【3】
「お姉ちゃん。……わたし、間違ってなかったのかな?」
「何が?」
仁美が不思議そうに問い返して来る。
彼女が机にそっと置いたのは、真奈が持って行く予定の父の遺影と位牌だった。
本来は長女であり、実の子である仁美が管理すべきものだろう。
「お姉ちゃんはお義兄さんの方のお家の手前もあるんじゃない? わたしなら気楽な独り身だから、口出すような人もいないし」
そんな風に食い下がってその役を得たのだ。
おそらく真奈の想いを察している姉も、あっさり承諾してくれた。
実際には、義兄もその親族も妻や嫁が亡父を祀ることに苦言を呈することはないだろう。
姉の義親の方は、たとえ内心思うことはあったとしても世間体からも口を噤むことは容易に想像できる。
住む人もいなくなり、処分することも決まっている実家。
姉は疾うに結婚して新しい家庭を築いている。真奈も仕事の都合でここでは暮らせない。
姉妹二人が生まれ育った思い出の詰まる家ではあるが、どうしようもないと理解していた。
こまめに手入れが行き届かない以上、空き家を放置するのは周囲に迷惑を掛けてしまう。
「わたしとお父さんは所詮『他人』なのに。世話になるだけなっておいて、結局最期まで知らん振りしちゃった」
「そういう言い方はよしなさい。お父さんもその方が幸せだったと私は思うわ。真奈に『他人』だなんて言われる方が、きっと悲しんだんじゃないかな」
己が父とは血の繋がりなど皆無だということ。
母の逝去で知った事実を、父にはまるきり知らぬ顔で押し通して既に四半世紀が過ぎた。
そして欺瞞の日々は、父の人生の閉幕と共に終わったのだ。
恋愛経験もなくはないが、真奈は家族を作るのが怖かった。
あの母と、写真でしか知らない男の血を引く子どもを生み出す勇気がなかったのも大きい。
そう考えること自体、慈しんで育ててくれた父に申し訳ないという想いも拭えなかった。
だからこそ、血縁のある仁美の存在に救われたと今も考えている。父と自分を繋いでくれた姉。
そして『血』を思うとき、なぜか母のことを浮かべることはないのが自分でも不思議なほどだ。
そう、彼女は法的にも血縁的にも間違いなく「母親」だが、真奈の中では「侮蔑の対象の女」でしかなくなっていた。
死後に知ったせいか、激しい憎悪さえ湧かない。ただし、確かに存在していた母への愛情は完全に消滅した。
父は真奈が何も知らないと信じて逝ったのか。それとも、互いに知らない振りをしていると承知だったのか?
今となっては確かめる術も、必要もない。
真奈の中で父と姉の存在感が大きいのは、二人が注いでくれた愛の深さによるものなのは間違いなかった。
しかし相対的に母からの想いが薄かったからこそ、というのもまた確かだ。母の生前は必死で目を逸らしていたその事実を、年月を経てようやく認められるようになった。
母は悔やんでいたのだろう。
父を裏切ったことを。あるいは、そもそも恋人と別れて父と結婚したことか。
どちらにしても、真奈の存在は目障りだった筈だ。過去の己の過ちを、常に目の前に突き付ける不義の子。
きっと心の底では、……もしかしたら明白に「消えてくれ」と願っていただろう実の娘。
真奈が何をしたというのか。すべて母の責任だというのに。
それでも、母がいなければ自分は生まれては来ていない。
その方が良かった、と昏い恨みを募らせたこともあった。しかし今真奈は生きていることを前向きに捉えている。
そういう心境に、ようやく至った。
……母に対する感情は、到底ひとことでは表現できなかった。
だから、消したのだ。己の中からその存在をすべて。
「お姉ちゃん、ほんとにありがとう」
姉がいなければ、あの頃の自分は精神のバランスを保てなかったかもしれない。
「どうしたの? いきなり」
真奈が礼を述べるのに、仁美は戸惑った素振りを見せた。
妹が『告げたいこと』がわかっていても、いなくても。
年を重ねてより強くはなったが変わらず優しい姉は、決して無理に聞き出そうとはしないだろう。
だから真奈も、これ以上言葉を連ねる気はなかった。
「またお家の方にお邪魔してもいいかな? お義兄さんがよかったら。──わたしの身内はもう、お姉ちゃんと陽太くんと沙里ちゃんだけだもん」
姉と、甥と姪と。
数少なくなった真奈の血縁者。当然、その夫であり父である義兄も大事だ。
一生独身を通す覚悟を決めたからこそ、できれば姉の家族とは今後も良好な関係を保ちたかった。
許されるならば。
「もちろんよ。旦那は一人っ子だし、うちの子に近い親戚がほとんどいないこと気にしてるの。向こうのご両親は健在だけど、他にはあなたくらいだしね。だからむしろ大歓迎よ」
突然話題を変えたことには触れずに、笑顔ですんなり了承してくれる仁美に頷きで感謝を示す。
「陽太と沙里も『まなちゃん』大好きなのよ」
「この歳で『まなちゃん』もないよね〜。最初っから『おばさん』て呼ばせとけばよかった」
甥が生まれた当時、二十代半ばで独身の真奈を気遣ってか姉夫婦が『まなちゃんよ』と誘導した結果だ。
そして、すでに高校生と中学生になった子どもたちには、それなりの頻度で会う叔母の呼び方を変える機会などなかった。
四十も過ぎた今となっては、正直なところ気恥ずかしさが勝るがどうしようもない。
「お姉ちゃん、そろそろ帰らないと電車なくなるよ。みんな家で待ってるんでしょ?」
ふと時計に目をやって時間の経過に気付き、真奈は仁美に呼び掛ける。
「駅まで送るから、忘れ物ないように気をつけてね。……まあ忘れたってわたしが戻ってから届けるか送るけどさ」
「わざわざいいわよ、って言いたいけど、真奈と駅まで歩くのもこれが最後になるのかしらね。せっかくだから付き合ってもらうわ」
姉の返答に、改めて一つの区切りを実感した。
「あ、そっか。そうだよねぇ、もうこの街に来ることもなくなるのかな。お墓もお父さんの田舎の方なんだしね」
家族で過ごした時間を、ずっと見守ってくれたこの家。
取り壊されて跡形もなくなっても、きっと真奈の記憶の中には在りし日の姿のままに残る。
おそらくは仁美もそうだろう。
「あなたは今日は実家に泊っていくんでしょ? 本当に、近いうち遊びに来てよ。楽しみにしてるから」
「うん」
姉の微笑みに同じく笑顔で応え、真奈は携帯と鍵だけ持って一足先に玄関に向かった。
──わたしの心のうちには今もこの先もずっと永遠に、すぐ後ろを歩く姉と、いつまでも元気でいて欲しかった亡き父のみが棲んでいる。他は全部、消したから。
~END~