契約期限と不安と護符と 前編
季節が、ひとつ移ろいだ。
ベルンシュタイン伯爵邸の庭には柔らかな緑が満ち、離れの窓には穏やかな陽光が差し込んでいる。
メルセデスは、以前のように頻繁に眩暈に襲われることがなくなっていた。
(……楽、だわ)
朝起きるのが怖くない。
歩くたびに、足元を確かめる必要もない。
胸の奥を締め付けていた、あの得体の知れない苦しさも、いつの間にか遠のいている。
それが、嬉しくないはずがなかった。
――けれど。
「最近は、本当に安定しているね」
診察と称した観察に訪れたアマデウスが、そう言って目を細めた。
「魔力循環も問題なし。発作の兆候も見当たらない」
テオドールは、その言葉に頷く。
「当然だ」
その声音には、迷いがない。
「この生活を続けていれば、彼女は安定する」
続けていれば。
その一言に、メルセデスの胸の奥が、ひくりと揺れた。
(……続けて、いれば)
アマデウスは、二人の間に流れる空気を察して、わざと軽い調子で続ける。
「まあ、契約も半年を過ぎたしねえ。順調順調」
その瞬間。
言葉にならない何かが、メルセデスの内側で形を持った。
――契約。
忘れたふりをしていた言葉が、はっきりと輪郭を持って浮かび上がる。
(……もう、そんなに)
治療目的。
期間付き。
合理的な関係。
最初に、確かにそう定めたはずだった。
◆
その日の午後。
書類を整理していたテオドールの机の端に、ふと視線が留まる。
そこに置かれていたのは、婚姻契約書の写しだった。
偶然、というには、あまりに無防備な位置。
メルセデスは、そっと視線を逸らした。
(……終わりは、決まっている)
(良くなれば、役目は終わる)
それが、正しい。
そうでなければならない。
「メルセデス」
呼ばれて、顔を上げる。
「次の季節の衣装だが、動きやすいものを揃えさせる。外出も増えるだろう」
「……外出、ですか?」
「ああ。体調も安定している。無理のない範囲でだが」
まるで。
これからも、ここで暮らすのが前提のような言い方だった。
(……どうして)
(どうして、この方は)
胸が、静かにざわつく。
「……あの」
声が、わずかに震えた。
「わたくしは、その……」
言いかけて、言葉が途切れる。
契約の話を、今ここで出してしまっていいのか。
出したところで、何が変わるのか。
テオドールは、怪訝そうに眉を寄せた。
「何だ」
その短い問いに、彼女は首を横に振る。
「……いえ。何でもありません」
(言えない)
(まだ、言えない)
彼は、それを深く追及しなかった。
(問題があるなら、言うはずだ)
(彼女は、無理をしない)
そう、信じているから。
二人の沈黙は、衝突にはならない。
けれど――確かに、すれ違った。
◆
その夜。
寝台に横たわって、メルセデスは天井を見つめていた。
(この穏やかさは、いつまで続くのだろう)
(契約が、終わるまで……)
(あと、どれだけの日々が……)
その言葉を心の中で繰り返すたびに、
胸の奥が、少しずつ冷えていく。
一方、隣の部屋で、テオドールは何も疑っていなかった。
(安定している)
(問題はない)
(これからも、このままだ)
同じ時間。
同じ屋根の下。
片方は、終わりを数え始め、
片方は、未来を疑いもしない。
――不安だけが、言葉にならないまま、静かに残った。




