暗がりの舞台にアンコールを 4
次の日の朝、僕らはショッピングモールに出掛けた。
タオルと外泊用の衣服を買うためだ。
歩きながらスマホで宿を取る。
箱根ならここから三時間もしないうちにつけるだろう。
チェックインは16時だ。
冷静に考えれば、僕も彼女も学校をサボっていたが、そんな些細な日常は最早どうでもよかった。
大学どころか、僕は今日、友達の通夜さえサボって温泉旅行に行くのだ。
はたから見たら相当なクズだろう。
「服、どれがいいですか?」
安物の量販店で彼女はにこにこと年相応に笑いながら聞いてきた。秋も深まって、初冬といってもおかしくない季節だ。だけど今日明日は夏を名残惜しむような陽気らしく、上着は要らなそうだった。
「そっちの白いパーカーの方が似合ってるね」
「じゃあ、白にしますね」
はじめは遠慮していた少女も、しばらくすれば、服を選ぶのに夢中になっていた。あの年頃の女の子がお洒落に興味がないはずがない。
並べられた衣服は魅力的に見えるようディスプレイされていた。そのなかにはハロウィン用のコスプレ衣装も混じっている。
こういうのも似合いそうだよな、とヨコシマな考えを抱いてしまった。
ボロボロの制服でさえ似合っていたミオリが、ちゃんとした服を着こなせないはずがない。
白い歯を見せて笑う。頬についた青あざが痛々しかった。
着替えを買って、お店を出る。
旅行用鞄も購入し、ハロウィンの装飾に彩られた駅前に向かう。いくつものジャックオーランタンが商店街のシャッターにステッカーで貼られていた。
着飾った少女はどこにでもいる女の子に変わっていた。
雲は白く空は高い。
時間が許す限り、この街を離れよう。
旅なんて若いうちにしかできないし、辛い思い出なんてレールの先に置き去りしてしまえばいい。
駅前はそこそこ混んでいた。
改札前でキッブを購入しようと券売機に小銭を入れていた時だった。
「ミオ、お前、どこ行ってやがった」
酒焼けしたガラガラ声で少女を呼び掛ける声がした。
あり得ない。知り合いと町で出会う確率はそれほど高くないはずだ。しかも、それが望まない相手なら、尚更なはずで。
「……なんで」
ミオリが震える声で振り向いた。遠くで発車ベルが鳴り響く。
ばこん。
駅前が軽くざわついた。子どもが癇癪を起こしたみたいに、なにも考えていないのだろう、男は握りこぶしを躊躇うこと無くミオリにぶつけた。
「帰るぞ」
男は短くそう言って、少女の右手を強く掴んだ。
背後で券売機がお釣りを吐き出し、ピーピーとアラームを鳴らしているが、そんな些細なことにかまけている暇は無かった。
僕はミオリと男の間に割ってはいるように体を滑らせた。
「ああ、なんだてめぇ」
ギョロリと睨み付けられる。
こいつとは、初対面だ。
初対面で、会いたくなかったやつだ。
「嫌がってるだろ、やめてやれよ」
「コタロウさん、よしてください、お願いですから……」
ミオリが小さく呟いた。本音であるはずがない。そもそも、僕はコタロウじゃない。あんなのはてきとーに決めたハンドルネームだ。
「おめぇか、ミオをそそのかしたバカは」
男は僕の胸を強く小突いた。
「失せろ。ダボが。二度と汚ねぇ面を見せんな」
「それはこっちのセリフだ」
「チッ。わかんねぇやつだな。バカ娘が見つかって俺ゃ機嫌がいいから、消えんなら今のうちって言ってんだよ」
ガタイがいい男だ。喧嘩で勝てる公算はないが、僕の目的は殴られることだ。
これだけ目撃者がいれば、社会的制裁を与えられるだろう。ミオリが日常的に受けている暴力を公のもとにすれば児童相談所だって動いてくれるはずだ。
だから、僕はこいつに殴られる必要がある。
「その子はあんたの娘なのか?」
「そうだよ。人の家庭に顔突っ込んでじゃねぇよ」
嘘だ。ミオリの母親はバツイチでこいつと付き合ってはいるが籍はいれていない。そもそもにして家族だろうが暴力が許されていいわけがない。
「娘が嫌がってるのがわからないのか?」
「お願いですから、もう、放っておいてください!」
ミオリが前に進もうとした僕を制止するように腰に手をやった。
「てめぇこそミオがやめてくれって言ってんのわかんねぇの」
男は俺を小バカにするように見下し、笑った。
「言わせてるんだろ。ちっぽけな自尊心を満たすために他人の子どもを利用すんなよ」
「さっきからなんなんだよ、てめぇ……マジで喧嘩売ってんのか?」
「通報させてもらう。あんたがやってることは社会的にアウトだ」
「ええかげんにせぇよ!」
駅前が男の叫びで水を打ったように静まり返る。
「関係ねぇだろうが!」
男は僕をドンと押した。
まだだ、この程度じゃ暴力とはいえない。
「おまえ、このガキが好きなのか? 気持ち悪いやつだな!」
「下品な考え方だな。一緒にすんな」
「ッ」
男が拳を振り上げた。血走った目が見開いている。望んだ展開だが、やっぱり痛いのは嫌なので目をギュッとつむる。
殴打音がした。したのだが、痛みが来なかった。薄く目を開けると、ミオリが僕の身代わりになっていた。
「帰りましょう……」
ミオリは痛みに呻くでもなく、小さくそう言った。
違うんだ。僕のことは庇わなくてよかったんだ、と声をかけようとした時、
「邪魔してんじゃねぇぞ、くそがきが」男はミオリの髪をつかんで引き倒そうとした。
「あっ」
小さな悲鳴をあげ、ミオリが倒れそうになった、彼女を支えるために右手を伸ばし、服の裾をつかんで、僕の方に引き寄せた。
「どけ!」
男はミオリに拳を浴びせる。
「やめろ!」
肩から思いっきりタックルする。
「ぐっ」
男は小さな悲鳴をあげて、頭から後ろに倒れた。
ふらついた男はバランスを崩し、受け身を取ることなく、アスファルトにしこたま頭をぶつけた。がつん、と乾いた音が駅前に響いた。
遠巻きに僕らを眺めていた野次馬がワンテンポ遅れて小さな悲鳴を上げた。
仰向けに倒れた男の体がびくんと一度跳ね、それきり動かなくなる。
「……」
「……ぁあ」
自らの状況を俯瞰するように眺めていたが、少女が溢した小さな悲鳴のようなため息で我に返る。
「ミオリ!」
券売機の取り出し口に放置されたままだった切符を取って、自動改札機に滑り込ませる。
ミオリの手を握り、階段を駆け上がり、ホームに停車していた電車に乗る。
僕らが駆け込み乗車をすると同時に背後でドアがしまった。
端的に言うなら逃げたのだ。
急な運動で激しくなった呼吸と鼓動を鎮めながら、先程の鈍い音を思い出す。
あんな、呆気なく、人が死ぬとは思えない。そうとも。きっと、男は生きている。
だから、今は忘れて旅を楽しもう。
車窓を流れる青空を見て、僕は思考を逃避させる。
僕らはアイツに勝ったんだ。
そう言い聞かせているのに、良心は許してくれなかった。
震えが止まらない。
カーブで車体が傾ぎ、よろけてしまった。
「ああ……」
ボロボロとミオリが泣きながら、ドアに頭を預けるように寄りかかった。
「なあ。箱根、楽しみだな」
手すりに掴まり、不安を口に出さないよう、希望だけを言葉にする。
バイクで事故った杉江を思い出す。
人は簡単に死ぬ。
背筋が凍ると同時に電車がトンネルに入った。ドンと窓が空気に圧せられる。流れるような灯りとレールがきしむ音を聞きながら、ミオリは静かに俯いた。
「違います。こんなのは」
ぼそりと呟いた。
「ちがうって、なにが?」
「あなたは」トンネルから出て、秋空が窓一面に広がった。
「あなたは幸せになるべきです」
ミオリが言うと同時に、僕の視界は再びブラックアウトした。