すれ違う想い 後編
昼の応接間は、穏やかな陽光に満ちていた。
訪問してきた親族のひとりが、何気ない調子で口を開く。
「それにしても……奥方は、ずいぶんとお身体が弱いと聞きましたが」
空気が、一瞬だけ張り詰めた。
返答より先に、テオドールは一歩前へ出ていた。
「――失礼」
低く、抑えた声。
「彼女は、弱いのではない。体質の問題だ」
言い切りだった。
相手に言い返す余地はない。
「その話題は、ここまでにしていただきたい」
それだけ告げると、テオドールは振り返りもせず、無言でメルセデスの肩を抱いた。
庇うように。
囲い込むように。
腕の中で、彼女の体温を感じる。
(……安定している)
呼吸も、鼓動も、乱れはない。
触れている間、魔力の流れは滑らかで、滞りもない。
それだけで、胸の奥が確かに満たされた。
(大丈夫だ)
自分の傍にいれば、彼女は安らげる。
それが、紛れもない事実なのだから。
メルセデスは、何も言わず、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
その声音に、怯えはない。
安心している。
(ほら)
テオドールは、確信する。
(分かってくれている。分からないはずがない)
言葉にしなくとも、守り、支え、常に側にいる。
それが、何より雄弁だ。
(俺の気持ちは、態度で十分伝えている)
彼女は聡い。
空気を読み、周囲を思いやる女性だ。
察する力がある。
だからこそ――
(分かっているはずだ)
自分が、彼女を特別に想っていること。
契約以上の存在として、大切にしていること。
言葉を使う必要など、考えもしなかった。
言葉にすれば、却って軽くなる。
態度で示す方が、誠実だ。
そう信じて疑わない。
テオドールは、腕を緩めることなく、そのまま彼女を支え続けた。
(……それでいい)
彼女が、ここにいてくれる限り。
自分の傍で、穏やかに息をしてくれる限り。
それ以上、何を言う必要があるだろう。
――この時、彼はまだ知らない。
その“信頼”が、彼女の自己否定と、真っ向からすれ違っていることを。
そして、その誤解が、やがて決定的な言葉となって、彼を打ちのめすことを。
◆
離れの居間で、簡単な診察が行われていた。
とはいえ、アマデウスのそれは、脈を取り、魔力の流れを確認する程度だ。
形式は緩く、空気もどこか和やかだった。
「うん、問題なし。安定してるね」
アマデウスは満足げに頷く。
「やっぱり環境が合ってるんだろうなあ。……特に」
視線が、ちらりとテオドールに向く。
「テオの傍にいると、数値が綺麗だ」
テオドールは、当然といった調子で頷いた。
(彼女が安心してくれている)
それが、何より大きい。
(俺のそばが、一番安全だと分かっている)
だから、自然と落ち着く。
それは、すでに証明されている事実だった。
一方で、メルセデスは胸の前で、そっと手を組む。
(……私が倒れたら、困るから)
彼は騎士で、責任感が強い。
任務の一環として、最善を尽くしているだけ。
(責任を、果たしているだけ)
その解釈が、一番しっくりきた。
アマデウスは、二人の様子を眺めながら、肩をすくめる。
「いやー、それにしてもさ」
わざとらしく、明るい声。
「テオも、ずいぶん献身的だよねえ」
メルセデスは、はっとして目を伏せた。
(……献身的)
つまり、それは――
「責任感、強いもんなあ」
追い打ちの一言。
メルセデスの胸の奥で、何かが、すとんと落ちた。
(……やっぱり)
(やっぱり、責任)
テオドールは、その言葉に首を傾げる。
(?)
献身的? 責任感?
(当然だが)
自分の妻なのだから。
守るのは、大前提だ。
そこに、特別な説明が必要だとは思わない。
アマデウスは、内心で深く息を吐いた。
(あー……これは拗れる)
だが、口に出して訂正することはしない。
言えば、今はまだ、二人とも否定する。
それが分かりきっているからだ。
(雨が降ったあとには、地面が固まるもんだし)
「まあ、しばらくはこの調子で様子見だね」
にこやかに、話を締める。
「無理しないように。……特に、メルセデス嬢」
アマデウスは今もメルセデスをメルセデス嬢と呼ぶ。
本来ならテオドール卿夫人と呼ぶべきだ。
或いはメルセデス殿。
もう人妻なのだから。
だが、アマデウスは敢えてメルセデス「嬢」と呼び続けている。
メルセデスの身も心も、今だ潔癖な乙女だからだろうか。
テオドールは決して一線を越えようとはしなかった。
メルセデスが受け入れてくれる日が来るまで、待つ覚悟はできている。
「はい……」
素直に頷く彼女を見て、テオドールは満足げに視線を落とした。
(分かっている)
自分の傍が、一番楽だと。
メルセデスは、同時に思う。
(……迷惑を、掛けないようにしなくては)
その優しさが。
互いを想う気持ちが。
致命的に、噛み合っていないことを――
アマデウスだけが、はっきりと理解していた。
◆
夜、離れの執務室には、ランプの灯りだけが残っていた。
テオドールは机に向かいながらも、書類の文字をほとんど追っていない。
扉の向こう――寝室の気配を、常に意識している。
一定の魔力循環。
乱れはない。
(……今日は、安定している)
それだけで、胸の奥が緩んだ。
彼は無意識に席を立ち、寝室の扉の前まで歩いていた。
用事があるわけではない。
ただ、確かめるためだ。
ノックをする前に、扉が開く。
「……テオドール様?」
メルセデスが、不思議そうにこちらを見る。
「体調は」
「はい。今日は、とても楽です」
それを聞いて、肩から力が抜けた。
「そうか」
それだけでいい。
それ以上、言う必要はない。
(ここまでして、分からないはずがない)
(俺の気持ちは、態度で十分伝えている)
無言で、彼女の肩を抱いた。
拒まれる心配は、まったくなかった。
メルセデスは、わずかに身を固くし、やがてそっと力を抜く。
(……やっぱり)
(私が倒れたら困るから)
(責任を果たしているだけ)
その腕の中で、彼女は静かに自分に言い聞かせる。
(治療が終われば――)
(役目も、終わる)
それが、この関係の終点だ。
テオドールは、その沈黙を、別の意味で受け取っていた。
(安心している)
(俺のそばが、一番安全だと、分かっている)
彼女が身を預けることを、信頼の証だと、疑いもしなかった。
そこへ、軽やかな足音。
「いやー、相変わらず仲がいいねえ」
アマデウスが、扉口からひょいと顔を出す。
「テオも、ほんと献身的だ」
何気ない一言。
だが、それは――
メルセデスの胸に、静かに刺さった。
(……やっぱり、責任)
(必要だから)
(私は、“治療対象”だから)
テオドールは、特に反応しなかった。
(当然だが)
責任感?
それも否定はしないが――
それだけではない。
アマデウスは、二人の空気を見て、内心で息をつく。
(あー……これは拗れる)
(完全に、前提が違う)
だが、彼は何も言わない。
言えば、壊れる。
壊れるには、まだ早い。
「ま、邪魔したね。お大事に」
軽く手を振って、立ち去る。
残された二人は、同じ距離にいながら、まったく違う未来を思い描いていた。
テオドールは、この生活が続くものだと信じている。
メルセデスは、終わりの日を、静かに数え始めていた。
同じ温もりに触れながら。
同じ言葉を使いながら。
――決定的に、すれ違っているとも知らずに。




