73話 襲来
「何、この感じ……?」
見ればロアナは尾の毛を逆立て、ミルフィに至っては魔力を解放しつつあった。
「嫌な感じがするね……ミルフィは?」
「……大丈夫。何が出てきても仕留める」
穏便でない発言をしつつ、ミルフィは魔法で水を練り、弓と矢を生成して構えた。
狙うは天の暗雲。
姿は見えないけれど、間違いなく良くない何かが天上にいると、この場にいる三人全員が直感的に理解していた。
……三人揃ってじっと身構え、数秒間。
それが、それらが現れたのは、ほんの瞬きほどの間だった。
暗雲から溶け出るようにして、黒い影が、黒い靄をまき散らしながら、次々に飛び出してくる。
漆黒の翼に黒の甲冑を身に纏った、騎士のような出で立ちの者たち。
けれどその身に秘めた魔力は明らかに規格外であり、一体一体が古竜並みどころか……それを超越して余りある。
かつてレイドが対峙した魔族は一体一体が古竜並みの魔力持ちという化け物だったと聞くし、現に食っちゃ寝生活を送るアイルでさえ、魔力量だけなら確かに古竜並みだ。
普通ならそんな連中がゴロゴロと存在している訳がないのに……古竜や魔族を大幅に上回る魔力の持ち主が、次々に……数百という数で降下してくる。
それもこの湖を取り囲むように、何かを狙うように。
「何……? あのケルピーの親子を狙っているの?」
「……それにしては動きが変。湖へ攻撃を仕掛ける様子もない」
「違うよ。嫌な匂いが伝わってくる。あの人たち、あたしたちを狙っている……!」
猫精族は匂いで相手の心を読めると聞いたことがある。
そんなロアナが言うのだから、間違いないだろう。
「……来る!」
天から高速で飛来した黒騎士の一騎が、鞘から剣を引き抜いて迫る。
ミルフィが矢を放つものの、黒騎士は剣を振るってそれを弾いた。
──嘘。ミルフィの矢、前に魔物の体表を簡単に穿ったほどなのに……!
「……ロアナ!」
「分かっているよっ!」
黒騎士が左手を伸ばしてこちらに到達する寸前、ロアナとミルフィが左右に分かれた。
右へ跳んだロアナは私を抱えて大きく逃れ、左へ跳んだミルフィはそのまま黒騎士へと水の塊を生成して放つ。
無数の槍のような形状となった水は、黒騎士の鎧に突き立つけれど……。
「……効いてない。そもそも出血すらない……?」
「ミルフィ!」
貫かれつつも、水槍を無視して剣を振り下ろした黒騎士。
ミルフィは自身と黒騎士の間に水を割り込ませて防御に回すけれど、一撃を受けきれずに宙へ放り投げられてしまった。
あまりにも体格差がありすぎたのだ。
割り込ませた水で出血はないように見えるものの、ミルフィは勢いを殺しきれずにそのまま湖へと落ちてしまう。
「そんな……!」
悲痛な声を上げるロアナ、私もミルフィを助けに行きたい気持ちでいっぱいだった。
でも動けなかった。
目の前の黒騎士が、鎧の隙間から照る、血色の瞳でこちらを見ていたから。
感情のない、生気のない、命のないような瞳に、根源的な恐怖を覚えて足が止まる。
ロアナは全身に魔力を漲らせ、いつでも跳躍できるよう構えているものの、小さな体が小刻みに震えていた。
ミルフィの落下地点には他の黒騎士三騎が集まり、あの子を探そうとしている。
状況も理解できないまま、ここで終わる……そんな予感が脳裏を掠めた時。
「……まだ、まだっ……!」
湖の水が巨大な竜の顎の形となり、黒騎士三騎を飲み込んだ。
さらに湖の中央が輝き、中からミルフィが浮かび上がって、水上に立ち上がった。
息は切れているものの、瞳はいつになく鋭く、天を覆う黒騎士たちを睨んでいた。
「……私を湖に落としたこと、後悔するといい! これだけの水があれば……!」
ミルフィが叫んだ途端、湖全体が揺れ始めた。
さらにミルフィ自身が全身から淡い燐光を放っている。
魔力の解放、水精霊としての真価を発揮しつつあるのだと理解した。
「……はぁっ!」
湖の水が底の方、ケルピー親子が潜んでいる場所を除いて一気に宙に浮き上がり、一つの巨大な姿へと変貌してゆく。
天を掴むような翼、逆巻く水による四肢、精悍な顎と顔つき。
その姿は紛れもない古竜だった。
けれど大きさは桁違いで、角の大きさを見る限りでは、古竜の間で神と崇められる神竜に匹敵するのではないだろうか。
「……行けっ!」
ミルフィが命じれば、水の巨竜は宙に浮かび黒騎士の群れへと向かう。
黒騎士たちは剣から黒の斬撃を飛ばし、攻撃を仕掛けるものの、体が水で構成されている巨竜には効果がない様子だ。
「このまま押し切れるの……⁉」
微かな希望が垣間見え、思わず笑った、その須臾。
「へぇ。どうしてなかなか、面白い手品だ」
バスン! と空を裂く音が響いて、水の巨竜が弾け飛んだ。
雨のように降り注ぐ巨竜だった水に、ミルフィは「……嘘」と膝を付いてしまった。
「これほどの水を操るとは、地表の種族にしてはやる方だ。この感じ、君は精霊なのかな。それも水を司る方の」
頭上、声のした方を見上げれば、黒騎士たちが一斉に宙に浮いたまま跪く姿勢となった。
その中心にいるのは、黒い外套を纏った人物。
声からして若い男性のようだけれど、声を聞かなければ性別を判断できないほど、非常に中性的な顔立ちだった。
ただし、その姿はどこか禍々しくある。
血色の瞳と衣服の装飾が怪しく輝き、手には赤い槍……赫槍を握っている。
状況からして彼がミルフィの水竜を一瞬で撃破したのだろう。
それを悟った時、もとい、彼の姿をああやって認識した時。
悪寒を通り越し、心臓を鷲掴みにされたように感じ、鼓動が早鐘を打ち始めた。
彼は……いいや、あれは。
この世に存在してはいけないものだと、目の前に現れていいものではないと、私の魂が叫んでいるような気がした。
絶対的な何かが、ヒトのような姿で、ヒトのような口をきいている。
決してヒトではない何かが、ヒトの真似事をしている。
そんな錯覚を覚えるほどの絶対的な威圧感と絶望感、死の気配。
中性的な顔立ちが悪魔の面貌に感じられてならない。
私は神族故なのか、魔力の流れを竜の国に住む誰より視覚や感覚で捉えられる。
でも、彼だけは何も分からない……見えなかった。
何せそこにあったのは、底なしの闇だったから。
魔力を見ようとすると人型の輪郭を残し、彼が闇色に塗り潰される。
光を通さない、あるいは逃さない漆黒。
世界が黒く人型にくり抜かれているかのような、底知れない魔力。
こんな魔力の持ち主は、まさか……。
「し、神族……なの……?」
問いかければ、彼は小さく目を見開いてから、肩を揺らす。
……声を押し殺して笑っているのだと気付くのに、数秒を要した。
「くっ……はははははっ! こいつは傑作だ! 出会って早々に神族なの? って。一体なんの確認かな。そうだよ、君と同じ神族さ。ついでに今がどういう状況なのか、大体は君も……」
そこまで言って、彼は閉口する。
何を思ったのか、細い顎に手を当てて小さく唸り「ああ……そうか、そうだった。知らないのも仕方ないのか」と語った。
「何、一人で納得しているのよ」
精一杯の虚勢を張って語りかけるものの、声が震えてしまう。
本当に同じ神族なのかと思うほどに、力の桁が、次元が違うと表す他ない。
彼がその気になれば、私は一瞬で命を刈り取られる。
でも……ここで屈したら、ロアナとミルフィを裏切ってしまう気がして、私は話しを続ける。
「私にも分かるように説明なさい……同じ神族なら!」
「分かるように? 説明したところで何になるのさ。僕になんの、得がある?」
彼は少し気分を害したのだろう。
目を細めて私に問う。
するとそれだけで、私の首が絞まった。
……否、絞まったように感じるのだ。
声が出ない、声が、それどころか呼吸さえ止まっている気がした。
彼の存在感に呑まれて、体の感覚すらなくなってしまったかのような。
「まあ、教えてやってもいいけどさ。でもこんな泥だらけの場所じゃあ風情がない。君と話し合うならより相応しい場所がある。僕らの居城、天界さ」
彼はゆっくりと降下し、こちらへ寄ってくる。
そのまま彼の手が私に届きかけた、寸前。
「……カルミアッ! させない! 私は二度と、故郷も仲間も失いは……!」
聞いたこともないほどに声を張り上げ、ミルフィが割り込もうとやってきた。
足場にした水を伸ばし、湖からこちらへと滑るようにしてやってくる。
途端、私は呼吸を思い出し、咄嗟に叫んだ。
「だめ! 私のことはもう……!」
そこから先は、時間がゆっくりと進んでいくようだった。
黒い青年が赫槍を横薙ぎにし、ミルフィはそれを防ごうと水を操る。
でも水は足止めにもならず、全てを断ち切って穂先がミルフィの首に届こうとしていた。
穂先をゆっくりと目で追うミルフィは歯を食いしばっていた。
このままでは終われない、そんな焦りと怒りでいっぱいの表情だったけれど、最後に口を動かし、私を見て悔しげに「ごめん」と言った。
「ミルフィ……!」
ロアナが飛び出すものの、もう間に合わない。
そのままミルフィの首に穂先が入りかけた……瞬間。
ミルフィの首に穂先が届くより先、穂先が何かに食い止められて火花が散り、時間の流れが元に戻る。
甲高い金属音が響いて、黒い青年の視線が乱入者へと動いた。
「君、その剣は……!」
「ミルフィから、離れろ!」
上空から降下し、剣で赫槍を止め、すんでのところでミルフィを救った人物。
彼は普段の優しげな表情を、覚悟の籠もった武人のものに変え、神族へと臆さず立ち向かっていた。
「レイド!」
「カルミア! ミルフィとロアナを連れて逃げるんだ!」




