8話:欧州航路で1ケ月の船旅1
「この出来事を知った三井物産の本居康智が、これでドイツをはじめとする同盟国側の敗戦が間違いなくなったと告げた。」
そして、今日の話合いを終えた。
「また時期が来たらパスポートの手配をお願いしますと言った。」
その後、安田亀吉が、本居康智とジュームス加藤を見送った。
既に、この頃、安田商店で長男の勝一と次男の勝二は、横浜商業学校を卒業し、商売を手伝っており、取扱高も増え、生糸や輸入雑貨品、食料品、生活雑貨、用品と手広いなり、当然取扱高も増え、収入も数倍に増えた。
「ヨーロッパへの移住にも興味津々で、新天地での商売、生活に夢を膨らませている様だった。」
1918年に入り、益々、連合国側の優勢の情報が伝わった。
「安田亀吉は、1918年中には第一次大戦が終結するだろうと予測していた」。
その後1918年8月8日、北フランスのアミアン付近で、アメリカ軍が参加した連合軍によって撃破されたとの情報も入って安田亀吉は戦争終結の日が近づいたと感じて、1918年8月10日、三井物産の本居康智さんにパスポートの手配をお願いした。3ヶ月後の11月11日に本居康智がパスポートを安田家の4冊のパスポートを持って来てくれ、約束した手数料35円を支払った。
「翌週、本居康智さんが来て1918年11月11日が、第一次世界大戦の終戦記念日となった」
「それを聞き、橫浜からマルセイユの船便・中等室・切符の大人手配をお願いした。」
「費用は700円で中等は4人で1室だと教えてくれ、パンフレットを渡してくれた。」
「出港は1918年12月11日でマルセイユ到着、1919年1月11日と知らされた。」
やがて出発の日、1918年12月11日を迎え、安田亀吉、勝一、勝二は、最近、新調した背広を着込んで、母の衣子は洋服を着て、横浜港へ出かけた。乗船する船は、日本郵船の諏訪丸、1万2千トン、速力16ノットと高性能で、諏訪丸の公室の装飾は、英国ウエアリング・アンド・ギロー社製で、クラシカルな様式だった。
橫浜港で、乗船前、厳しい手荷物検査とパスポート検査、本人確認を受け、許可が下りた順番に乗船していった。その後、横浜港を離れ、翌12月12日に神戸港へついた。
「船での朝食は、基本的にパンとコーヒー。航海で、水が一番大切なので1日3リットルまで」
「そのため、洗面も上手に少ない水で、すませる必要があった。」
その後、日本を離れ、広い、東シナ海の大海原を眺めると30日にも及ぶ長い船旅をしているのだという時間が湧いてきた。7日の航海の末、中国、上海港へ着いた。