化け物
残酷な描写がありますのでご注意下さい。
少年が足跡を辿り始めて10分。
それまでの間少年は誰とも出会う事はなかった。
ただただ足跡の主に追いつくために走り続け、そして……その足跡が途切れてしまったのだ。
勿論、足跡の主が飛んで別の場所へと向かったというわけではない。
単に道を逸れて森の奥へと向かって行っただけだ。
だがそれでも少年にとってはあまり好ましくない事ではない。
森の奥へと向かうにせよ向かわないにせよ誰かと出会うという保証がないという事なのだから。
(……これは面倒な。これ以上足跡を辿るのは難しいでしょうし後は運に任せて進むほかなさそうですね。ですがそれぐらいならば探すのを諦めたほうが……。)
少年がそんな事を考えているとかすかではあるが森の奥から何かが動く音が聞こえた。
少年は知る由がない事だが足跡の主が落ち葉を踏んだのだ。
音が生じた、つまりは誰かがいる事に気付いて少年が耳を澄ますと話し声まで聞こえてくる。
「おいそっちに行ったぞ。早く捕まえろ。」
「分かっているが足元に落ち葉があるせいで動きにくいんだよ!」
「口を動かしている暇があったら追いかけろ!あの少女を逃したくはないだろ?」
その声は明らかに緊張感あふれる声で……それ故に少年が興味を抱くには十分だった。
少年は笑みを浮かべると手前の茂みをかき分けなるべく音を立てないように木の陰から木の陰へと移りながら奥へと向かい始めた。
決して忍者のように完璧な物ではないが、それでも距離がある程度ある以上十分な物だ。
だが、男たちは少女という獲物を捕らえようとしているため当然の事ながらその場でとどまっているはずがない。
次第に少年との距離の差は開き始める。
だがその事に少年は気付くや否やさらに速度を上げて男たちの方へと向かい始めた。
途中何度も音を立ててしまうが、幸いにも男たちの注意は完全に少女を捕まえることに向いていたので気付かれることなくその差はじりじりと縮まっていく。
「そっちに行ったぞ!捕まえろ!」
「よし、捕まえたぞ!さっさと気絶させて、それから手足を縛って動けないようにしろ!」
だが、少年が近づくよりも先に少女が捕まってしまった。
大の大人と少女が追いかけっこをしたのだからそれは当然なのだが……少年にとっては芳しくない事だ。
本当ならばもっと近くに近寄って状況を掴みたかったのだから。
しかし少年はそれが楽しいとでも言わんばかりに笑みを浮かべると一度目を閉じ、開くと同時に先程と同様に迅速に男達の下へと向かって行く。
それは潜入に長けたスパイのような、というよりも獲物を前にした猫のような物に感じられた。
そして男達が少女を運んで近くの開けた場所へと辿り着くころには少年はその広場の周りの茂みへと身を潜めていた。
そして男達の注意が少女に向かっているのを良い事に男達の事を観察し始める。
人数は5人。
全員がただの村人のような服を着ている、というかただの村人だ。
腰にはナイフと思わしき物を引っ提げている。
防具は着けていない。
リーダー格の男は恐らくは真ん中にいる背の高めの男。
5人の位置関係。
少年がそういった視覚からの情報を確保しつつ、その一方で男達の会話から少しでも情報を得ようと傍耳を聞きたてていると何やら男達がもめ始めた。
「で、この女をどうするんだ?」
「無論売るに決まっているだろう?こいつを売れば一生好きな事をして過ごせるんだぜ。まあせっかく手足の自由を奪ったんだから楽しんでからだがな。多少価値は落ちるだろうがそれでも一生遊んで暮らす分には十分だ。」
「そりゃいいな。美人だしさぞかし楽しめるだろうさ。」
「そうだな。アラン、お前は見張りをしろ。そして誰かが来たらすぐに伝えろ。いいな?」
「なんで自分だけなんですか!ずるいですよ兄貴。」
「そりゃお前が一番年下だからだ。安心しろ、最後に楽しませてやるから。」
「へいへい。……たく、なんで俺が。」
少年の耳に聞こえてきたのは少女の扱いについての男達の下卑た内容の会話だった。
だが別にその内容に対して少年は顔をしかめる事も興奮を示す事もない。
少年にとってみれば全くの他人である少女がどうなろうと、また男達が何をしようともどうでも良い事なのだ。
少年が求めるのはこの世界で生き抜くために必要な情報のみ。
それ故に一切の動揺もせずにそこに含まれていた情報について冷静に考える。
(ふむ、少女を売れば一生遊んで暮らせるとはどういうことでしょうか?人間の売り買いという事から奴隷が存在するというのは分かりますが、どれほど高価な奴隷であっても一生を遊んで暮らせるほどの価値があるとは思えないのですが。で、問題はあの少女を助ける必要があるのかどうか。助けたところで利益があるかどうかは不明ですし武器も持たずに5人を倒すのは少し厳しいような。とは言えここで逃げ出すのは時間の無駄ですし、それに……何よりも気になりますからね。あの少女がどのような存在なのか。それを考えるとやはり男達を倒すという選択が一番楽しそうです。まずは1人見張りをする事になったアランとやらから倒しましょうか。)
少年が男達の様子を窺いながら考えていると、アランと呼ばれた男が1人だけで見張りという体のいい厄介払いとして少年の隠れている近くへとやって来た。
それは少年にとっては非常に喜ばしい事だ。
5人の内の1人がみすみす自分の領域に入ってきたのだから。
さらに少年にとって好都合なことに他の男達には聞こえないぐらいの声で愚痴を言い始め、見張りをしようとはしていない。
「兄貴たちはいつもああだ。俺だけが割りを食う。クソが!……でも落ち着け。あんな糞野郎だがそれでもあと少し付いて行けば貴族のような生活が待っているんだ。今は我慢してその未来を掴めばいいじゃないか。そして機会があればあいつらを殺して見返してやればいい。それに……」
アランは他の男達よりも年下なため基本的には仲間というよりも部下のような扱いだった。
それゆえに、今回少女を捕まえる際に折角活躍したというのに碌な役目を与えられなかったのだ。
当然、愚痴が出るのは何もおかしなことではないのだが……間が悪かった。
たまたま近くにはアランを殺そうとする者が、それも異世界から神に呼び出された少年がいたのだから。
男たちが女の服に指をかけ、アランがその事に気付いて視線をそちらに向けようとした瞬間、少年は近くに落ちていた石を掴み、一度大きく息を吸い込むとアランへと力いっぱい投げつけた。
そして石は減速することもなくまっすぐにアランの頭へと向かっていき……飛び散った血と共に哀れな男は声を上げることもなく地へと倒れる。
それはあまりにも突然の出来事だった。
アランにとっても勿論のことだが男達にとってもそれは同じ。
見張りの必要があると思ってアランを見張りにしたのではないというのに、そのアランが突然攻撃されたのだ。
それは誰にも後を付けられていないと信じ切っていた男達にとっては余りにも想定外で、そしてただの村人でしかない男たちにとっては余りにも非日常的な状況だ。
だが男達は幸運だった。
攻撃されたのが彼らの中で最もどうでも良いアランだったのだから。
それ故に男達は何とか現実を受け入れる事が出来たのだから。
「どうした!」
「アラン、何があった!返事をしろ!」
「気を付けろ!何者かがいるぞ!」
アランが倒れたことで場に混乱が巻き起こる。
他の誰かがやられるよりは軽微とは言えそれでもただの村人でしかない男達が混乱もなく人の死を受け入れられはしない。
そして当然、その混乱は少年の思うつぼだ。
少年は男達とは違いアランの死に対してほとんど動揺を見せる事はなかった。
アランの事を何も知らない以上、アランの死も別の人間の死も同じ死であることに何ら変わりはないのだ。
ただそれが少年にとって必要な死か不必要な死か、それだけの違いだ。
そして少年は冷静に、着々と男達を倒す準備を始めた。
アランと呼ばれた男の下にしゃがんだまま移動し、腰からナイフを奪って……
「おい、どうする?ここから移動するか?」
「いや、それはやめておけ。相手がどこに潜んでいるのかもわからないのだぞ。」
「くそ、この女を手に入れたばかりだというのに!」
「愚痴を言っても仕方があるまい。とにかく、今相手を殺さなければ俺たちの未来はないぞ。」
「人を殺したこともないのに戦えと?糞が!お前に従うんじゃなかった!」
「それを選んだのはお前だろ?それにぼやいたところで状況は変わらんぞ。」
(なるほど。別に戦闘慣れしているわけではないと。それなのに何故少女を襲おうと思ったのかは少し気になりますが……上手くやれば案外勝てるかもしれませんね。少し演技をするとして……。)
少年が思考している間にも男達は揉め続け、少年が戦う用意をするのに十分な時間が生み出され……そして少年は立ち上がった。
にこやかな笑みとともに。
*
突然アランが立ち上がった。
何の脈絡もなく声を上げる事もなく立ち上がった。
だがそこには本人の意思などない。
何者かに持ち上げられてそのように見えたのだ。
男達はその事に気付くと一歩あとずさりしてその何者かへとナイフを向ける。
だが男達はその何者かに切りかかろうとは思えなかった。
アランが立ち上がるという光景は余りにも男達には衝撃過ぎて、そしてそれを行った何者かがあまりにも不気味に思えたのだ。
暫くの間静寂の時が流れ誰一人として動こうとしない中アランの後ろに隠れていた何者かは男達の前へと姿を現した。
それは1人の少年。
男達の足元に転がる少女とそう年は変わらないであろう少年だ。
それ故に男達は目の前の光景が信じられない。
アランの後ろから少年が出てきたという事はその少年がアランを殺した者だという事だと認識してしまったから。
しかしそうは言っても信じないわけにはいかない。
現にその少年はアランを持っているのだから。
何とか男達はその光景を受け入れるが、それでもどうしようもないまでの不気味さが体に付き纏い心臓が早鐘のように脈打つ。
そんな男達の様子を嘲笑うかの如く少年はアランを盾にしてゆっくりと笑みを浮かべた。
「やあやあ、皆さん。このような所で何をしているのですか。お楽しみの所申し訳ないのですが私も混ぜてはくれませんか?」
出てきた少年の口調は丁寧。
だがそれを頭から血を流した、死んでいてもおかしくない物を持ちながら言っているのだ。
そのような事をする少年がいわゆる普通の人間なのだとは到底思えない。
それに気付いた瞬間男たちの背筋に稲妻のように悪寒が走った。
時折村にやってきた兵士に脅された時とは異なった種の悪寒が。
「おやおや、だんまりですか。では勝手に混ぜてもらいますよ。」
「……てめえ何者だ。ただのガキではないだろう?」
リーダー格の男が警戒心を滲ませて少年へと問いかけるが少年は一向に動じない。
ただただ自然な笑みを浮かべるだけで怒りも狂気も見せないのだ。
それこそ知り合いと世間話をしているかのように自然で……それ故に恐ろしい。
男達が恐怖を顔に浮かべると少年は僅かに苦笑して口を開いた。
「最初の一言がそれとは。もう少し口調を和らげた方が良いと思いますよ?少し不快です。」
「手に人間を持っている人間に言われたくねぇわ!」
「これは失礼を。私としたことが。」
そう言うと少年は何の迷いもなく手元のナイフを握りしめるとアランの顔面に突き刺した。
1突きで辺りに血が飛び散り、2突き目でアランの肉が抉られ頭蓋骨が露わになる。
当然男たちは一様に恐怖の表情を浮かべるがそれでもやはり少年は動じない。
迸った鮮血が少年の手を濡らすが少年は僅かに不快そうな顔をしただけでそれ以上の反応を見せることもなくナイフを引き抜いた。
そしてナイフをアランの服で拭うとやはり何もなかったかのように再び笑みを浮かべる。
「これで死体に、つまり物になりました。では話を続けましょうか。」
少年は先程から笑顔を保ったまま丁寧な物腰で話す。
だがそれは男たちにとっては恐怖以外の何物でもない。
人を殺したというのに動揺、あるいは興奮の1つもしないというのは男達には信じられなかった。
その上、先程から何故か少年の存在に違和感を感じているのだ。
中身と外見が一致していない、いや何かが根本的に違うという事に。
例え真っ暗な洞窟に長時間閉じ込められたとしても感じることが出来ないほどの恐怖。
兵士や山賊の恫喝なぞ比べ物にならないほどの恐怖。
目の前に死が具現化したような恐怖。
やがて男たちは皆一様に1つの言葉へと行き着いた。
「化け物」
男の1人から声が漏れた。
それは男が意識して発した声だったのかは本人にも分からない。
それほどに声は小さく一瞬にして風の中に消え去ったのだから。
しかし誰一人として身動きすらしないという異様な空間においてははっきりと聞こえる声だった。
だがそれに対しても少年は何の反応も見せない。
ただ笑みを浮かべて見つめているだけだ。
そしてそれは男たちにとってみれば……反応を返されるよりもなお恐ろしい物のように思われた。
そしてそれが引き金となり男達の口から次々と無意識的に声が絞り出される。
「化け物……。」
「化け物だ。」
「逃げなければ。」
「………」
気が付いた時には男たちの全員が正常な思考を失っていた。
頭の内を占めるのは恐怖のみ。
先程まで考えていた下卑た考えや素晴らしい未来など霧散してしまっていた。
もしもここで男たちが一斉に立ち向かっていたというのであれば恐らく少年に勝ち目はなかっただろう。
少年は多少は強いが男達との間にそこまでの差があるわけではない。
数の暴力相手には勝つことなど出来ないのだ。
だが男たちの誰もが戦うという考えを放棄していた。
得体のしれない、人間ですらない何かに戦いを挑むなど正気の沙汰ではないと。
「逃げろォォォォォーーーーーーーーーーーー。」
男の一人はそう叫ぶと逃げ出そうとした。
しかし男は動かなかった、いや、動けなかった。
脳は逃げようと懸命に指示を出しているが腰が抜けてしまっているのだ。
少年は男の様子を見て再び苦笑を漏らすとゆっくりと男へと歩く。
決して焦らず、一歩一歩噛み締めるかの如くゆっくりと。
しかし逃げるのに十分な時間はあると言うのに誰一人として逃げ出しはしない。
まるで金縛りにでもあったかのようにその場にとどまる事しか出来ないのだ。
少年が一歩歩くたびに僅かだが足音が響き土煙が舞う。
それは男にとって自らの余命をカウントダウンされているかのようにしか思えなかった。
鎌を携えた死神が忍び寄って来るかのように恐ろしく、もはや抵抗する気力さえ湧かない。
股間の辺りから液体が漏れ出しじんわりと温かさを感じるが、それさえも気になりはしない。
そして少年はそのまま男へとゆっくりと近づいてきて顔を近づけると……今度は容赦なくナイフを心臓へと突き立てた。
数度体が動いた後、男は恐怖を顔面に張り付けたまま事切れそして地面へと滑り落ちる。
「さて、次はどなたが楽しませてくれますか?」
その顔はやはり依然と変わらなかった。
ただただ自然な笑みを浮かべているだけで……それは男たちにとって受け入れたくない事実だった。
次の瞬間、残っていた3人の内2人は逃げ出した。
しかし少年がわざわざそれを見逃してくれるはずもない。
逃げ出したうちの1人は少年へと背を向けた瞬間、少年の手から放たれたナイフが背に突き刺さり前のめりに突っ伏す。
そして逃げ遅れたもう1人は自分だけが取り残された事に気付き、逃げ出した2人へと叫ぼうとし……目の前にナイフが迫っている事を認識した。
声を上げる暇もなく銀色の煌めきが男の目の前を過ぎり……死んだ。
だがそれでも少年の顔は一切変わらぬ笑顔だった。
そしてそこにはやはり狂気など混じっていない。
辺り一面には血の海が広がる。
その中央に立つ少年はどこまでも恐ろしくて……それでいてどこか幻想的だった。
この場には不釣り合いな少年の笑みがどこか現実離れした雰囲気を醸し出しているのだ。
その服は朱に染まっているというのに。
*
男は走る。
ただひたすらに走る。
仲間だった存在の事など気にせずに走る。
ただ一つのことだけを気にして。
その速さは決して速くはない。
子供が全速力で走るのと同じくらいだ。
少女を使うために体力をかなり使い、そして恐怖のあまり体を思うように動かせていないのだからそれは仕方がない。
だが何度もこけそうになりながらそれでも走る。
ただ恐怖そのものから逃れたいがために。
だが不幸なことに男は運が悪かった。
地面に落ちていた石に気付かず躓いてしまったのだから。
直ぐに死ぬことが出来なかったのだから。
「おや、もう終わりですか。他の方々とは遊び終わってしまったのですが。」
男が立ち上がろうとすると耳元からそんな声が聞こえた。
そして後ろを振り向くとやはりそこには怪物が、少年の形をした化け物がいた。
全身を血で濡らし、どす黒いナイフを持ち、なおかつ笑みを浮かべている。
そんな化け物が。
「お、お、お前、お前は何者なんだ!」
男は震え声になりながらも何とか声を絞り出した。
それは称賛すべきことだろう。
僅かではあるが恐怖に打ち勝ったのだから。
だがそれだけだ。
そんな物では結末は変わらない。
「何者、何者なんでしょう?私は前世と同じ人間と言えるのか、それともそうではないのか。まあいずれにせよ私が私の意思で動いている事に変わりはないですか。」
男には少年が言っている言葉の意味が何一つ理解できなかった。
それは少年が異世界から転生してきたという事を知らない以上仕方のない事だ。
だがそんな男でも一つ分かることがあった。
それはこれが演技ではないという事。
それゆえになお恐怖が掻き立てられる。
それが明らかに自分とは異なった理解出来ない存在を前にして男が出来る唯一の事だった。
「おや、怖がらせてしまいましたか。安心してください。私にはあなたを直ぐに殺す気はさらさらありませんよ。ただ聞きたいことがあるだけです。ああ、答えたくなければ勝手に聞き出しますので安心してください。それにしても人を化け物呼ばわりとは少し失礼ではないでしょうか?」
男は再度思った。
こいつは化け物だと。
そして男にとって最悪の時間。
質問という名の拷問が始まった。