し遂げた後のような感覚すらある。
「……」
無意識のうちに、立ち上がっていた。
(メルセデス)
名を呼ばずとも、足は書庫へ向かう。
◆
書庫の扉を開けた瞬間。
「――ッ」
倒れている彼女の姿が目に入った。
「メルセデス!」
駆け寄り、抱き起こす。
腕の中の体は、熱を帯び、震えていた。
「……っ、申し訳……ありません……」
かすれた声に、テオドールは首を振る。
「いい」
短く、強い言葉だった。
「今は、何も言うな」
彼女を抱えたまま、椅子に腰を下ろす。
その瞬間。
――魔力が、循環し始めた。
はっきりと分かる。
胸の奥が、楽になる。
同時に、彼女の震えも、徐々に収まっていく。
「……」
二人とも、何も言わなかった。
だが。
分かってしまった。
(離れたからだ)
(……一緒にいなかったから)
視線が、絡む。
そこにあったのは、安堵ではない。
恐怖だった。
◆
「……無理をしたのか」
テオドールの声は、低く、抑えられている。
「……いいえ」
メルセデスは、小さく首を振る。
「必要なことを、しただけです」
その言葉に、彼の眉が寄った。
「何のために」
答えは、すぐに返ってこなかった。
沈黙が、重く落ちる。
やがて、彼女は、ゆっくりと口を開いた。
「……ずっと、考えていました」
「――」
「契約は……永遠では、ありません」
その一言で、空気が凍った。
テオドールの鼓動が乱れた。
魔力が、微かに揺らぐのが、分かった。
「……何を言っている」
「治療が終われば……わたくしの役目も、終わります」
それは、彼女なりの誠実さだった。
だが。
彼の世界を、根底から揺るがすには、十分だった。
「……役目?」
声が、わずかに掠れる。
「はい」
穏やかに、そう言ってのける。
「ですから……今から、慣れておこうと……」
その先は、言葉にならなかった。
彼女の体が、再び、わずかに震え出す。
テオドールは、歯を食いしばった。
けれど余計な力を込めず、そっとそっと、包み込むようにメルセデスを抱き締める。
(……何かが、おかしい)
(致命的に、何かが)
だが、この時点では、まだ分からない。
ただ一つ、確かなのは。
二人とも、同じ恐怖を抱きながら、まったく違う方向を見ているということだけだった。




