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4話:生糸の活況相場の終わり

 その年、1887年に安田亀吉は37歳であったが、以前通りに稼いだ資産を全部、亀屋に投資して、資産総額が9千円となった。その年、何故か生糸相場も、もう終わりかなと感じて、亀屋を退職し退職金も千円いただき亀屋を後にした。


 その時、18歳で気立ての良くて綺麗な同じ八王子出身の貧農の娘、内田衣子と仲良くなって亀屋を一緒に退職した。退職当時、安田亀吉は約1万円・現在の価値で5500万円の大金持ちになっており、橫浜の貸家を借りて2人で暮らすようになった。


 タバコ屋商売を始めて、金物、書物、衣類、多くの製品を売った。その他に、生糸の商売をしている時に、知り合ったフランクリン商事のジェームズ加藤という日系人と親しくなり、ガム、チョコレート、ウイスキー、ブランデー、ワインの他、舶来のお菓子、雑貨も取り扱うようになって、商売も徐々に繁盛した。


 その3年後、安田亀吉40歳、衣子21歳で男の子を授かり1890年5月15日、安田勝一が生まれた。安田商店での儲けは借家、店の賃料と不自由なく、食べられる程度で、資産を増やすほどでもなかった。それから約2年後の1892年5月19日に次男、安田勝二が生まれ4人家族になった。


 そして明治32年、1899年、後事を原富太郎に託して、安田亀吉の恩人、原善三郎が72歳でこの世を去った。その後、原富太郎が、亀屋・原商事の実質的二代目となった。富太郎は生糸売込業の他、明治33・1900年には絹物輸出業を兼営して、原商事を「原合名会社」に改組し、明治34年、1901年に、生糸輸出業を始める。


 そして明治35年、1902年9月には三井家が経営していた、富岡製糸場・名古屋製糸場・大島製糸場、三重製糸場を引き継いだ。原富太郎が製糸家として生きた20世紀前半は、日本製糸業にとって、波乱に満ちた時代であった。


 アメリカ向け輸出の比重を高めつつ成長をとげた日本製糸業は、人造絹糸レーヨンの実用化にともない、最も低廉な原料糸供給先である洋服の裏地や織物の縦糸からしめだされる。この事を背景に、1900~10年代には在来の手工業により生み出される座繰糸が輸出品として適合しなくなり日本の生糸相場の活況も完全に終わりを告げた。


 1903年になり息子の安田勝一、勝二が読み書きできる頃には自宅に、よく遊びに来たジェームス加藤に、お願いして、子供たちに簡単な英会話を教えてもらい英語の歌も覚えさせた。一方、日本の経済の歴史について振り返ってみると、明治維新後の1880年代後半に、日本で第一次産業革命が起こり、鉄道業と紡績業が中心の好景気が巻き起こり、企業勃興で株式会社の設立が流行った。


 日清戦争の時にどれくらいの賠償金がとれたかというと二億両と遼東半島還付金の三千万両、合わせて二億三千万両・約三億六千万円で、これはその頃の全国の会社の時価総額以上の金額だった。それを資金を使用して以前から、日本政府が、やりたいと思っていた金本位制を導入した。


 そして造船奨励法、航海奨励法によって造船業、航海業を推進していき、多くの銀行が設立され、積極的に融資が行われた。例えば各地の農工銀行が、地域銀行として設立され、日本勧業銀行や日本興行銀行などの政府系金融機関もつくられた。そこが民衆に、融資する事で、日本の産業は育ち発展していった。

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