秋は日暮れて 1
時間を巻き戻せるとしたら、きみはなにがしたい。
彼女はその質問に対して、人を殺したいと言った。
抑揚もなく彼女はただ事実をのべた。
暇潰しで通っていた図書館に自分以外の常連を見つけたのは、十月になって、二週間ほど過ぎた頃だった。
中秋の夕暮れ。
彼女は固いソファーに全身を預け、健やかな寝息をたてていた。
鼻筋が通った整った顔立ち、白く細い足がスカートの隙間から伸びている。男なら声をかけたくなるような容姿をしているのは間違いなかったが、僕が彼女に興味をもったのはそこだけじゃない。
少女は常にどこかしら怪我をしていた。
あるときは血の滲んだ絆創膏をいくつも貼って、またあるときは膝小僧にガーゼを当てていた。
着ている制服は赤黒い染みが点々とし、スカートはいつもシワだらけだった。近所の公立の、お世辞にも頭がいいとは言えない高校のものだった。
いじめられているのかも知れないな、とゲスな勘繰りをしてみたところで、僕に出来ることはなにもない。
それでも傷だらけの少女が寝息をたてる姿は一種の芸術作品を思わせた。
気温が落ち込み、キンモクセイも香らなくなった頃、彼女は顔に大きな青あざをこしらえて、いつもの窓際の椅子に腰かけていた。
人為的につけられた傷なのは間違いないだろう。整った顔立ちをしているのに勿体無いな、と思ったのを覚えている。
「……」
だけど、次の日の青あざは無くなっていた。
クエスチョンマークが浮かぶ。
雪のように白い肌は何色にも染まっておらず、陶器人形のように彼女は変わらず目を閉じていた。
記憶違いだろうか。一瞬声をかけようかと迷ったが、人見知りなので、疑問符を飲み込んで、蘭郁次郎の小説を読むことにした。
秋学期が始まって一ヶ月が過ぎた。
取得単位の計算を行い、打算的に大学に通い、退屈な講義を終わらせる。
仲良くもない微妙な知り合いを増やすのがいやなので、いつの間にか講義をサボりがちになっていた。
自由な時間で、なにをするのかと言えば、特になにもしない。
図書館に行って、哲学書を読むか、中古本屋で古書を漁るか、パターンとしてはどっちかだ。
非生産的な生活なのは言われるまでもないが、退屈しのぎにはなるし、なにより図書館には少女がいた。
近所の公園に住み着いた野良猫を眺めに行く、……心情としては、そのようなものである。
ただ一点、こればかりはどうしようもないのだが、僕は常に金欠病だった。
短期アルバイトをボチボチ始めないといけないな、とコンビニで貰ったタウンワークを捲りながら、健全たる六畳一間で横になっていたら、ゼミの悪友である杉江に呼び出された。
杉江は大学の、ほぼ唯一といっていいほどの友人で、僕らはよく近所のガストで世を憂いた。
政府が、日本が、世界がダメだ。
口をつくのは下らない与太話で着地点も無く、疲れた頃にタバコを吹かして、また下らない話で盛り上がる。ずっとそれの繰り返しだった。
「先進国に産まれた俺たちは本当に不幸だ」
というのが、杉江の持論だった。
「戦後は復興やらなにやらで、がむしゃらになれた。バブルの時も、経済成長期も。ところが今はどうだ。やることがなにも残されてない」
ドリンクバーの炭酸でパンパンになったお腹をさすりながら、「そうかもしれないね」と同調すると、杉江は満足そうに頷いた。
「人生を本当に楽しめるのは一部の特権階級だけ。なにをするにもルールで縛られた二十一世紀の若者は歴史に名を刻むことなく朽ちていく」
高校時代から独自の厭世感に囚われた杉江は、ナニか変わるのではないかと、奨学金を借りて大学に進学し、周りの連中の馬鹿さ加減に酷く失望したと言っていた。
「後世に名を残せるのなら、大量虐殺だって悪い選択肢じゃないかもしれない」
杉江は世界に変革をもたらしたかった。だけどどうすれば世界を変えられるか分からなかった。
だから僕は彼の死は自殺だと思っている。
杉江の趣味はツーリングで、晴れた日は、わけもなくアクセルをふかすのが好きだった。
その日は爽やかな秋晴れで、彼は奥多摩に紅葉を見に行った帰り、深夜の中央分離帯に愛車の単車を突っ込んで死んだ。
十月も終わりに近づいた、綺麗な月が浮かぶ真夜中の事だった。
よくあることだ。
人が死ぬなんてよくあること。
悪友の死を悼むことはしなかった。
ただもう二度と、タバコの吸い殻の山を一緒に作ることができないと思うと少しだけ悲しかった。
彼は生前、図書館の少女の話をする僕に「虐待かもしれないから声をかけろ」と正義感をかざして言ってきたが、最期まで実行されることは無かった。
「自由を奪う権利は誰にもない」
彼の希死念慮には薄々気付いていたが、まさか本当にヤるとは思わなかった。
二日後の彼の葬式の帰り、黒いネクタイを外してポケットにいれ、図書館に行って、ただぼうっと少女を待ったが、そういう日に限って彼女は現れなかった。
貸し出しカードを作っていないので、本を借りることが出来ない。
僕は浅くため息をついて家に帰ることにした。
杉江と僕が出会ったのは新入生ガイダンスの時だ。レジュメに不明点があったので、隣に座っていた彼に話しかけたのが始まりだった。
「そんなこともわからんのか」
と見下した態度で書き方を教えてくれたが、結局彼の解釈も間違っていて、「すまなかった」と謝罪されたことがきっかけで、よくつるむようになった。
別段一緒になにかを成し遂げたというわけじゃない。でもなぜだか、彼の死は僕にとって半身をもがれるような喪失を与えたのだ。
アパートに戻って、万年床で横になる。
退屈だ。空っぽな人間を救ってくれるものはなにもない。
常に僕らは変化を求めて、足掻いてもがいて天を仰いだ。
変化がないことを恐れて杉江は死んだ。僕もすぐに続くことになるだろう。
擬似的な死を味わうように、そのまま目をつぶったら、いつの間に眠っていた。