3話:生糸商人の浮き沈み2
その後、安田亀吉は、持ち前の記憶力で、外国人と商売する時に使う、英会話を文章ごと覚え、外国の商社の人達と交渉して有利な条件で商売する様になり原善三郎に重宝がられた。その後、19歳の時、1869年に生糸の値段が大暴落して多くの生糸を扱う橫浜の店が、次々とつぶれてた。
その時、原善三郎が八王子・鑓水に帰るかと、安田亀吉に聞くと、
「生糸の価格の乱高下する原先生に出て行けと言われるまで一緒にいたい。」
「厳しい時期をどう切りぬけるか、よく見ておけと原善三郎が、どなった。」
「原善三郎は、生糸相場が、過熱してきたと感じると生糸価格が下げると考えた。」
「そのため積極的な売買を控え手を出さないようにした。」
「その後、相場が下げ始めると様子見し上げに転じると思うと静かに買い始めた。」
「原善三郎が買い始めたと知ると他の商人も買い始め生糸の価格が上昇する。」
「気がついた時には、一気に買いに走るという商売で培った鋭い勘で、儲けた。」
「この間の鋭さで、1871年・普仏戦争によるフランスによる生糸輸入停止での生糸価格暴落の時も何とか原善三郎は逃げ切った。」
3年後、安田亀吉、22歳の1872年に亀吉の資産が数倍に増えた時、原善治郎が、それだけの資産を得たのだから屋敷を建てたり店屋を出して商売しないのかと聞いたところ、
「小さい頃から質素な生活で育ったので、店の離れの小さな部屋で充分ですと告げた。」
その後、1873年頃に。、大隈重信が、民部・大蔵卿に就任して、殖産興業として西洋諸国に対抗し、機械工業、鉄道網整備、資本主義育成により国家の近代化を推進した諸政策を打ち出し、官営富岡製糸場を建てた。
「これを見て、原善三郎は、再び、生糸の価格が上がると考えた。」
「すると日本中から生糸を買って、買って、買いまくった。」
その後、明治9年・1876年は製糸業界にとり衝撃的な年となった。
「原善三郎は、莫大な資産を既に持っており安い時に一気に買う行動をとった」
「7月の新糸相場は1梱・9貫、250円が月末には300円、9月には600円の高値」
「その時までに、一気に外国商人に売り9月には、ほとんど全てを売ってしまった。」
「10月、下り始めると一気に原善三郎は、金にもの言わせて生糸を買いまくった。」
「12月には、再び7月の高値に戻り外国商人に売りつけた」。
この10年程で、橫浜商人の中でも、最大の資産家となった。しかし1880年に大蔵卿が大隈重信から松方正義になって、今までと真逆の緊縮財政の方針となった。徹底した緊縮財政、たばこ税や酒税を増税、軍事費以外の政府予算の縮小、官営事業の払下げ。この結果、緊縮財政により、物価が下がり始めた。
「この様子を見て、原善三郎は生糸相場が再び下がると考えた」
「生糸の売買を手じまい、相場の様子を見ていた。」
「その読み通り、1884年に世界的な不景気も相まって生糸価格の大暴落が起きた。」
「しかし原は、ほとんど影響を受けずにすんだ。」
「原は生糸相場の値段の変動の激しさを熟知して安い時、潤沢な資金を利用し一括購入した。」
「そして価格上昇した時に売る方法で着実に利益を積み上げた。」
「その生糸相場の乱高下で、橫浜生糸商人の多くの店が倒産し、店数が減った。」
「その中で原は、生糸相場が上がり始めると見ると一気に買い込む。」
「下げ始めると、ぴたっと商売を手仕舞う方法で着実に稼いで資産を増やした。」