88話 最後の一手
「……ッ!」
リ・エデンの一閃がノルレルスの腹を掠める。
目の前のノルレルスと被さるようにして流れていった、主神トリテレイアの記憶。
それを見てもなお、俺は止まることを善しとできなかった。
……ノルレルスの事情を理解できたところで、奴を滅さない理由にはならない。
奴を倒さなければ次はカルミアが危険に晒されてしまう。
トリテレイアもガラードも戻ってこない。
何より……ノルレルスは俺の中にあった、超えてはいけない一線を大きく踏み越えた。
己の種族の守護が何か、俺にも守るべき相棒がいる。
──ここで奴を確実に倒す。ルーナをこれ以上、傷つけさせはしない!
「ハァァァァァァァッ!」
ノルレルスに神族としての力を使わせまいと、絶叫したまま攻め立て続ける。
限界が近いのか、視界が赤く滲んではっきりとしないが、奴を決して逃がしはしない。
リ・シャングリラの斬撃を牽制に使い、跳躍した奴の回避先へ大まかな狙いを定めた。
「神竜帝国式・竜騎士戦闘術──竜翼輪舞ッ!」
着地に合わせてノルレルスへと、竜の翼を描く軌道の回し蹴りを叩き込む。
リ・エデンとリ・シャングリラの魔力を完全解放し、魔滅の加護を常時通しているこの身は、寿命の近いノルレルスの戦闘能力を完全に上回っていた。
しかも魔滅の加護の籠もった攻撃が幾度も炸裂している。
──このまま、押し切って……!
渾身の竜翼輪舞を胸部に受け、背から倒れ込んだノルレルスへ最後の一撃を放とうと、全身に力を込めた……刹那。
「がっ……⁉」
口からごぼりと血塊が零れた。
言うまでもない、二振りの聖剣の力を解放し続けた代償だ。
ミカヅチほどの肉体強度もない凡人が力を使い続けた末路。
視界も歪み、一気に暗転していくが、決して崩れ落ちまいとリ・エデンを突き立てて堪える。
耳からも音が遠ざかっていき、いよいよ己に代償として「払える」ものが少ないと悟った。
だが、まだだ。
まだ終われない。
──頼む、後少しで構わない。この場で奴を倒し切れるなら……!
「俺の全てが、たとえ消えても……!」
叫びながら残った力を振り絞って、全力でリ・エデンを掲げた途端。
『──っ!』
唯一、ある程度残っていた触覚に反応があった。
背に柔らかな感触があり、動きが重い。
もしやノルレルスの攻撃かと振り向けば……そこには。
『──!』
ルーナだ。
瞳から滂沱と涙を流すルーナが、人間の姿となって、後ろから俺に抱き付いていたのだ。
視界が暗く狭まって、五感が鈍っている分、ルーナの存在だけが世界の中で鮮明だった。
「……」
彼女を見ているうち、自然とリ・エデンとリ・シャングリラの魔力が収まっていくのを感じた。
今は力を収めている場合ではないのに、即座に力の解放を取り戻さねばならないのに。
何故か聖剣たちの力を収めなくてはならない気がして、その場に立ち尽くしてしまった。
……そうして数十秒か、数分か。
ゆっくりと音が、視界が、五感が元に戻ってくる。
当然、全身を包む痛みも戻ってきて、思わず顔を顰めてしまった。
ただし呻く間もなかった。
……ルーナの声が胸に、心に届いて、もっと痛かったから。
『あなたは……! 私の一生からしたら、短い間しか側にいられないからこそ、こんなところで死ねないと言ったではありませんか! なのに何故、あんな無茶をするのです! 止まってくれたから助かりましたが、あのままではあなた自身、二本の剣の魔力に呑まれて体が砕けていたのですよ! 分かって……聞こえているのですか! レイド・ドライセン!』
「……聞こえて、いるよ。ルーナ。……ごめん、魔力で今まで耳もやられていた」
伝えれば、ルーナはこちらを見上げた後、再び涙を流した。
そのまま俺の背に顔を埋める。
『馬鹿っ! ここで魔神を倒せたとしても、あなたが死んでしまっては意味がないではないですか……! 己の感覚を失うほどの無茶をするなんて……!』
「本当にごめん。……冷静じゃなかった」
言い訳じみたことを語りつつ、頭が冷えて、己がしでかしかけた事態を把握する。
怒りに呑まれ、ノルレルスを倒すとだけ考えるあまり、ルーナとの約束を破るところだった。
危うく竜の国に帰れなくなるところだったのだ。
……大切な相棒との、ルーナとの未来が消えてしまう寸前だった。
『酷いものです。あなたも……謝られて、無事と分かった途端に許してしまいたくなる私自身も。……この二本はもう、没収です』
ルーナは泣き顔のまま、リ・エデンとリ・シャングリラを俺の両手から奪い去った。
戦いの反動で両腕の痺れた俺は抵抗もできなかったが、正直、少し慌てた。
「待ってくれ、まだノルレルスが……!」
『……? いいえ、ノルレルスなら既に……』
ルーナに言われて見てみれば、ノルレルスは仰臥していた。
赫槍を手放し、立ち上がることさえできないようだ。
息を荒くして、全身から蒸発する霧のように魔力を発し、体の端が薄くなっていた。
完全に戦闘不能といった様子に、思わず驚きが零れ出る。
「いつの間に、こんな……」
『分かっていなかったのですか? 本当に焦ったのですよ? ……竜翼輪舞で倒れたノルレルスへ、限界を超えかけて向かっていくあなたの姿。あのままだとあなたが消えて、崩れてしまうのではと、心底恐ろしかったです』
ルーナは安堵したような、どこか不安げであるような、それらが綯い交ぜになった表情だ。
……今後はもっと冷静に立ち回ろうと心に決めた。
また、ノルレルスは口の端から血を流し、自嘲気味に笑った。
「ははっ……侮ったよ、レイド・ドライセン。君の動き、先代の皇竜騎士であるミカヅチにも匹敵していた。怒りで肉体が先祖返りを起こし、エーデルの力を限界まで引き出したのか。何にせよ、まさかまさかだ。寿命が近かったとはいえ、真正面から打ち負けるとは。情けない限りだ……」
語りつつも、ノルレルスはゆっくりと体を漆黒の魔力という形で崩していく。
誰の目からも奴の消滅は確定的となった。
でも……何故だろう。
奴の消滅を待っていてはならないと、理性と本能の両方が警鐘を鳴らしていた。
「ルーナ、すまない。やっぱりもう一回リ・エデンを……!」
こちらの身を気遣ってリ・エデンを取り上げたルーナには申し訳ないけれど、奴の胸に刃を突き立て、魔滅の加護を放ってとどめを刺さなければ。
俺がルーナに頼んだ直後も、ノルレルスは語り続ける。
「しかし、良い茶番だったよ。せっかくその命と引き換えに、この僕を完全に滅せる好機だったのに。竜姫が君を正気に戻し、生かしたお陰で……僕は最後の手を講じる時間を得た!」
瞬間、星空の異空間が急速に閉じていく。
星空を遙か彼方に置き去りにして、空間が純白の、トリテレイアの異空間へと戻っていった。
途端、視界に入ったのは、
「レイドお兄ちゃん! 姫様!」
「……二人とも、無事……?」
駆け寄ってくるロアナとミルフィ。
さらに……。
「レイド! ルーナも! そんなにボロボロになって……! でもノルレルスを倒したのね! よかっ……」
目の端に涙を浮かべて寄ってくるカルミア。
消滅しながらも口角を上げるノルレルス。
嫌な予感が全身を突き抜けて、思わず叫んだ。
「カルミア! 逃げろ! ロアナもミルフィもカルミアを連れて全力で逃げろッ!」
「……遅い!」
声がした時にはもう、ノルレルスは全身を漆黒の霧として、カルミアへ向かっていた。
事態を飲み込んだのか、俺の声を受けての判断か。
ミルフィは水を練り出し臨戦態勢となり、ロアナがカルミアを庇おうと跳躍するが、それより先に霧と化したノルレルスがカルミアに取り憑いていた。
「ぁ……っ⁉」
霧に包まれたカルミアは宙に浮かび上がり、やがて霧はカルミアの体へ収まっていく。
『カルミア……⁉』
ルーナが問いかけるが、それに応じる声はない。
代わりにカルミアは宙に浮いたまま瞳を開く。
……その瞳は澄んだ藤色ではなく、赫々に輝くものとなっていた。
「くっ……はははっ……」
カルミアの唇から漏れ出す、腹の底から出るような笑い声。
総身の毛が逆立ち、現状の危機を感じ取った。
「成功だ……! 僕は魔滅の加護に耐えきり、邪魔する者らを無力化し、遂に転生に成功した! レイド・ドライセン! 惜しかったね。君があのまま怒り任せに続けていたなら、間違いなく僕の敗北だったよ!」
「……!」
最悪だ、最悪の状況となってしまった。
ノルレルスがカルミアの肉体を奪い、転生を果たしたのだ。
俺がルーナに諭されている間、異空間から脱してカルミアの肉体を奪う算段を付けていたに違いない。
与えてはならぬ隙を与えてしまった事実に、俺以上にルーナが愕然としていた。
「竜姫ルーナ! 特に君はとんでもなく愚かだった。仲間の、レイド・ドライセンの覚悟を無駄にして! 世界の全てを滅ぼしてしまうのだから!」
『そんな、私は……』
震え、膝から崩れ落ちそうになるルーナを左腕で抱き留めた。
俺はルーナの手からリ・エデンを受け取り、奴へと右手で剣先を向けた。
「黙れノルレルス! ルーナは相棒として俺を大切にしてくれただけだ。逆の立場なら俺も彼女と同じようにした。その行いを笑うなら、もう一度、この剣で……!」
「無駄だよ」
ノルレルスは手の中に赫槍を召喚し、小石を投げるかのように腕を軽く振るい、投擲してきた。
まだ残っていたトリテレイアからの魔力の恩恵、視覚の強化でゆっくりと流れる時間の中、ルーナを抱えてその場から飛び退く。
そうして直撃は避けたものの、赫槍が空間の床へ激突した途端。
「くっ……⁉」
爆発したかの如き衝撃。
破砕した床の破片に全身を打たれ、大きく跳ね飛ばされた。
赫槍は床を大きく穿ち、陥没させ、大穴を生み出していた。
『レイド⁉』
抱えていたルーナは無事だが、あの一撃は、限界を迎えていた俺の肉体を戦闘不能に追いやるには十分だった。
立ち上がろうと全身に力を込めるが、手足の感覚が鈍く、上手く動かない。
「なんだ今の一撃は。軽く振られただけなのに、こんな……!」
呟けば、ノルレルスは陰惨な笑みを浮かべる。
整ったカルミアの顔立ちであるから、表情の違和感を余計に強く感じた。
「当然だろう? この肉体は寿命とは無縁かつ、神族の力で満ちた、神さえ生み出す次期主神の体。簡単な魔力強化でもこの程度の攻撃を行うのは容易いよ。残念だけれど……今の僕はこの世で最強なのさ。君らに勝ち目は万に一つもなくなった」




