75話 期限
心地よく湯に浸かっているような、朧気な感覚。
この感覚に浸るのは……そうだ、あの夢以来だ。
カルミアが竜の国に現れる前に見た夢、それ以来。
誰かが俺の胸に手を押し当てているような気がする。
それにもう片方の手で目元に触れられているようで、じんわりとした温かみが染み込むように伝わってきた。
顔から手を離された際、ゆっくりと瞼を開けば、そこには。
「……よかった。目を覚ましましたか。魂が肉体から離れる前に助かって何よりです」
たおやかに微笑む女性が、横たわる俺の傍らに座り込んでいた。
こちらの胸に手を当て、そこから何かを、恐らくは魔力を流し込んでいるのだろう。
……そう理解した時、女性の顔立ちがカルミアそっくりであると気付いた。
前の夢と違い、今回は鮮明に顔立ちを見ることができたのだ。
声もはっきりと聞こえてくる。
加えて、それらの情報から、やはりミカヅチの記憶で垣間見えたのはこの人だと理解した。
カルミアではなく、でもカルミアによく似た、この人だ。
「あの、あなたは……?」
問いかけてみるものの、女性は顔を伏せてしまった。
「ごめんなさい。その疑問に答える時間はもう残っていないのです。あなたの肉体をこうして、精神側から魔力を渡して修復するのに多くの力を使ってしまいました。じきに私たちはまた離れます。だからお願い……これを恩と思ってくれるのなら、今は私の願いを聞いてほしいのです」
穏やかな声ながらも必死な心が伝わってきて、俺はただ一度、頷いた。
「ありがとうございます。では、前の邂逅で伝えきれなかったことを。……レイド・ドライセン。どうかあの子をお願いします。時が来たら……」
女性がそこまで告げたところで、周囲が白く塗り潰されていく。
目覚めが近いのか、女性の力が弱まっているのか。
しかし目覚めの間際……今度こそあの人の願いが、訴えがこちらに届いた。
「……あの子を、天界まで連れてきてください。お願い……」
***
……音が、感覚が戻ってきたのを感じる。
体はまだ横たわっているのか、頬に土の感触があり、草木の匂いが鼻に届く。
何が起こったかなど……そんなのは今更だ。
そうとも、俺は先ほどノルレルスにやられたのだ。
感覚からしてきっと、肺や心臓を魔力で貫かれた。
間違いなく致命傷、それでも俺は生きている。
しかも残っていた痛みが遠ざかっていく感覚がある。
……治癒しつつあるのだ、致命傷が。
ただしまだ声も出ないし目も明かない。
無理をして動くべきでないと、本能が語りかけてきている。
──あの女の人の力は、この世の理を、死の運命を捻じ曲げるほどのものだった。顔立ちからしてカルミアの家族、つまりは神族だ。
目を閉じたまま自身の肉体について把握し、頭の中で状況を整理する。
手にはリ・エデンの柄が握られたまま、継戦は可能だ。
それでもノルレルスが近くにいるはず、油断はできない状況にある。
にも関わらず、不思議と心の中は穏やかだった。
ノルレルスと対峙した際に感じた死への予感、焦りや恐怖が失せている。
神による加護とは本来、こういうものを、揺るがぬ心を指すのではないか。
場違いながら、そんなふうに思ってしまった。
『……レイド! レイドッ!』
俺を呼ぶ悲鳴に、駆けてくる軽い足音、間違いなくルーナだ。
人間の姿になって寄ってきているに違いない。
ルーナは駆け寄ってきて、俺の傍らに膝を付いたようだ。
名前を呼びながら、俺の体を揺すっている。
『こんなに出血しては……』
嗚咽混じりの声からして泣いているのだろうか。
すぐに大丈夫だと言ってあげたいけれど、まだ体が動かない。
さらにルーナへと、語りかけてくる声がある。
魔神ノルレルスだ。
「己の力量を過信した愚か者の末路だ。神に挑むのがどういう行為か、どうやら人間は忘れてしまったらしい。……さて、美しい古竜よ。君はどうかな?」
ノルレルスの言葉に、ルーナの気配が、魔力の質が変わった。
……まだ目も開けられないが、見なくても分かる。
ルーナは今……俺が知らないほどに、怒っている。
『どうかな、ですって? ……どうもこうもないでしょう。愛しい相棒の命を奪った者が目の前にいるのです。ここで抗わねば、仇を討たねば、古竜として生を受けた意味がない!』
どこまでも強く、生を漲らせるルーナの言葉。
ノルレルスも乗り気なのか「エーデルの直系らしいね」と魔力を解放してゆく。
俺を殺しかけたあの技、アステロイドを放つ気か。
自惚れではないけれど、きっとルーナは今、俺を殺されたと考えていて冷静じゃない。
回復していく俺の傷も服で隠れているのか、見えていないのだろう。
けれどルーナに見えていないとなれば、ノルレルスにも見えていないということ。
即ち──
「じゃあ、君ともお別れだ。君は直系の癖にエーデルの加護を得ていないようだし、もう片方の腕は落とさずに済みそうだ」
──千載一遇の好機に他ならない。
「闇に瞬く星と……」
「……ノルレルスッ!」
肉体の治癒が完了した途端、目を開いて全身のバネを総動員して体を跳ね起こし、ノルレルスへと跳躍。
唖然とした表情を晒すノルレルス、神でさえ驚くのだなと心の片隅で感じる。
『レイド……!』
ルーナの涙声を背に、リ・エデンを握り締める。
奴はアステロイドの標準を俺へと変えつつ、詠唱も中途半端に放ってきた。
瞬く流星のような光球が計五発。
威力はそれなりだが軌道は読みやすい。
雑な発動で完全に軌道の逸れた三発は無視し、俺とルーナに当たる軌道を描く二発は、リ・エデンで斬り飛ばした。
──この技、ノルレルスの魔力から練り出された魔力によるもの。やはり魔滅の加護で無効化できる。
ノルレルスは残った片手で赫槍を掴み、構えようとする。
そう、アステロイドは手のひらから放つ技。
隻腕の奴では赫槍を地に突き立てながら発動する他なかったのだ。
ならば、奴が赫槍を構えきる前にケリをつけるまで。
「神竜帝国式・竜騎士戦剣術──竜爪速降!」
ミカヅチの記憶から読み取り、ヴァーゼルの動きを思い出し、鍛錬を重ねていた剣技の一つ。
竜が降下するかの如き高速の振り下ろし技を、ノルレルスが赫槍を構える前に叩き込んだ。
「がっ……⁉」
奴の右肩から胸元にかけて入った一撃は、ノルレルスに膝を付かせるには十分だった。
傷口から鮮血が、霧のように吹き出している。
魔力を制御して傷を塞ぎにかかっているようだが、致命傷なのは誰の目にも明白だった。
……奴が人間であったなら、という話だが。
「くっ……ははははっ。いやはや、お見事だね。正直油断したよ。腕を一本使って完全に葬ったと思ったら。不死者になって蘇った気配もないし……そうか、神竜の魔力以外にあの女の魔力も混じっているね。まさか神が人間を蘇生するとは、彼女はどこまで自分らで敷いた決まりを、神族の命運を、踏みにじれば気が済むのか……」
呆れ笑いといった声のノルレルス。
当初は痛みを堪えるといった表情だったものの、もう涼しげな表情に戻っている。
出血も止まり、ノルレルスを仕留めきれなかったと状況が物語っていた。
ヴァーゼルの動きさえ止めたリ・エデンの斬撃をまともに受けてこうも平然としているとは。
これが神の底力なのか。
「まあいい。この場は僕が退こう。己の油断を潔く認めるのも強者というもの。あの子については……そうだな。こうしてみようか」
ノルレルスの瞳が赫々に輝く。
何をする気だと思った途端、空を覆っていた暗雲が、漆黒の霧のようになって落ちてきた。
すると霧に反応するようにして、リ・エデンが輝きを放ち、その光は円形に拡大してゆく。
光は竜の国一帯を包む状態となって拡大を止めた。
──リ・エデンの魔滅の加護、薄く広がっていったのか……?
漆黒の霧は魔滅の加護による光の防壁で竜の国へ入り込めずにいるが、その近辺、つまりは暗雲の下には徐々に広まっていく。
「これは一体……⁉」
「僕の力、その一端さ。あれは全てを魔の力で呑む霧。霧に侵された動植物は魔力で体を作り替えられ、僕の忠実なシモベ……つまりは魔族となる。当然、人間も例外ではないさ。といっても、やはりこの一帯はエーデルの力で守られてしまうか。効果範囲が広い分、僕に効かないほどに薄まったようだけど……はぁ。彼もどこまで僕を邪魔するのかね」
軽快に語るノルレルスとは対象的に、こちらはあの霧、正確にはその規模に圧倒されそうになっていた。
それに見渡す限りの全方位が漆黒の暗雲、黒い霧を生み出す元凶に覆われているのだ。
これでは地上の全てがあの霧に飲み込まれてしまうのではないか。
「おい、この霧はどこまで……!」
「そりゃ当然、この世の全てを呑むまでさ。とはいえ僕もね、同胞だった他の神々の被造物で埋め尽くされているこの世を、僕一色で染めるのは望まない。下界は僕らの思い出の数々でもある。故にレイド・ドライセン……君にチャンスを与えつつ期限を設けよう」
ノルレルスは赫槍を暗雲へと掲げた。
「この黒い霧は大陸を超え、十日ほどでこの世の全てを呑み込み、全動植物を魔族へと変貌させるだろう。それを止めたいのなら……世界が終わる前に、君らが逃がした神族の娘、あの子を僕に引き渡すがいい」
「カルミアを……? どうしてあの子を狙う!」
「その問いには、あの子を引き渡してもらう際に答えてあげようかな。……準備ができたら武装を解除して、再度竜脈の儀とやらを行うといい。そうしたら僕は再度、あの子を迎えに来るから」
ノルレルスはそう言い残し、宙に浮かび上がった。
『逃げるのですか! 魔族の神ともあろう者が!』
古竜の姿に変じたルーナが唸り声を上げるが、ノルレルスは悪びれもなく笑った。
「まあね。僕としては目的を達成できればいいし、魔滅の加護ってやつが思っていたより厄介だったから。安全に達成できるならそれに超したことはない、そうでしょ?」
楽しげに語るノルレルスを見て、まずい手合いだと直感的に思った。
武人だったヴァーゼルはまだ勝負にこだわっていたが、ノルレルスは違う。
目的のためなら手段を選ばないタイプで、だからこそ世界そのものを人質に取ってきたのだ。
不利を悟って己が逃げる件については、たとえ相手が人間の俺であっても、決して悔しくもないのだろう。
ここで逃がすのはまずいとルーナも思ったのか、彼女はブレスを放った。
けれど盾を持った黒騎士たちが現れ、ルーナの一撃を受け止めてしまう。
『くっ……!』
「無駄だよ、そんな攻撃。僕を倒したければ神竜エーデル・グリラスの生み出した聖なる力、魔滅の加護以外にはない。故に……ここで逃げれば僕の勝ちだ」
ノルレルスは遠ざかりながら、ひらひらと手を振ってきた。
「ばいばい、レイド・ドライセン。良い答えを聞かせておくれ。……このままだと世界が滅びる以上、事実上の一択だと思うけれどね」
ノルレルスも黒騎士の群れも、ゆっくりと暗雲へと戻っていく。
……最後に残ったのは、ただ天を見上げる俺たちのみだった。




