空
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「…了解した。では明日の12時より査定を行う」
黒スーツの男はそう言って部屋を後にした。博士は黙って私の横を通り過ぎると、奥の部屋へ向かった。
「博士! 待ってください!」
私は叫んだ。
「…明日の準備をする」
「なんなんですか査定って! 私が被験体ってどういうことですか!?」
「この研究所のルールだ」
博士は説明した。このラボに所属する研究員には、一定の成果を出す義務がある。長期間成果を出せなかった者は除籍となり、ラボから追放される。自分の研究こそが生きがいの研究員にとって、それは最も恐れることだった。
博士はこのラボに入所して今年で6年目だそうだが、今まで目立った成果を上げられていなかった。運営側もこれ以上の許容はできない、ということだった。
「で…でも、失敗したら死ぬって…」
「失敗することはない」
「でも…」
「私は夜通し最終調整を行う。君はもう寝なさい」
博士はそう言って、奥の部屋のドアを開けた。私は博士の手を掴んだ。
「博士! 待ってください! どうして…」
「離せ」
ぞっとするほど冷たい声で博士は言った。私はその声に怯えて手を離してしまう。
ドアは閉められた。『do not disturb』の札が少し揺れた。
わけがわからなかった。
明日、博士は査定を受ける。その実験には私が使われる。もし、その実験が失敗したら、私は…死ぬ?
博士は何の躊躇もなく、私に一言の相談もなく私を被験体に決定した。
査定の合格に絶対の自信があったのか? でも、だからって…
何かの間違いだと思いたかった。信じたくなかった。博士は道を踏み外した他の研究員たちとは違うと、そう思っていた。そう思っていたのに。
ベッドに横になっても全く気持ちは整理できなかった。今まではこんな時に横に博士がいてくれて、それで安心できたのに、今となっては博士を頼ることもできなかった。
博士、あなたは私を助けてくれたんじゃなかったんですか?
私に日本語を教えたのは、いつか日本で博士と一緒に暮らすからじゃなかったんですか?
私に博士の研究分野の教育をしたのは、いつか私に自分の研究を継いで欲しかったからじゃなかったんですか?
私の誕生日を祝ってくれたのは、私を家族だと思ってくれてたからじゃなかったんですか?
私に名前をつけたのは、私を大切に思ってくれたからじゃなかったんですか?
『君が必要だからだ』
–––あの言葉はこういうことだったんですか?
私はもう博士からもらった言葉の何を信じればいいのかわからなかった。
博士が明日の査定に合格したとして、私が死ななかったとして、今までと同じように博士に接することができるとは思えなかった。
「ねえ博士、あなたは一体何者なんですか?」
その問いに答える人はいなかった。
声を上げずに、私は泣いた。
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結局、青に再会することはないまま7年が経ち、25歳になった僕はとっくに大学を卒業して東京のとある会社に就職した。だが、そこでかなり酷い目にあって、結局離職し地元に帰ってきていた。
風の噂で聞いたところによると、青はアメリカの最高学府に進学したらしい。と言ってもどこのことかはわからなかったし、それが本当なのかどうかもわからなかった。
あの後何人かの女性とお付き合いはしたけど、誰とも長くは続かなかった。僕の心の中には、いつだって彼女がいたからだ。
夏、僕は海岸沿いの道を自転車で走っていた。10年前、青と出会ったあの海岸を目指していた。
久しぶりに訪れた海岸は、オンシーズンだというのにやはり人は少なかった。
青を探して、僕は砂浜を歩き始めた。
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「おはよう」
と博士は言った。あまりにも日常的なその言葉に、私は昨日のことは全部悪い夢だったのかと思った。だが、次の言葉に私は絶望した。
「これに着替えてくれ」
博士が取り出したそれは、薄緑色の病衣のような服だった。これはこのラボで人体実験を受ける者が着用するもので、私が一番最初に着ていたものとよく似ていた。
夢では、なかった。時計を見ると今は11時だった。あと一時間もしないうちに『査定』が始まる。私は博士からもらった服を脱ぎ、シャワーを浴びた後、その病衣を着た。
「…飲みなさい」
机の上ではマグカップから湯気が上っている。そうかな、とは思ったが、やはりココアだった。私は椅子に座りマグカップを持つ。その手は少し震えていた。ココアに口をつけるが、味なんてわからなかった。
「何を…しているんですか」
博士は私の背後に立って、私の髪を手で梳いていた。
「…三つ編みを作ろうと思ってな」
そう言って、博士は私の髪を編み始めた。ラボ内に床屋などあるはずもないので伸び放題になっていた私の髪をすべて編み終えるには、少し時間がかかった。
これから死ぬかもしれないというのに髪型を作ることに何の意味があるのだろう。それとも死化粧ということだろうか。
その時、私の肩に一粒の水滴が落ちた。ハッとして振り返る。
「…博士?」
「ごめんな…」
博士は泣いていた。私はその顔に、どこか見覚えがあるような気がした。
「こんな方法しかなくて…だけど青、君は…」
その言葉の先を聞くことはできなかった。起きたばかりだと言うのに突然眠気に襲われ、意識が混濁したからだ。
ドアが開く音がした。
「…だ。…ていをはじめ…」
昨日の男が入ってきたようだが、私には見ることができなかった。
博士は私を抱きかかえ、奥の部屋へと運んだ。私は初めてこの部屋に入った。
こんなに…広かったんだ。というのが最初の印象だった。寝室よりもリビングよりも、その部屋は広かった。
部屋の中央には1つの装置が置いてあった。沢山のチューブが繋がれたそれは、銀色の直方体をしていて、人一人が横になれるような空間があった。今はそのスペースがむき出しになっているが、蓋が付いていて中に人を入れた後閉じるようだ。
まるで銀色の棺桶だ。と思った。今から私はここに入るのか。
「青…」
博士が何か言ったが、朦朧とする私には聞こえなかった。私は棺桶の中に寝かされた。
ゆっくりと蓋がスライドし、私は闇に包まれた。
装置が振動し始める。それは妙に心地よくて、私はついに眠りに落ちた。
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洗面所で眼鏡を外し、カラーコンタクトも外した。
部屋には何もなかった。散乱していた紙も、青もいない。そして、私も今日でいなくなる。
『査定』の方法は財閥側が指定した場所に被験体が無傷で現れれば合格、だった。指定場所に青は現れず、結果は不合格。私はお払い箱になった。
最低限の荷物を詰め込んだキャリーケースを引っ張って、私はドアを開けた。もう二度と、戻ることはない。
「ラボ始まって以来の天才が、随分とあっけない結末だね」
クレスだった。腕を組み、壁に寄りかかって立っていた。
「二度と来るなって言わなかったっけ?」
「貴女が僕を訪ねてきたんじゃないか」
「さあ、忘れたな」
そう言って私はクレスに瓶を投げる。それは、査定の前夜に彼に借りた記憶除去薬。彼が開発した『forget me not』だ。
「なんでこんなもの借りたんだ?」
瓶をキャッチして、クレスは私に尋ねる。
「…落下の衝撃で記憶を失ったのか、その薬の効用で記憶を失ったのか、分からなかったからさ。まったく、厄介なものを作ってくれたよね」
「なんだって?」
クレスは私の言ってることがわからないようだった。わかってもらうつもりもなかった。
「それじゃあ御機嫌よう。薬、貸してくれてありがとね」
私はクレスに背を向けて歩き出す。
「待ってくれよ、ドクター・イツキノ。最後に教えてくれ。あの少女は君にとってなんだったんだ?」
「……」
記憶を取り戻したのは、高校三年生になってすぐのころだった。
朝、顔を洗うために鏡を見た私はそこに映る顔を思い出した。
それは斎野藍の顔だった。
その瞬間研究所の記憶が蘇り、同時に博士の意図が、そして、私は何をしなければならないのかがわかった。
私は一人の少女に出会わなければならない。誰かの都合で無責任に生み出された少女に。
だが、手放すにはあまりにも私の日常はかけがえのないものだった。私は葛藤した。だが、どのみちこの日々を捨てなければ綱介と出会うことも出来なくなってしまう。
せめて綱介に自分の想いを伝えたかった。だが、結局それはできなかった。私は彼の元を離れねばならない。離れ離れになることがわかっているのに告白するなんて、そんなことはできなかった。
突然の私の申し出に驚く養父母をなんとか説得し、私はアメリカへ留学した。そして飛び級で大学に合格し、19歳の時に『斎野藍』としてラボに入所した。
そして1年後、白い廊下の果てで私は彼女に出会った。–––青に。
最初は、博士の言葉を一言一句間違えずに青に伝えなければと思った。そうしなければ未来が変わってしまう。と。だから博士の言葉を思い出せるか不安だった。
しかし、青の姿を見ていると、いずれ私になる少女の姿を見ていると、自然に何を言うべきか分かった。そして言った後で、かつて同じ言葉を『博士』が私にくれたことを思い出したのだった。
タイムマシンは無事完成した。だが、私は青を空から落とすことにどうしても抵抗を覚えた。だけれども、記憶を失わなければ、未来は変わってしまうかもしれない。それに、青にも体験して欲しかった。綱介たちと過ごした、あの青春を。
そしてついに昨日、私は青を送るという最後の役目を終えた。
「あの子は…私の分身のようなものだよ」
クレスの質問に私はそう答えた。
「オー、なおさらわからない。だったらどうして彼女を被験体に?」
これ以上話しても無駄だろう。私は黙って踵を返し、再び歩き始めた。だが、クレスはなおも続けた。
「なあ! 貴女の研究はデータベースで読んだ。あれは完璧な理論だった! 僕には貴女がわざと失敗したようにしか思えない! なあ! ドクター・イツキノ! 一体なぜ…」
私は答えず、歩き続けた。クレスは諦めたように、最後にこう言った。
「貴女は一体何者なんだ…」
私は立ち止まり、振り返る。
「私は青だ。それ以外の何者でもない」
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青はいなかった。
当然のことだった。いつまでも学生のころの夢に浸ってないで、大人になれ、ということだろうか。僕はため息をつく。まずは新しい職を探さなきゃだ。
青。僕の日常に突然現れ、突然消えた少女。今となっては本当にすべてが夢だったんじゃないかとすら思える。
『待ってて、くれる?』
青が僕に言った言葉。一体僕はあとどのくらい君を待てばいいのだろう。
僕は防波堤に停めておいた自転車のところまで向かった。
僕の自転車の荷台の上に誰かが座っていた。髪の長い女の人だ。傍らにキャリーケースがあったから旅行者なのかとも思ったが、彼女はこの暑いのに白衣という、妙な格好をしていた。
「あの…」
僕は近づいて声をかける。
彼女は振り返った。
「ねえ、乗せてってよ」
彼女の顔を見た僕は呆然として、それからやっと驚いて、そしてやっとこう言った。
「また…怒られちゃうよ?」
彼女は笑って答える。
「じゃあ、見つかるまで」
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海岸に降りたぼくは空を仰いだ。やはり間違いない。空から人が落ちている。しかも、あの人は…
ぼくがそう思った瞬間、空中の人物はパッとパラシュートを広げた。青一色の空の中にピンク色のパラシュートが映えた。
その人はゆっくりと降下して、砂浜に降り立った。
「あ、空!」
ぼくに気づいたその人は手を振った。ぼくはやれやれと思う。
「海岸で待ち合わせって言ったら車かなんかで来ると思うよ普通は」
「そう? でもほら、今日は絶好のスカイダイビング日和じゃない。やらないともったいないよ」
そう言って母は笑った。
ぼくの母は何の研究をしているのかは知らないが科学者で、外国の学会に参加して今日帰ってきたところだった。結構その世界では有名人らしいけど、スカイダイビングというアクティブな趣味を持っている。
こんな人と地元で普通のサラリーマンをやってる父がどうやって出会ったのか、未だに不思議だ。
「ほんと、いい天気だね、今日は」
母はそう言って空を見上げる。ぼくも追って視線を上にあげた。はるか空の彼方には、母を乗せてきたのだろう一台のヘリコプターが旋回している。
「…でも何かが降ってきそうじゃない?」
ぼくは母の言ってることがわからなかった。こんなに晴れている空から一体何が降ってくると言うのか。
母は訝しんでるぼくなどどこ吹く風で、楽しそうに笑っていた。
[了]
読んでいただきありがとうございました。




