1−3 ずっと前から知ってるからさ
「騎士さんよ。主君が大事ってんなら、今すぐ退いとけよ!」
鮮血のごとく紅く染まった、巨大な戦斧。
その異様な武具がもたらす圧倒的な魔力が、波動となって青年の鱗まみれの肌を震わせた。
「全員、退避しろ! 退避ーっ!」
一目散に城壁塔の端まで退避を果たした騎士隊と王女を見下ろし、青年は大きく口の端を持ち上げた。
(ねえセイル。退避勧告というのは、もっと早くに出すものなんじゃないかな?)
侵入者である青年――セイルの心の中に、たしかに別人のものである声が響く。
常人ならば幻聴かと辺りを見回すところだが、青年は慣れた口調で言い返した。
「うるせーよ、テオギス。お前こそ、そういうのは先に忠告してやるべきなんじゃねえの? “竜の賢者”さまよ」
(言ったって聞かないじゃないか、君は)
小さなため息を落とすも、その涼しげな声は面白がるような調子だ。
長年の付き合いから青年は、心の中に住まう“友”が非常に上機嫌であることを察して笑う。
「何だよ、気前よく魔力を沸かせやがって。親友が悪党扱いされて喜ぶなんざ、趣味悪ィぞ」
(ふふ、そんなわけないだろう? ただ“懐かしの住まい”に戻ってこれて、少しばかり浮き立っているだけさ)
「いつも浮いてるようなもんだろが、お前は」
(おやおや! 相変わらず、こちらの君は饒舌だねえ)
一本取られたという風に短く笑った後、友は真面目な声になる。
(さて。まだ積もる話もあることだし、この場は早々に収めておこうか。竜人殿)
「だな!」
大上段に振り上げた戦斧に、セイルは更なる魔力を流し込む。色が変わってからはむしろ、こちらの魔力が吸い上げられていると表すのが正しい。
凶悪な輝きを強めていく得物をちらと見上げ、竜人は独りごちた。
「どっちみち、こうなりゃ長くは保たねえしな。相変わらず、身勝手な斧だ」
騎士隊を追わずに硬直している醜い化け物を見下ろす。
目標は先ほどまでの狂気じみた勢いをすっかり失い、怯えた表情で視線を彷徨わせていた。
「どど、どうして、ここにおまえが……“ほんもの”がっ……!?」
「やっと分かったか。けど遅かったな、“半端”野郎――じゃあな!」
「アガアアアァーッ!!」
竜人が容赦なく振り下ろした紅き一閃は、敵の巨体を容易く斬り裂き――そして、歴史ある城壁塔に盛大な亀裂を刻んだ。
「あ」
まるで砕かれた焼き菓子のごとく崩落しはじめた屋上を見、セイルの中から高揚感が消え去った。
鈍色に戻った斧を背に戻すと同時に、穏やかな声が耳を打つ。
(この趣ある城壁塔は、代々の王族たちが羽を休める時に使う場所でね……)
「壊したあとで解説すんな!」
刈り取られたように端部分が崩れ落ち、古い煉瓦が粉雪よろしく虚空へと舞い散る。
「ん?」
城に隣接した湖へとそれらは落下していったが、セイルの出来の良い目はその中に混じった“異物”を見逃さなかった。
「きゃっ……!?」
悲鳴の主は、崩れゆく屋上から騎士に守られ一番に退避したはずの王女フィールーンであった。どうやら階下の踊り場あたりを通っていたところ、崩落に巻き込まれたらしい。
「姫様ぁッ!!」
彼女の側付が伸ばした手が、虚しく夜空を掻く。
セイルは即座に翼を翻し、降り注ぐ瓦礫の雨を跳ね飛ばしながら空を駆けた。
「何やってんだ、あの姫さんは!」
「っ!」
次の瞬間には狙い違わず、柔らかい女の肌が腕の中へと落ちてくる。
「りゅ……竜人、さん!」
「セイルだ。セイル・ホワード」
「あ、あなたは……本当に、さ、さきほどのお方、なので……きゃ!」
可憐な顔の上に、ふっと細長い影が降る。迫っていた煉瓦片をぱしりと手で捉えて放り、セイルは事もなげに答えた。
「ああそうだ。ちょっと翼やら尻尾やらが生えちゃいるが、同じ木こりさんさ」
黒髪の間から突き出た立派な角に、肌のほとんどを埋め尽くしている蒼き鱗。
手にした得物や簡素な出立こそ同じものの、この説明ではほとんどの者が納得しないだろう。
「……そう、ですか」
しかし腕の中の王女は、ぎこちなく頷いた。神妙な表情の中にも、どこか期待するような熱っぽさが見える。
「話が早くて助かるぜ。分かってくれるだろうと思ったさ――お前さんなら、な」
「! わ、私は……」
「貴様あッ! 姫様をどうする気だ!?」
割って入ってきた大音声に、セイルはこれみよがしに肩をすくめる。
「どうもしねぇよ。少しばかり一緒にデートするだけだ」
崩れ落ちた階段から身を乗り出す騎士リクスンは、もちろんこの返答に納得した様子はない。
「ふざけるなッ! ただちにそのお方を返還しろ!」
「うるせぇ騎士さまだな。んじゃ、お前がここまで飛んでこいよ」
「なんだと!?」
「あ、あのっ……!」
鱗に覆われた逞しい腕の中から、控えめな声が上がる。
セイルは細い瞳孔を有する金の瞳を瞬かせ、小柄な発言者を見下ろした。
「ど、どうして……わ、私のことを」
威厳の欠けらもないその震えた声は、青年が抱いていた王族の印象とはほど遠い。
しかしセイルは、幼子のように声を弾ませて答えた。
「ずっと前から知ってるからさ。初めて会った気がしないだろ? “モグラ姫”――フィールーンさんよ」