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08●第一の結末……ヒルダは自力で下山する


8●第一の結末……ヒルダは自力で下山する



 第一の結末は、作品の映像を見ての通り、“ヒルダは一度死んで、生き返った”という展開です。


 その理由は、「悪魔の妹は死んだ。人間として目覚めたヒルダは……」(RAE78頁)と説明される通り、「人間として目覚めた」からです。

 ホルスに出会ったとき、ヒルダは「あたしには、悪魔の呪いがかけられている」(RAE24頁)と告白しています。この“悪魔”とは、字面じづらのまま解すれば、グルンワルドのことでしょう。

 ヒルダが一度死に、そしてグルンワルドが滅びたことで、悪魔の呪いは解け、ヒルダは人間として新しい生を受けて、目覚めることができた……と、説明がつけられます。


 これは、神様の思し召しによる、生まれ変わりの一種ということでしょうか。

 神様はこう判断したのでしょう。

 “罪を犯したのは悪魔の妹のヒルダ。人間に生まれ変わったヒルダに罪はない。まっさらの人生を生きなさい”……と。


 それも、ひとつの解釈です。

 とはいえ、やはりどことなく、ご都合主義の残り香は漂います。


 理屈の通る説明ができません。


 と言いますのは……

 腑に落ちない点が残されているからです。

 まず、ヒルダが雪狼に倒され、雪に埋もれてから、生き返るまでの間に、おそらく相当な日数……数日か数週間か……が過ぎていると思われることです。

 氷の城でグルンワルドが滅びたとき、一瞬にして“命の珠”は消滅し、魔力もなくなって、飛行中のホルスは地上へ落下してしまいました。

 このとき同時に、ヒルダにかかっていた悪魔の呪いも解けて、ヒルダは悪魔の妹から、人間の娘へ、一瞬にして相転移したはずです。

 となると、ヒルダは、まだ周囲が雪原の状態で、人間として目覚め、立ち上がらなくてはなりません。そのまま気を失っていると、生身の人間ですから、凍死します。

 しかし映像を見るかぎり、春が訪れ、雪解けも進んだ野原に、ヒルダは目覚めています。

 数日か数週間かわかりませんが、それなりの日数を経てから、ヒルダは目覚めるわけです。

 これは、やはり、不自然です。


 だから、ヒルダ自身、生き返った自分に合点がいかず、「どうして、あの珠をなくしたあたしが……」と自問していることになります。

 これは、どうにも説明がつきません。


 そして、腑に落ちない、二つ目の点は……

 ホルスが、ヒルダの救出活動を行なった様子が、うかがえないことです。

 グルンワルドが滅びたとき、“命の珠”が消えた直後のホルスに向かって、リスのチロが「ヒルダは死んじゃったの?」(RAE50頁)と号泣します。

 そしてヒルダが“命の珠”をくれたおかげで、フレップとコロが救われたことを、ホルスは知っています。

 しかもフレップから“命の珠”を渡されたことで、ホルスは魔力で飛行し、グルンワルドを倒すことができました。

 ヒルダはもう、ホルス個人どころか、村全体の大恩人なのです。

 そしてまた、ホルスと違って、ヒルダは村人たちに排斥されていません。

 村に受け入れられた、歌うたいの異邦人……というポジションのままです。

 おそらくポトムもボルドも、「ヒルダを探そう!」と声を上げたことでしょう、

 直ちに、ホルスをリーダーに、村人有志の捜索隊が組織されて、ヒルダの救出に向かっていて不思議はありませんし、むしろ、そうならなければ、筋が通りません。

 人類の味方についてくれた岩男モーグの協力を得られれば、おそらく短時間で、ヒルダを発見できたことでしょう。


 なのに、映像では、ホルスも仲間たちも、すっかりヒルダのことなど忘れたとばかりに、呑気に村の再建にいそしんでいます。


 これは、歴史に残る“放置プレイ”ではありませんか。


 ただし、シナリオを読むと、チロのセリフで「だって、あんなに捜したんだよ」(RAE68頁)と、ヒルダの捜索が行われたことが語られています。しかし、映像化された本編では、そのくだりは割愛されています。


 本編の映像では表現されていないが、裏設定では、“熱心に捜索したものの、ヒルダは発見できなかった”……ということですね。


 そうはいっても……


 結果的に、ヒルダがとぼとぼと、自力で下山してくるまで、少なからぬ期間、彼女を生死不詳のまま放置してしまったことは、まぎれもない事実でありまして……


 これはいくらなんでも、ひどすぎるではありませんか。

 いったい、どこ見て捜したのよ!

 とばかりに、ヒルダが激怒してホルスの尻を蹴っ飛ばしても不思議のない場面が、物語のフィナーレ直前に来るのです。

 それでも殊勝なヒルダ、“こんなあたしでも、いいかしら?”みたいな、しおらしい表情で、ホルスと対面します。

 これはおかしい。

 できすぎだと、思われませんか?


 大人の観客が納得できる終わり方としては……

 人間として目覚めたものの、良心の呵責にさいなまれて、村へ還る決心がつかぬまま雪原をさまよい、力尽きようとするヒルダを、間一髪でホルスたち捜索隊が発見し、全員で喜びあう……という展開になっていただくのが、スジというものです。絶対に。


 みんなで幸せな結末を迎えたければ、一刻も早く行方不明のヒルダを探し出し、死の一歩手前の彼女に、手をさしのべなくてはいけません。


 この時、ホルスがヒルダを抱きかかえて名前を呼び、ヒルダがうっすらと目を開けて、以前、鼠の群れに襲われた直後のルサンとピリアのように、互いに生きている幸せを分かち合えれば、完璧だったことでしょう。

 そうなってこそ、子供にも納得できる、感動あふれる、お約束ハッピーエンドとなったはずです。

 白馬の王子様が、眠れる美女をキスで目覚めさせる図式……ですね。


 しかし実際に映像化された結末は……

 ヒルダが生きて、誰にも助けられず自分の足で村にたどりつくと、まるで今朝あたりに森で迷子になった友達が、ふらっと戻って来るのを待ってました、とばかりに、みんなが喜ぶハッピーエンド……。いや、えせハッピーエンド?

 一見、万人の期待に沿う、典型的な予定調和に見えるスタイル。

 当時の漫画映画なんてそういうものだと諦観すればそれまでですが、理論的には、どうにもこうにも、釈然としない終わり方になってしまったのです。


 これはやはり、理屈が通りません。それでも、この結末にしてしまった。


 なぜでしょうか?

 あくまで私個人の想像ではありますが、制作スタッフ側の意図を推察するに……

 “ホルスによる、ヒルダの捜索と救助の場面を、あえて、完成作品のストーリーから排除した”

 ……ということではないのでしょうか?


 そのために、ストーリーが不自然になるのを百も承知のうえで……


 “ヒルダの自力下山にこだわった”のではないかと考えます。


 どういうことでしょうか。

 当時の典型的な、お伽噺のハッピーエンドでは、概ね女の子は、“ヒーローの少年に助けられる役”でしかありません。

 おしとやかであろうが、お転婆であろうが、彼女は敵に囚われるなど、ピンチに陥ります。そこで、敵と雄々しく戦って活躍するヒーロー少年が、苦境のヒロインをかっこよく助けてあげることで、“男を上げる”という、いわば、“女の子は添え物に甘んじる”作品が、ほとんどだったようです。


 男女雇用機会均等法など、まだまだ未来の時代です。

 就職は結婚までの“腰掛け”であり、結婚で“永久就職”することが人生のゴールインというのが、世間一般の常識でした。

 いやもちろん、専業主婦を揶揄するつもりはありません。それ以外の選択肢が21世紀の現在よりもはるかに狭かった、ということです。


 したがって漫画映画の世界でも、女の子のキャラは、王子様の迎えを待ちながら、男の子の活躍に花を持たせるのが当然で、多くの観客もそれをよしとしていました。


 しかし、『ホルス……』の作り手たちが目指したのは、そんな、戦前から引きずられた、古き社会の価値観への挑戦だった……と想像されます。


 作品の結末をどうするのか、脚本、監督はじめ、あらゆるスタッフが考え、知恵を出し合ったことでしょう。経営側から“子供相手のマンガ映画”を求められて深沢一夫氏が書いた脚本が、高畑監督との板挟み的な議論を経て(RAE186頁)、かなり異なる形にブラッシュアップされたことがうかがわれます。

 そして、製作スタッフ陣の中に形成された結論は、おそらく……

 白馬の王子様が、眠り姫をキスで起こすような結末は、絶対に避けよう……という、強い決意だったのではないでしょうか。


 ただし、その後、完成した映像作品のエンディングは、たしかに“子供相手のマンガ映画”そのものでした。そうしなければ社会が許容してくれませんから。


 しかし、“ホルスがヒルダを救助する”場面は、現れませんでした。

 それどころかヒルダは、最後の最後の寸前まで、ホルスと手をつなぐこともなく、親しい会話もなく、どこかピントのずれた説教を垂れるホルスを冷たくあしらい、村長暗殺未遂事件では敵に回るわ、迷いの森に落とすわ、自分から剣戟を仕掛けるわ……で、ヒルダのキャラクターは、ほぼ終始、当時のお定まりの“お姫様キャラ”の真逆を歩んでいるのです。


 (もっとも、内心はホルスにホの字で、メロメロでメラメラな愛に身を焦がしている……という、超元祖ツンデレの側面もありますが、それは、のちの章に詳述します)


 結果的に、製作スタッフ側が描いたのは、“他者に依存せず、自立する少女”でした。


 だからヒルダは、ホルス少年に媚を売るとか、同情にすがって生きようとはしないのです。

 作品の中盤でホルスに会ってから、ヒルダは終始、“私は悪魔? それとも人間?”の命題に苦しみ、ときには錯乱し、鼠の襲撃やドラーゴの陰謀に手を貸すなど、狂気的な行動に走ります。

 しかしそれでも、彼女は結局、自ら煩悶して、自ら結論を出し、自ら解決するのです。

 だから、一度死んだ自分の、人間の心を奮い起こし、自力で下山し、自分の足で村まで歩き、ホルスの前に立ち、自分の眼差しで告白するのです。

 “あなたと暮らしたい”と。


 なぜ、ヒルダは村へ戻って来たのでしょう?

 村の仲間たち、マウニやチロや、フレップやコロに再会したいから?

 それもありますが、決定的な理由は……

 ホルスと一緒になりたい。

 これに尽きるのだと、ラストシーンの彼女の視線が語っています。


 自分の生きる場所は、自分で探すしかない。

 待っていたら、誰かが与えてくれるというものではない。

 自分の望みをかなえたければ、勇気を奮い起こして、自分の足で、一歩を踏み出そう。


 だから“愛”も、昔話のお姫様のように、ただ待つだけではやって来ない。

 だから、生きよう! ひとすじの愛を、この手につかみたい。

 いま、しばらく、どうか生かしてください、神様……


 ヒルダは、そんな想いだったのでは……と考えます。

 やや観念的な解釈ではありますが……

 “一心不乱な彼女の愛が、自分の死を克服した”

 そういうことではないでしょうか。


 だから……


 “愛は自らを救う”


 それが、“第一の結末”から得られるメッセージです。


 これを、ヒルダという“少女キャラ”が実行した。

 “世界名作劇場”のハイジやペリーヌ・パンダボアヌやアン・シャーリイといった、自立を志向するヒロインがまだブラウン管に登場していない時代のことです。

 これは、時代に先駆けた、『ホルス……』の歴史的偉業のひとつだと思います。




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