明日の世界が邪魔をする 1
気がついたとき、僕は自室の布団の上だった。
家賃六万のアパートの見知った天井を見て、「なんで」と呟くが、返事があるはずがなかった。
着信音をたてて、スマホが鳴動した。手を伸ばして、寝ぼけ眼のまま画面を確認する。
「あ……」
着信画面に表示された名前は杉江。
でも僕は、これが本人からの電話でないことを知っている。
「もしもし」
耳にあてると、電話の向こうの杉江の兄を名乗る男性が、弟の死を抑揚なく告げた。
会話を終わらせ、体を起き上がらせ、洗面台で顔を洗う。
一回目、警察に捕まった時と違うタイミング。猶予はまだあるはずだった。
にもかかわらず、時間が戻ったのだ。
はっきりしたことがある。
顔をあげて、鏡の中の自分と目があった。
ミオリは嘘をついた。
カミソリで髭をそって、外に出る。
青い空に白い月が浮かんでいた。ひんやりとした空気が頬を撫でる。
ミオリの話だと時間が戻るのは十月三十一日。でも、僕とミオリが箱根に行こうとしたのは、十月三十日の昼間だった。少なく考えても一日以上余裕があった、はずだった。
おそらく、ミオリは任意に時間を戻すことができる。戻すことはできるが、戻した先が決まっているのだろう。
時計を見る。
彼女が戻せるタイミングは十月二十九日の十六時半。僕に杉江の訃報連絡の着信がある時間だ。
仕組みに興味はないが、きっとそういうことなのだろう。
図書館についた。
前回通りなら、ミオリはいつもの席で静かに寝息をたてているはずだったが、彼女はそこに居なかった。
おかしいな、と首を捻りながら待ってみたが、結局閉館まで彼女が姿を見せることは無かった。
思えば、僕はミオリのことを全然知らなかった。
当たり前だ。そこまで親しい間柄じゃないし、繋がりなんてあってないようなものだから。
なのに、なんで、こんなに胸がざわつくのだろう。
彼女のことを考えていると落ち着かなくて仕方がない。
夕闇が町を覆い隠し、吐き出す息が密かに白くなっても、ミオリを見つけることが出来なかった。
アパートに戻って、くたくたになった体で布団にダイブする。
腹が鳴ったが、起き上がる気がしなかった。
結局僕はなにをなすことがないまま、一日を無為に過ごす。
いつも通りといえばいつも通りだが、それが堪らなく悔しかった。
スマホを光らせて確認した時刻はたしかに過去のものであり、すべてが下らない妄想だったんじゃないかと不安になった。
0時を迎え、日付が変わり、杉江の通夜が行われる日に変わった。
無力感にうちひしがれながら、僕は瞳を強く閉じて、貪るように睡眠をとった。
なんの準備をしないまま、目が覚める。
当たり前だが、葬式に行く気はなかった。
香典を準備していないし、黒いネクタイも買っていないからだ。
睡眠をとりすぎて重くなった体と脳を無理やり動かして、夢遊病者のような足取りで家を出た。
眩しい日差しに目を細めてしまう。秋晴れだ。旅行日和で、箱根に行くなら最高のコンディションだった。
引きずるように体を動かして図書館に来たが、そういえば、と思い出す。
今日、ミオリは図書館には来ないはず。
僕の記憶の十月三十日と変わりないなら、ここで待つのは時間の無駄だ。
いつも彼女が座っているソファーを見たが、空席になっていたので、すぐに踵を返して別の場所を探すことにした。
探す? どこを?
彼女の行動パターンが読めるほど長い時間を過ごしたわけではない。僕の捜索はすぐに暗礁に乗り上げた。
そもそもにして昨日、本来いるべき場所にミオリは居なかったのだ。それはつまり意図的に僕を避けているということ。
最後に見た少女を思い出す。
電車の中で、揺れるつり革に手を伸ばした少女は最後何て言っていただろう。
あとはもう深夜のトンネルぐらいしか彼女と会えそうな場所はなかったが、あそこに行くということはミオリはヨシイを殺し、犯罪者になるということだ。
それは避けたかった。
少女が幸せになれるハッピーエンドを見つけないといけない。だから台無しになる前に、僕はミオリを見つけないといけないのだ。
だけど、手段が無かった。手がかりもなしに人を探すなんて不可能だ。
そのまま駅前に移動し、何をするでもなく、ぼー、と改札に吸い込まれていく人々を見届け続けた。青空には筆でなぞったような白い雲が浮かんでいて、眠くなるような陽気だった。
時刻が夕方を迎え、体が冷えても、僕は銅像のようにミオリが通るのを期待して、立ち続けた。
途方にくれる僕の背後をイヤホンをつけた男子高校生が自転車に乗って颯爽と去っていた。
「あ」
はたと気がついた。
ミオリのシワだらけの制服。
あの学校の場所ならばわかる。
思えば一番最初、仮に一巡目と言おうか、その時に彼女は図書館に姿を現さなかった。
ミオリは学校にも家にも居場所がないから、図書館で時間を潰していたと言っていた。
今日の彼女が図書館にいないということは、学校でなにかあったということじゃないだろうか。
それならば話が早い。
時計の針を見ればとっくに高校生の帰宅時間は過ぎていたので、僕は弾けるように駆け出した。
本来ならば杉江の通夜に参列している時間、僕は息を切らして校門前に立った。思いっきり不審者だが、日が暮れた校舎に人気はないので、誰かに注意をされることもなかった。
部活動に勤しむ若い声をBGMに僕はミオリが現れるのを待った。
しばらく待っていると、チャラチャラした女子高生の集団がバカ笑いをあげながら校門から出てきた。
会話が漏れ聞こえてきたが、要約すると「あいつまじうぜぇ」というしょうもない内容だった。
夜の冷たい風に吹かれて、高まった気持ちがゆっくりと冷めていく。
なにを熱くなっていたんだろう。
彼女が会いたくないと明確に意思表示しているのだから、僕はそれに従うべきなんじゃないだろうか。
頭ではわかっているのに、感情は従ってくれない。
こんなことは初めてだ。
自分で言うのもなんだが、僕は理知的な性格で感情で動くなんてことは無かった。
でも、ミオリのことになるとどうにもうまく感情をコントロール出来ないのだ。
なぜかはわからない。
マルボロを一本取り出して、ライターで炙る。
杉江と一緒じゃないのに、タバコに火をつけるのは久しぶりだった。
吐き出した紫煙が秋の月を隠す。
ボヤけた灯りが綺麗だった。
僕がタバコを吹かして、数分もしないうちにミオリは姿を表した。
薄暗闇でよくわからないが、少女の肌には濡れた制服がぴったりとくっついていた。どうやら水を浴びたらしい。
擬音をつけるならとぼとぼといった感じで彼女はゆっくりと歩いていた。
「ミオリ!」
性懲りも無く僕は声をかけた。なるたけビックリさせないように優しく丁寧に、トーンを落として。
それでも彼女はびくりと小動物のように肩を震わせて僕を見た。
「……っ」
暗かった彼女の表情が変わる。
「……なんでっ」
「ちゃんと、覚えてるから」
僕が声をかけると、感情の堰が切れたようにわっと泣き始めた。これじゃ、僕が泣かしたみたいだ。




