明日の世界が邪魔をする 3
夜の空は高い。
月には叢雲がかかり、綺麗な光を滲ませている。
風は冷たいが、お店は暖かったので、体はポカポカしていた。
彼女の服も乾いたらしい。夜風に身を縮めることもなかった。
「帰ります。ありがとうございました。願わくば二度とお会いすることがないことを祈っています」
恭しく頭を下げてからその場をあとにしようと踵を返した少女の手を掴む。
「認めない」
「放っておいてください。まだわからないんですか? なんで私がわざわざ説明したか、理解してください」
「僕は鈍いからはっきり言ってくれないとわからないんだ」
「それならはっきり言ってあげます」
手を強く振りほどいて、彼女は僕を睨み付けた。
「あなたなんて嫌いです」
夜の住宅街に少女の叫び声だけが響く。
「嫌いだからかまってほしくないんですよ」
「嘘つくなよ」
「嘘じゃありません。あなたの顔立ちも性格もなにもかもが嫌いです。二度と私の前に姿を現さないでください」
「ならなんでそんな辛そうな顔してるのさ」
「……生まれつきです」
ポロリと流れた涙が彼女の靴の先に花を咲かす。
星が綺麗な夜だった。
疑念が確信に変わる。
「僕が覚えてるのは二つ前から……君があの男を刺した晩からだ」
「だから、なんですか」
「……だけど、君はそのずっと前の周回から僕と知り合いだったんだろ?」
「……っ」
彼女は瞳を大きく見開いた。
どこか遠くで犬が鳴いた。
「なにを、根拠に……」
「君の姿が、たまにダブるんだ。ここ最近の激しい既視感はそれが原因なんだろう。君は僕が覚えているよりもずっと同じ時間を繰り返しているんだろ?」
確信に近かった。
以前からの知り合いに町でばったり会ったときのような空気感が僕と彼女との間にはあった。
「……下らないですね。ただの憶測でしょう」
「ああ、憶測でしかない、だけど僕の心がこれが正解だと叫ぶんだ。君はずっと僕の人生がうまく行くようにやり直しをしてくれている」
それは例えば警察に誤認逮捕されないように。
それは例えば他人を殺さないように。
失敗した僕の歴史を無かったことにして、彼女は僕が幸せになるように必死でコントロールしてるんだ。
「だから、そんなことはもうしてくれなくていい。頼むから、君は自分の生活がうまく行くことだけを一番に考えてくれ」
「できません」
涙声で彼女は呟いた。
「私に巻き込まれて……あなたが……幸せじゃないなんて、そんなの」
「それが本来のあるべき運命なんだろ」
「そんなのを認めたら……」吐き出すように彼女は言った。
「あなたは死んでしまいます」
死んでしまう。
人は、簡単に。
「え?」
ミオリは声を震わせて続けた。
「あの日……いや、正確には今日の0時、あなたは私を庇って、ヨシイの怒りを買い、殺されるんです」
足元がふらついた。
めまいがする。
寒気が起こった。
「それが本来の筋書きです」
彼女の言葉真剣そのもので冗談を言っているようには聞こえなかった。
「十月三十日、図書館で私に声をかけたコタロウさんは、その日の0時にたまたま再会した私を庇ってヨシイに刺されるんです」
「未来の、話をしてるのか?」
「いいえ、まだ起こっていない過去の話です」
ミオリの瞳は涙で滲んでいる。
「そうならないように、あなたに会わないように、図書館には行かないようにしたのに、あなたは結局私を庇ってきました」
泣きながら笑い、続けた。
「……もし、時間が戻せたら、あなたはなにがしたいですか?」
「……」
「私はあの男を殺したい。今度は誰からも誤解されないように、ちゃんと、私が殺すから。だから、あなたは私のことを忘れてください」
「ミオリ」
「さようなら」
彼女は走り出した。
夜の闇を咲くように、スカートを翻して。
「ミオリ!」
ここで別れるわけにはいかなかった。
納得がいくわけなかった。
諦めるはずがなかった。
追いかけて、手首を掴む。
「離してっ!」
少女が叫ぶ。
逃げ続けてきた僕に彼女を止める権利なんてない。
だけど、見ず知らずの他人のために自分を犠牲にしてきた少女を忘れるなんて僕には出来ない。
「話すことなんてありません。誰も不幸にならないように私が……」
彼女は今度こそ明確な殺意をもってヨシイを殺そうとしている。じゃないと僕が彼に殺されるからだ。
「僕のことは見殺しにしろっ!」
叫んだ。
強く握った右手からミオリの熱が伝わってくる。
「そんなこと、出来るわけが……」
「僕はずっと死に場所を探してたんだ」
キザな台詞を吐きたかったが、小市民にはそれすらできない。だから、ただ思いをぶつけることにした。
「僕はずっと満足する死にかたを求めてきた」
それだけ。
「例えばそれは自己犠牲の果てに世界を救うヒーロのような生き方で。でも、それが無理だってわかってたから、さっさと死にたいとか嘯いてタバコを吸ったりしてたんだ」
ただ、それだけ。
「いっそのこと医者に余命宣告されて、世界は美しいなんて宣いながら、たくさんの国を旅して回りたいとか、そんな類いの陳腐な思いさ」
杉江と僕は同じ穴の狢だ。だけど杉江は僕より数段先にいて、その先にあったのは死だった。
「でも、自殺する勇気なんてないから、ろくでもないってわかっていても僕の人生は続いて……」
ずっと感じていたことを、こんな年下の女の子に吐露するとは思わなかった。
「とっくに僕は自分の人生なんてどうでもいいと思ってるんだ。だからそんなくだらない人生の最後にキミを救える運命があるなら、どうか僕にキミを助けさせてくれないか」
冷たい風が吹く。
ミオリの吐き出した息は白かった。
もうすぐ冬が来る。
掴んでいた手をそっとほどく。
パタリと力無く、手を落として、少女は、
「そんなこと、……言わないでください」
小さく呟いた。
「私はあなたを救うために頑張ってきたんです」
口に出したことで、塞き止めていた思いが溢れ出たのだろう。本当に辛そうな顔をして、彼女は大粒の涙を流した。
「私が救いたかった、あなたの人生を下らなかったなんて言わないでください。どうか……」
息をつまらせ、言葉を震わせ、
「どうか……」
彼女は崩れ落ちるように泣き始めた。




