1話:鑓水の絹問屋に丁稚奉公
橫浜港は、1859年7月1日に開港し、最初の生糸取引が行われたのは、地元出身の芝屋清三郎の店だったと言われている。1859年に、英国人・イソリキが、甲州産、島田造、生糸、六俵を高値で、買ったという。これで、どうやら外国人は、生糸に興味があるらしいことが分かり、以後、怒涛のように横浜に生糸が集まることになる。
こうして、中居屋重兵衛、亀屋・原善三郎、野沢屋・茂木惣兵衛、甲州出身の若尾幾造など生糸で財を成す商人が台頭してくる。そのために、資金と豊富な選ばれたものだけが、橫浜港、横浜税関、開港資料館、産業貿易センター、周辺で店を開いていた。1862年に来日し、1865年、慶応元年に居留地76番に店舗を構えたスイス人の生糸商バビエル商会。屑糸の取扱高は外国商館中第一位を誇っていたという。
居留地76番は、現在は、中華街のローズホテルが建っているあたりである。その他の有力商社としては、香港に本拠をもつイギリス系巨大商社、ジャーディン・マセソン商会。桟橋の入口、シルク・センター前の角地に「英一番館跡」の碑があるが、それが、ジャーディン・マセソン商会の社屋だった。
その当時、日本中の生糸が江戸・横浜に運ばれたルートは、いくつかあった。1つ目は、東北・北関東からは荷駄による陸送の他に、鬼怒川、利根川、江戸川を水運で運ぶルートが日数も早く安価なことからよく利用された。元東大教授で横浜開港資料館館長を務めた高村直助はこの水運を利用した生糸輸送のルートを「水上のシルクロード」と呼んでいる。
2つ目は、東北地方「出羽や陸奥・南部・会津などからの輸送ルート」江戸への参勤交代は、基本的に奥州街道を使うルートだが、鬼怒川「阿久津河岸や板戸河岸『栃木県』」で、舟に積んで久保田河岸まで運び、境河岸まで陸送して、利根川-江戸川と経て江戸湾に出て、日本橋界隈の問屋へというルートが多く使われた。
3つ目は、上州・北信州・武蔵を中心とした北関東・北信地方からの輸送ルート基本的に中山道に沿ったルートだが、荷駄で運ぶより水運が利用された。利根川支流の烏川の倉賀野河岸や平塚河岸で舟に積み、利根川-江戸川と経由して日本橋まで。江戸時代、倉賀野は上信越からの物資輸道の一大拠点であった。
また、高崎-本庄-熊谷-桶川-蕨-板橋というルートも用いられており、明治5年には陸運会社が設置されて、人馬でも生糸を運んだ。4つ目は、飛騨・美濃・南信濃・甲斐地方からのルートで飛騨・美濃からは名古屋に出て舟運も利用されたが、一般的には、甲州街道に沿って松本や塩尻、あるいは木曽から岡谷-甲府を経由して八王子-江戸へ
あるいは、八王子往還を経て横浜に抜けるというルートが利用されている。この八王子・鑓水地区から、橫浜をつなぐ、通称・浜街道が最短の道であった。小説の主人公の安田亀吉は、この鑓水の商家・大島屋に丁稚奉公に出された。
*「橫浜開港と絹の道」を参照させてもらいました。
江戸時代末期の天保から明治時代、1840年以降、信州、上州、会津、甲州、津久井、秩父などから、生糸を仕入れて、日本人の生糸売込問屋に運んで、販売する、八王子近くに住む、大島正四郎のような鑓水商人の先駆けとして、活躍し始めた。
大島正四郎は文化的教養を身につけ算術を巧みであり、それだけではなく度胸の良さと計算の速さと商売の押しの強さで、鑓水の狼と呼ばれていて短期間で財を蓄えた。その大島屋に、秩父の貧農の男の子、1860年、安田亀吉が10歳の時に、口減らしのため、奉公に出されて大島屋で掃除、荷物運びなど下働きをして食べさせてもらっていた。
亀吉は腕白で力持ちで、身体も大きく、大島屋でも重宝され、毎日仕事に精を出していた。たまの休みの日に八王子の柔道の道場で通い始め、暴漢にあっても、投げ飛ばせる術を身につけて、一層逞しくなった。そして、少しずつ、大島正四郎に商売の仕方の手ほどきを受け、商売の駆け引き、押すべき所、引くべき所、商売の落とし所を、大島正四郎の姿を見ながら、しっかり学んだ。