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少年とお姉さんたち

姉とは良いものですね。

朝が好きだ。それも日が昇りきってからでは遅い。

夜明けの少し前に俺は目を覚ます。アラームをセットしなくても体が知っている。

暗い室内。カーテンに外灯の光が仄かに浮かんでいる。

しんと静まった空気。最初に聞くのは自分の呼吸、それから布団を擦る音だ。

他には何らの気配もない。ときどき風が窓を撫でる。遠くで自動車が通り過ぎる。それだけだ。


やがて少しずつ、世界が起き出す。

新聞配達のバイク。カラスの鳴き声。どこかの家で窓が開く。車の量も徐々に増えてきた。

1階で目覚まし時計が鳴る。親が起きた。

水が流れる音。廊下を歩く足音。ヤカンでお湯を沸かす音。

静寂だけが占めていた空間に、色々な音が現れて自分の居場所につく。

1日が始まる。この開幕を聞くのが俺の楽しみだった。


朝日が差し込んで部屋の中を照らす。今日は晴れるみたいだ。

俺は布団から起き上がり、伸びをする。ポキキと背骨が鳴った。

身支度を整え、朝飯を食べる。それから学校へ向かった。


通学路、川沿いの桜並木は緑に覆われていた。

入学したての時はじっくり歩いて鑑賞したけれど、今は葉擦れの音が平凡な日常に戻ったことを知らせる。

高校生になって、気づけばひと月が経っていた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


教室は音で溢れ返っている。

クラスメートたちの話し声。細い弦を無作法に弾くような、脈絡のない高音が重なる。

内容は聞き取れないけれど、誰も彼も皆、会話を楽しんでいるようだ。


俺はと言えば、前方窓際の席で科学雑誌を広げていた。

特に興味があるわけではない。

読書する姿を見せることで、音の洪水に巻き込まれることを避けているのだ。


別に無頼を気取っているのではないし、孤立しているのでもない。たぶん。

たまにクラスの男子から話し掛けられるが、うまく応えられないのだ。

「昨日のテレビ、あれ見たか?」「うちのクラス、欠席する奴多いよな」とか何とか色々。

日本語はわかるけれど、それを頭の中で体系的な意味内容として処理できない。

なんで俺にそんな話をするのか、俺にどんな返答を求めているのか、会話の意図がわからなかった。

そんなわけで思うようにコミュニケーションが取れず、俺は何となく付き合いづらい奴だと思われたようだ。

それでいい。人にはそれぞれ適切な距離感がある。

俺は皆のことが嫌いじゃないし、クラスで何かするときはそれなりに頑張る。

そういう奴もいるということで良いんじゃないだろうか。


「おーっす、リント」

その声で、例外がいたことを思い出した。

俺の本名は秋野倫人あきの みちひと。読み方を変えて「リント」と呼ばれることがある。

この呼び方をするのは二人。一人は姉で、もう一人が俺を呼んだ男――岩井健司いわい けんじだ。


「なんか用か?」

俺は雑誌から顔を上げずに尋ねた。

「お前な、朝一番で顔を合わせたらまず挨拶だろ。お前と友達やってる自分を褒めたくなる態度はご立派だけどよ」

健司の声は工事現場みたいで、周囲の状況などお構いなしに響く。

相手の喜怒哀楽を顧みず、いつでも一本調子な図太さがあった。


しかし奴の言うことももっともなので、俺は雑誌を机に伏せた。

「おはよう健司」

「おう」

健司が歯を剥き出したので、噛みつかれるかと思って首を手で覆った。

何だ、笑っただけか。びっくりさせないでほしい。


健司とは小学1年生からの腐れ縁だ。

何かと俺にちょっかいをかけてくるので、仕方なく一緒に遊ぶことにした。

机の上で消しゴムを弾いて、相手の消しゴムを落とす遊び。確か4人くらいでやったと思う。

最初、健司は不自然なほど動かなかった。

俺は別の相手の消しゴムを落としたのだが、その際に俺の消しゴムが机の端に寄った。

その途端、奴が俺の消しゴムを狙いすまして落としやがった。

大喜びする健司とリアルファイトになった。人生初の喧嘩だ。

それからも仲の良い友人なんて代物ではないけれど、何となく無視できない人間だ。

そして今に至るまで関係が続いている。


「リント、俺の顔どう思う?」

健司が唐突に意味不明なことをぬかした。

「川底で濁った水に洗われてそうなお前の顔を見て、どう思えと?」

「誰が苔むした石だよ! 千代に八千代にブサイクってか?いや真面目な話、高校生だし見た目も気い使ってこうかと思ってな」

それは好きにすればいいが、なぜわざわざ俺に話すのだろう。

解決する気もない疑問を抱きながら見飽きたツラを眺めていると、健司が顔を引き締めた。

「どうだ。俺の顔、そんなに悪くないと思わねえか?」

朝っぱらから人の時間を使ってこいつは何を言っているんだ。初夏の陽気で脳みそがやられちまったのか?

俺よりも医者にみてもらえと言いたくなるが、声音に少し重さが混じっている。

まるっきりふざけているわけでもないようだ。

だから俺も真面目に答えることにした。


「悪くはないぞ」

「お、マジか」

俺の答えが意外だったのか、目を丸くする健司。ニヤつきが漏れ出ているのが少々気持ち悪い。

俺は机に胸を付けるように身を乗り出して、健司の顔を見上げた。

「こう、左下30度くらいから見ると、カッコ良く見えなくもない」

すると健司は馬鹿にされたと思ったのか、気色ばんで俺を指差した。

「お前なあ! ちょっとイケメンで俺より成績良くて運動できて歌が上手くて美人の姉ちゃんがいるからって、調子こいてんじゃねえぞ!あとその上目遣いやめろ、不覚にもドキッとしちまうだろうがっ!」

どういう怒り方だ。

何はともあれ、蓼食う虫も好き好きということで話が着地したな。

タイミングよく予鈴が鳴ったので、健司は「じゃあな」と投げやりに言って席へ戻った。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


放課後。俺は部活に入っていないので、さっさと帰り支度をする。

校門を出たところでスマホが鳴った。母親からの電話だ。

「もしもし、ちょっと待って」

俺は一旦スマホを離し、ポケットからイヤホンマイクを取り出した。

デジタル処理された音声を聞き取って内容を理解するのは、なぜか異様に疲れる。

そのため少しでも肉声に近づけたいのだ。

イヤホンをスマホに繋いで、耳にはめた。

「どうぞ」

『ああ倫人、あんた今学校おわったと?』

「うん」

『ちょっと駅前まで行って、いつものハチミツうてきちゃらん?お姉ちゃんがバイト先のバーで使うっち連絡あったけん、届けてほしいんよ』

「なんで俺? 姉ちゃん自分で行けばいいやろ」

『そげなこつ言わんとぉ。あんた小さい頃は、よくお姉ちゃんに面倒みてもらったやないね。いつも山に一人でおって、お姉ちゃん迎えに行ったとよ』

「そうだっけ?」

なんてとぼけてみたが、本当はよく覚えている。

夕暮れの銀杏並木を、姉と手を繋いで歩いた。

あの時の感触と姉が口ずさむ歌の響きは、俺の原風景として胸の奥に沈んでいる。


「しゃーない、わかったよ。あとで寄るって姉ちゃんに言っといて」

『りょうかい。頼むでね』

通話を終えて、俺は駅へと向かった。



駅前の商店街に、ハチミツ専門店がある。

そこで地元のニホンミツバチから採った国産ハチミツが販売されていた。

そのハチミツを買って、姉のバイト先であるバーに向かう。


俺の姉・秋野砂月あきの さつきは8歳上のフリーターだ。

地元の大学を中退してから色々な仕事に手を出して、辞めたものもあれば続けているものもある。

今も5つか6つか、とにかくあちこちで働いて、家に帰らないことも多い。

そうやって働きバチみたいに飛び回るから、今回みたいに仕事の材料を忘れることもある。

今から行くバーも初めての場所ではなかった。

姉は俺と正反対な性格で、正直苦手だ。

商店街の中心から少し外れた通りを歩く。

この辺りは夜の店が多くて、今の時間は静かだ。


「1年2組、秋野倫人くん」

不意に後ろから声をかけられた。振り向くと一人の女性が立っていた。

かなり若いけれど、年上の落ち着いた雰囲気があ女性。

知らない人ではない。たまに学校で見かけることがあった。


「えっと、陣山先生?」

俺が名前を告げると、女性の顔が華やいだ。

「あら嬉しい。覚えていてくれたのね。お察しの通り、私が陣山佐絵じんやま さえです。先生といっても教員じゃなくて、スクールソーシャルワーカーだけれどね」

清流のように透き通った声。静かにせせらぐけれど弱々しいのではなく、芯の通った響きがある。

学校関係者ということもあり、俺はすっかり警戒を解いてしまった。

「それで秋野君。こんなところで何をしているの?

まさか、いけない遊びに誘われたのかしら」

「いえ、姉にお使いを頼まれて届けに行くところです」

俺はハチミツのビンが入った袋を掲げた。

「あら、そうだったの」

陣山先生の声のトーンが少しだけ低くなって、残念そうな感情が混じる。なんで残念そうなんだ。


すると先生がパンと手を打って、俺に顔を近づけた。

「ねえ、秋野君のお姉さんって、もしかして秋野砂月さん?」

急にパーソナルスペースを詰められて、少しひるむ。

「はい。えっと、姉を知ってるんですか?」

「ああ、やっぱりそうだったのね」

先生は心底嬉しそうな声音で、少女のように笑った。

「砂月さんは私の高校時代の先輩なの。よく一緒に遊んでもらったわ」

姉は俺と同じ高校に通っていた。ということは、先生も俺の先輩なのか。

「秋野君、砂月さんのお勤め先に行くのでしょう? 私も付いていっていいかしら」

声だけでなく、話し方も明瞭な人だ。意図が真っすぐ伝わってくる。

それが何だか気持ち良かった。

「いいですよ」

俺は了承し、二人で姉の許へと向かった。



とある雑居ビルの玄関横に、看板が取り付けられていた。

地下への階段を下りると、シックな木の扉がある。

やや重い扉を引いて、俺たちは開店前のバーに入った。


店内は奥に向かって細長い形になっており、左手にカウンターがある。

その向こうの壁には棚があり、何十種類もの酒が並んでいる。

営業中はバーテンダーがあそこに立って客をもてなすのだろう。

今は準備中で、店のロゴが入ったTシャツを着た店員が床をモップがけしていた。俺の姉だ。

扉の軋む音に気づき、姉がこちらを向いた。

「おっすリント、て……」

姉の弾む声が一気に沈んだ。

『苦虫を噛み潰したような』とは、こういう顔を言うのだろう。

そして姉にとっての苦虫は、どうやら俺の隣にいる人物らしい。

「先輩、お久しぶりです」

陣山先生の声は、嬉しさを抑えきれない様子だ。

「なしてアンタが人の弟と一緒におるん?」

「たまたま外で会ったんです。私、このへんの見回りもしているので」

「あーそうか。あんた学校の相談員やっとるんやったね。よか。二人とも座り」


姉がモップを壁に立てかけてカウンターに入る。

俺と先生は、姉がいる前の席についた。

「姉ちゃん、これ頼まれたやつ」

俺はハチミツを姉に差し出した。

「おお、ありがとうね。はいこれ、とっとき」

姉が渡してきたお金は、ハチミツの代金よりも明らかに多かった。

「ありがと」

俺は素直に受け取った。


「せっかくやけん、一杯飲んできんさい」

姉が冷蔵庫から飲み物を取り出した。オレンジジュースと、ビンに入った牛乳。

金属製の器に氷を入れたあと、ジュースと牛乳をそれぞれ分量を量って入れる。そこにハチミツも加えた。

器を持って勢いよく振る。激流の中で氷が弾ける音が耳に心地よかった。

グラスに黄白色の液体が注がれる。

スライスしたオレンジがグラスの縁に飾られ、俺の前に出された。


「どうぞ」

「うん。いただきます」

俺はゆっくりグラスを傾けて、カクテルを口に含んだ。

オレンジの酸味と牛乳のなめらかさ、それにハチミツの甘みが溶け合い、舌と喉と胃袋を優しく撫でた。

「うまい」

俺が正直な感想を言うと、姉は白い歯を見せて笑った。俺は何となくグラスに視線を落とした。


「先輩、私にも作っていただけますか」

「ほいほい、あんたは水道水で充分たいね」

「先輩の手から渡されるなら、喜んで」

「塩素でアホが消毒できるなら本当に出すとこやけんど」

そう言いながら姉が用意したのは、トマトジュースとタバスコ。

タバスコなんてものも使うのか。

「いただきます」

完成した真っ赤なカクテルを、陣山先生はためらわずに飲み干した。

「おいしい。先輩の味がします」

「駄目やこの子、アホが加速しちょる。どげんしたらええやろ」

そんな風に話す姉の声音は、あまり聞いたことがないものだった。

俺が知る姉はいつでも唯我独尊で、人の気持ちなどお構いなしに破壊的な地鳴りを耳に残す。

そういう人間だと思っていたのだけれど。


そんなことを考えて二人を眺めていたら、姉が話題の矛先を俺に向けた。

「そいで、リントは学校でどんな感じね? 楽しそうにしちょるんか?」

俺の話題なのに、俺ではなく先生に尋ねる。

俺に訊いても「まあ」としか答えないことを知っているのだ。


「そうですね。私が見聞きした限りではありますが……」

先生は一度俺の方を見て、再び姉に顔を向けた。

「たぶん、先輩が考えている通りだと思いますよ」

なんだそりゃ。

また姉にアホ呼ばわりされるんじゃないかと思ったら、姉は何やら得心した様子だ。

「ふぅーん。そうね」

そしてテーブルに肘をつき、俺を見てニヤニヤする。

「あんた、これから大変になるけん、頑張りんさいよ」

姉も先生も、一体なんの話をしているのか。

当事者である俺だけが分かっていないようで納得いかない。


俺はカクテルをこの上なく真剣に飲んだ。

何かしら姉に抗議したくて、その糸口を見つけてやろうと思ったのだ。

でも飲めば飲むほど、姉の作ったカクテルはうまかった。

顔を上げると、姉が意地悪く満足そうな笑みを向けている。


やっぱり、この姉は苦手だ。


挿絵(By みてみん)

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