病弱令嬢、夜会で倒れる 前編
本日の夜会の舞台は、シュトラウス侯爵邸。
音楽と笑い声が幾重にも交錯する広間は、宝石と絹のきらめきに満ち、甘い芳香が空気を満たしていた。
華やかな調べの裏で交わされる視線は鋭く、誰もが誰かを値踏みしている。
「ご機嫌よう。最近はいかがお過ごしでいらっしゃるの?」
「お加減はいかが? お顔の色が……どうか、無理はなさらないで」
一人の令嬢が、壁際で控えめに微笑んでいる。
透きとおるように白い肌と華奢な肢体を持つその姿は、まるで人の世に迷い込んだ妖精のようだった。
艶やかな飴色の髪と紫水晶のような眸が、その儚い美しさを際立たせている。
メルセデスは常に噂の的だ。
容姿の美しさもさることながら、何より宴の席に姿を見せることが極端に少ない。
そのため、彼女を見かけるとその日は運が良いなどと、まるで瑞獣のような扱いすらされていた。
メルセデス・フェリツィア・レルヒ。
消え入りそうなほど淡く、透明感に満ち、触れれば壊れてしまいそうな繊細さを備えた美貌から、彼女は「妖精姫」と呼ばれている。
「まあ……妖精姫よ」
小さく息を呑む声が、あちこちから零れ落ちた。
「今宵は珍しくいらしているのね」
「本当に……あの方を見かけるなんて」
ひそやかな囁きが、波紋のように広がっていく。
向けられる視線には、好奇と羨望、そしてどこか遠慮が入り混じっていた。
「今日は、顔色がよろしいようですわ」
「ええ……思ったより、お元気そうで」
その言葉には、安堵と同時に――
いつ倒れてもおかしくない、という無意識の前提が含まれている。
メルセデスに掛けられる言葉はどれも柔らかく、親切を装っていた。
だがその奥には、探るような視線と、憐れみとも好奇ともつかぬ色が滲んでいる。
彼女は控えめな微笑みを浮かべ、ゆったりと膝を折って礼をした。
その所作は、風に揺れる堅香子の花のように、たおやかで、いじらしい。
――あまりにも、この場にそぐわない。
きらびやかな社交界の中心にありながら、メルセデスだけが、どこか別の世界に立っているかのようだった。
――華やかな場であるほど、彼女の居場所はどこにもない。
「恐れ入ります」
短い言葉とともに、礼を終える。
メルセデスは、そっと吐息を零した。
◆
この王国において、騎士という身分は、単に剣の腕だけで測られるものではない。
忠誠、規律、そして積み重ねてきた功績――それらすべてをもって評価される、名誉ある職である。
たとえ貴族の出でなくとも、叙勲を受ければ一代貴族として遇され、貴族社会においても一定の発言力を持つ。
夜会や社交の場に正式に招かれることも、決して珍しいことではなかった。
ゆえに、貴族であり、なおかつ騎士である者は、血統と実績の双方を備えた存在として、特別に重んじられている。
――「貴族で騎士」
それは、この国における理想的な成功者の姿だった。
若い貴婦人たちの視線が集まるのも、もはや常のことだ。
ベルンシュタイン伯爵家の次男として生まれ、王国騎士として確かな功績を積み重ねてきたテオドール・アケライ・ベルンシュタインは、まさにその条件を満たす人物であった。
テオドールは、そうした視線を受け流すことに慣れている。
愛嬌を振りまくことはない――いや、必要最低限の社交的な微笑すら、省くことが多い。
深淵な夜を思わせる濃紺の髪。凍てついた灰青色の眸。
その面立ちは、芸術家の手によって削り出された冷徹な大理石の彫刻のようであり、同時に、触れれば砕けてしまいそうな硝子細工のようでもあった。
感情を映さぬその眼差しに射抜かれれば、呼吸を忘れるほどの威圧感に、否応なく絡め取られる。
テオドールは、いつものように壁際に立ち、広間全体を無意識に見渡していた。
社交の場において、人の流れや視線を把握することは、騎士として身についた習慣でもある。
――その視線が、ふと留まる。
きらびやかな色彩の渦の中に、ひときわ淡い存在があった。
透きとおるように白い肌。
華奢な肢体を包む衣装は上質でありながら主張せず、艶やかな飴色の髪と紫水晶の眸だけが、静かに光を宿している。
まるで、そこだけ空気の温度が違うかのようだった。
(……蝶)
それが、テオドールの抱いた最初の感想だった。
夜会という場に、あまりにも似つかわしくない。
踏み込めば壊れてしまいそうに、危うい。
それでいて、どうしようもない引力に、目が離せない。
彼女が誰であるかを、テオドールはすぐに理解した。
噂に聞く、レルヒ子爵家の病弱な令嬢。
滅多に姿を現さない、妖精姫。
その令嬢が、控えめに礼をし、小さく吐息を零した――その瞬間。
胸の奥が、わずかにざわめいた。
理由は分からない。
理屈もない。
ただ――
(……近くにいるべきではないか)
そんな考えが唐突に浮かんだことに、テオドールは、わずかに眉を寄せた。
騎士としての判断にしては、あまりにも根拠がない。
社交的な関心にしては、興味が過剰すぎる。
それでも、視線は自然と彼女を追っていた。
次の瞬間、彼女の足取りが、ほんのわずかに揺らいだ。
音楽も、笑い声も、遠のく。
気付いた時には、テオドールの身体は、すでに動いていた。
――この夜会で、彼の運命が静かに軌道を外れたことを、まだ誰も知らない。
◆
(……また、目眩が)
メルセデスは小さく息を吸い、近くの壁へと手を伸ばした。
誰かに迷惑をかける前に、この場を離れなければならない。
それは、彼女にとって慣れきった判断だった。
だが――
伸ばした指先は、むなしく宙を掻く。
掴まるはずだった壁は、ひどく遠い。
陽光を溶かしたような飴色の髪は冷たい汗に濡れ、蒼白な頬に張り付いていた。
紫水晶の眸は激しい目眩に焦点を失い、苦悶の色を湛えて揺れている。
胸の奥からせり上がる不快感に、華奢な肩が小さく震えた。
早鐘を打つ鼓動が薄い胸を内側から叩き、逃げ場のない熱が、彼女の小さな輪郭をじわじわと侵食していく。
――まただ。
息が、うまく吸えない。
音楽が歪み、光が滲む。
いつものこと。
原因は分からないまま、ただ耐えるしかない、出口のない発作が始まった。
床が、ゆっくりと傾く。
(……大丈夫。少し、休めば)
そう思った、その瞬間――
視界が、ふっと暗転した。
だが、彼女の身体が床に触れることはなかった。




