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おやすみ、小太郎。

作者: さかもと

「千晶、お風呂溢れてる」

 足元に擦り寄ってきた冷静な声を聞いて、わたしは読んでいた雑誌をベッドの上に放り出して浴室へと急いだ。

「もう、もっと早く言ってよ」

「私は何回も呼んだんやざ。余所見してる誰かさんが悪い」

「そんなずっと見てられるほど、わたしも暇じゃないんやって」

「どう見ても、暇を持て余してるようにしか見えんかったけど」

 すぐ後ろをつかず離れずついて来ている足音に向けて、ぶうぶうと豚のように不満を漏らすものの、言い逃れようのない事実を突きつけられて、どうしようもなくわたしは閉口した。

 風呂場の扉を開けると、充満していた湯気がむっと溢れ出してきて、視界が一瞬にして白く曇った。構うことなく手探りで蛇口を探り当て、流れ出るお湯を止める。冷たいことで常日頃悩んでいる浴室の床も、皮肉にも溢れたお湯のおかげでとても温かい。

「もつけねぇなぁ」

「うるさいな。噛みついてでも気づかせてくれればよかったのに」

「そうしたら、わんわん泣いたのは誰かしらね。犬じゃあるまいし」

「小太郎にだけは言われたくないわ、それ」

 濡れた足裏をマットに擦りつけ、換気扇のスイッチにわたしは手を伸ばす。ファンが動き始めた音を扉越しに聞きながら、視界を覆っていた霞みをTシャツの裾で拭き取った。

「お湯も満足に張れないようじゃねえ。実家に帰ったほうがいいんじゃない?」厭味ったらしく、小太郎はぐにゃりと口角を上げてみせる。

「誰かさんが溜まったら呼んであげる、なんて言うから。素直に頼ったわたしが馬鹿やったよ」

「だから、他人のせいにするなって何回言えばわかるんや。自分の身の回りくらい、自分で管理しなさいよ。子供じゃあるまいし」

 湯気を浴びて身体が湿ったのか、小太郎は言いながら全身を小刻みに震わせた。薄茶色の毛先から、水滴がかすかに飛んだ。

 おもむろにわたしを見上げてきた小太郎は、あたかも人間がするかのように目を丸く見開いてみせた。「あれ、その眼鏡。まだ使ってたんやね」

「買ったときからほとんど視力落ちてないし、わざわざ買い換える必要もないかなって。……ていうか、いま気づいたの?」

「うん。でも見た感じ、だいぶ痛んでるみたいやけど」

「当たり前やろ。さすがに五年も使ってたら多少は痛むよ」

 たしかに買った当初は艶やかだったレンズや縁も、いまではすっかり傷だらけだ。透明感のある赤色が気に入って買ったのに、その透明感はいまや見る影もない。

 高校最後の体育祭で組別対抗のリレーに出たとき、走ることに熱中しすぎたあまり眼鏡を放り投げてしまった。そのときに左側のレンズの端が三ミリ程度欠けてしまい、いまでも視界の隅には変な歪みがある。

「わたしなりに思い入れがあるから」

「そうかい。でもまあ、物を大事にするのは、いいことやで」

 わたしの足の甲を、小太郎は前足で器用に撫でた。肉球のふにふにとした感触が妙にくすぐったい。昔もよくそうやって撫でられていたことをふと思い出して、胸の奥がくっと縮こまるような切なくも懐かしい記憶が、わたしの心に滲み出るようにして蘇ってきた。

「もう子供じゃないんやから、そういうのやめてよ」

「可愛くないねえ」

 ぷいとそっぽを向く小太郎の体に浮き出たあばら骨は、いつまで経っても見ていて痛々しいけれど、小太郎はいくら餌を食べても不思議とまったく太らなかった。かといって本人は病気など露知らぬ健康そのもので、結局生涯一度も病気らしい病気に侵されることはなかった。

「ほら、お風呂入るから。出てった出てった」

「昔はよく一緒に入ったのにね。よく言うわ」

 皮肉を吐きつつも、わたしが体を抱えるように促すと、小太郎はやけに素直に脱衣所から出て行った。なにも後ろめたいことなどないはずなのに、わたしは自分自身を裏切っているような、妙な背徳感に襲われた。

「すっかり冷たくなったもんやなあ。てなわんなあ」

「……わかったよもー」

 わたしが言うや否や、小太郎は踵を返して戻ってきた。半分ほど閉めかけていた蛇腹の仕切りを、溜息と共に開け放つ。

「千晶は洗うのが下手やから、あんまり気は進まんけど」

「ごめんね不器用で」

 眼鏡を洗面台の脇に置き、着ていた服を洗濯かごに放りこんでから、気が進まないと言う割には率先して浴室へと入っていった小太郎の背中を、ぼやける視界でわたしは追った。

 情けない話だが、いつだってこの柴犬にわたしは振り回されっぱなしだ。


 高校の卒業式を目前に控えた初春の頃、小太郎は老衰でこの世を去った。もう長くは生きられないということは前々から知らされていたとはいえ、生命が消えていく様を目の前にすると、わたしが抱いていた覚悟はたった一本の縫い糸よりも細く弱かった。

 悲しみも割り切ることが大切だと母に戒められ、もう泣くまいと自分を律して式に臨んだものの、周囲に漂う「別れ」の雰囲気に呑まれたわたしは、皆とはまったく別の理由でぼろぼろと涙をこぼした。

 二年が経ち、わたしも来年の年明けには成人式を迎えるような歳になった、残暑の厳しい夏の終わりのある日。亡くなったはずの小太郎の声が、さも当たり前のように聞こえてきたときは、それはもう素直に自分の耳を疑ったものだけれど、実体として目の前にある姿を見てしまうと疑う以前に納得するほかなくて、自分の感覚に違和感を覚えながらも生前と同じようにわたしは小太郎に接した。

 初めのうちはどこか半信半疑ではあったものの、一ヶ月ほど経ったいまとなっては、もうすっかり小太郎のいた生活に戻っていた。昔と異なっていることといえば、住まいが実家ではなく、1Kのアパートになったということだ。この部屋には、大学に進学した去年からひとりで暮らしていた。なぜ実家ではなくわたしの元に現れたのかという理由は、未だに小太郎自身も明らかにしてくれていない。

 小太郎と初めて出会ったのは、わたしがまだ保育園にも入園する前のことで、実に二十年近く前のことになる。家の前をとぼとぼと歩いていたところを、「車に轢かれたら可哀想や」ということでわたしの祖父が保護したのがきっかけで、飼うことになったらしい。

 その頃はまだ赤ん坊ほどの大きさしかない小犬だったけれど、飼い始めてしばらくの間はそばに近寄られるだけでも、幼いわたしはひどく怯え泣いていた。ほとんど記憶の残っていない当時のことでも、それだけは成人したいまとなっても鮮明に覚えている。

 ただ、小太郎と名づけたはいいものの、家族全員にその名前が浸透した頃、当の小太郎が雌だということがわかった。最初に気がつかない家族も家族だけれど、真実が判ったあとで改名しない家族も家族だよなあと、当時に比べたら大人になった頭でわたしは思う。


 昼間は上着が要らないほどだけれど、夜はまだまだ肌寒い。コートまではいかないものの、カーディガンなど薄手の上着は手放せなかった。駅の構内に入ると、外との気温の差がよくわかる。

 床に整然と敷き詰められた紺色のタイルや、壁に張り付いている大型のディスプレイなどを見ていると、この駅も様変わりしたものだなとわたしはしみじみと思う。二年前、大々的な改装が行われるまでは、ただの古ぼけた小さな駅だったというのに。

 駅員さんが切符を手で一枚一枚切っていた改札も、いまとなってはなんの面白味もない自動改札になっている。駅員さんにとっては嬉しい限りだろうけれど、人が改札に立っているというところに、どこか趣のようなものをわたしは感じるのだった。

 味気無い自動改札を抜けたところにある小奇麗な待合室で、会社帰りらしいスーツ姿の男性や、仲のよさそうな老夫婦に紛れて長椅子に腰掛け、わたしはぼんやりとテレビを眺める。

 夕方のローカルなニュース番組から、全国ネットのニュース番組に切り替わったところで、鞄のなかにある携帯が震えた。探り出した携帯のディスプレイを見て、ふっと顔の力が抜けた。

「もしもし」

「あ、隆彦やけど」

 当然ながら登録さえしてあれば携帯には名前も番号も表示されるので、逐一名乗る必要などまったくもってないのに、隆彦が自分から電話をかけてくるときは、わざわざこうして丁寧に名乗ってくる。

 目上の人や仕事でならばまだしも、恋人にまでそうする必要があるのかと尋ねたところ、恋人ならばなおさらだ、と返されたことは数ヶ月経ったいまとなっても記憶に新しい。電話越しの隆彦はとにかく丁寧だった。かといって、普段からそういうわけではなく、メールではなぜか敬語になる両親みたいに、電話を介するとなぜかそうなってしまうらしい。

「いま仕事終わったから、すぐそっち向かう」

「わかった」

 隆彦は高校の同級生で、つきあうようになってから、もうかれこれ三年が経つ。実力はそこそこ等しく、目指す方向も似ていたということもあって、わたしたちは同じ大学に進もうとしたのだけれど、その大学にはわたしだけが受かってしまった。併願で受けていた大学は受かったらしいけれど、隆彦はそれを蹴って駅前の小さな商社に就職し、一足先に社会人を勤めている。社会人よりも大学生のほうがゆっくり遊ぶ時間も取れたのに、とわたしが責めるように言ってしまったとき、同じ時間を同じ場所で過ごせないくらいなら、将来のために金稼ぐ、と彼は毅然と言い放った。ずいぶん偏った論理だなあ、とは思いこそすれど、人目もはばからずに抱きつきたくなるほど嬉しかったのは事実だった。

「わたしもいまさっき着いたところやし、急がんでいいよ。危ないで」

「でも、待たせるのは悪いで。なるべく急ぐ」

 電話の向こうでは横断歩道を渡っているらしく、ぴよぴよ、と鳥の鳴き声のようなメロディが聞こえてくる。その後ろには車の喧騒や、人びとの雑踏が。早足で歩いているようで、革靴がアスファルトを蹴る、硬く軽快な音が耳に届いてきた。もう駅のすぐ近くまで来ているのだろう。電車が走りだした地響きが、電話越しにも、わたしの体にも直接感じられた。

「千晶。買出しまだけ?」

「うん。帰りに一緒に行こうかなって思ってたんやけど、……ごめん、疲れてんのに。先にしといたほうがよかったな」

 ふと、電話越しに隆彦の微笑んだ様子が伝わってきた。

「いいよ。ふたりで行ったほうが楽しいし。あれこれ言いながらする買い物、俺は好きやな。それに、いまの時間から行けば、いろいろ安くなってると思う」

「あ、そうか」

「楽しいしお得やし、いいことずくめや。うん」

 日頃から、隆彦は専ら節約に熱を上げている。定価で物を買うことはほとんどなく、服はバーゲンで、食品は夕飯時を過ぎたあとなどに値引きされたもの買うことが大半だ。そこまで頓着せずに、目につけば勢いで買ってしまう体質なので、正直わたしはそんな隆彦の行動に共感はできない。けれど、隆彦が楽しそうなら、だいたいは丸く収まる。

「豚肉、値引きされてるといいなあ」

「なに作るん?」

「豚しゃぶしようかなあと」

 ほお、とわたしはうなずいた。

「豚なんや」

「牛より豚のほうが、もともとの脂肪分すくないし」

「それくらいは知ってるけど」

「でもって熱湯に浸すんやから、余分な脂は抜けてそりゃもうさっぱりするし。食べたことない? うまいで。疲労回復にもいいし。なにより牛より安いし」

 すこし開いた間の向こうに、女子高生のものらしい黄色い騒ぎ声が聞こえた。

 若い男性キャスターが淡々と読み上げるニュースを見るでもなしに眺めながら、豚しゃぶやで豚しゃぶ、とはやる心を静かに押さえつける。

「でもそれ、豚肉が値引きされてれば、の話やろ。されてなかったらどうすんの」

「そのときはそのときやって。豚肉のほかにいいものがあれば、そっちを使うかもしれんし。一応の予定くらい、立てといても損はないやろ」

 ふうん、とわたしはうなずいておいた。

「行ってみるまで、お楽しみってことか」

「まあそんな感じ。――はい、到着」

 声が離れていったかと思うと、ぽんと肩に重みを感じた。視界の隅に細くてごつごつした指先を見てから、ゆっくりとわたしは振り仰ぐ。背もたれのすぐ後ろに立っていた隆彦と、正面から視線がぶつかった。

「お仕事お疲れさま」

 隆彦の顔を見ると、わたしの頬は自ずと緩んだ。けっして二枚目なわけではないけれど、愛嬌のある一重の垂れ目が、見ていてすごく癒されるのだ。ほかにも、やや丸みを帯びた鼻の頭だとか、横から見ると意外と鋭い顎のラインだとか、顔だけでなくすべてを、可能なら一日じゅう愛でていたい。さすがにそれは怒られるのが目に見えているので、口に出して言ったことはないけれど。そのぶん、隆彦の家やホテルなどに泊まったときは、寝息を立てている彼の横で、思う存分にやにやしてから寝るようにしている。もちろんこれも、隆彦には黙っている。

「こっちこそ、お待たせ」

 立ち上がりながら、ぜんぜん、とわたしは答える。下から何者かに強く押し上げられているかのように、足は軽々と動いた。

「それより、急がんと豚肉売り切れてまうよ」

 隆彦の手を引いて待合室から出ると、うしろから隆彦の小さな笑い声が聞こえた。

「豚しゃぶする気まんまんやな」

「隆彦が言うから、なんか無性に食べたくなった」

 そうやろそうやろ、と隆彦は不敵に笑った。特別なにかした、というわけでもないのに。

 部活帰りらしき色黒な女子高生の集団に続いて、幅の狭いエスカレーターに乗った。だらだらと会話を交わしている彼女たちを見上げながら、わたしにもあんな頃があったっけなあ、と呑気なことを考えた。よくよく思えば、高校を卒業してからまだ二年ほどしか経っておらず、懐かしむにはまだ早いような気がした。二年程度では体感的に、懐かしむ、というよりも、思い出す、に近い。

 高校三年間、陸上部にわたしは所属していた。種目は短距離で、地域の記録会にも何度か参加したことがある。学校の女子のなかでは早いほうだったけれど、どんな場合においても上には上がいるもので、大会に出ても上位はまず取れた試しがなく、下から数えたほうが早いのが常だった。

 三年間頑張ったものの、スポーツ推薦ももらえず、普通に受験して合格し、当たり前のように大学に通っているいまになって、ふと思うときがある。自分は三年間なにをしていたんだろう、と。いくら頭を捻ってみても答えが出てくることはなく、悶々としているうちに気が逸れていき、いつの間にか考えていたことを忘れている。それでもまたなにかの拍子に思い出し、悶々し、忘れる。いつだってその繰り返しだ。

 ホームに上がり、停まっていた電車に乗りこむと、車内はほどよく空いていた。帰宅ラッシュの時間が過ぎているせいもあってか、社会人の姿はすくなく、どちらかといえば学生のほうが多いように見えた。わたしたちは適当な位置に並んで腰を下ろした。

「まだ十分もあるな」

 窓から発車時刻の光る掲示板を見やりながら、隆彦はぶつぶつと不満を漏らした。

「でも、マシなほうやろ」

「そうやけどさー。もうすこし本数増やしてもいいと思うんやけどなあ」

「乗る人えんのやから、しょうがないやろ」

 一般的にいわれるラッシュの時間帯を除くと、福井の電車は一時間に二本あれば多いくらいで、一本乗り遅れると次の電車まで一時間近く待たされる――なんてことはざらにある。十分程度ですむのなら、むしろ喜ぶべきだ。

 窓枠に頭を預けてだらんとしている隆彦を尻目に、斜め向かいに座っている高校生のカップルを密かに観察していると、周囲の目を気にすることなくいちゃつきだした彼らにわたしは驚愕した。長髪の男の子と巻き髪の女の子は、お似合いといえばお似合いなのかもしれないけれど、ふたりともどこか無理して悪ぶっている雰囲気が漂っており、なんだかあべこべなカップルやな、というのが個人的な感想だった。

 いまどきの高校生は大胆やなあ、と横から呟く声が聞こえて、さっきからずっとわたしの手を握って自分の腿の上に置いてる隆彦もなかなか大胆やと思うで、とわたしは内心で返事をした。さして嫌でもないので、されるがままになっている。そう思うと、自分たちも傍から見れば大胆だったりするのだろうか、とわたしはひとり首をかしげた。


 ごく自然な流れで夕食はわたしの家で摂ることになった。買い物をしたスーパーからわたしの家のほうが近かった、というそれはもう単純明快な理由だ。

 無論わたしの家で食べることに不満はなかったのだが、まずい、と思ったのは鍵穴に鍵を差しこんだ直後のことだった。表面上はひとり暮らしだけれど、いまは正確にはひとりと一匹暮らしなのだ。さらに面倒なことに、当時すでにつきあっていたため、隆彦は小太郎が亡くなったことを知っている。この状況はいったいどう説明したものか、と思考の海に沈みつつも、いまさらどうすることもできず、わたしは観念してドアを開けた。

「おかえり、千晶」

 いつものように玄関先で出迎えてくれた小太郎を見て、いますぐドアを閉めたい衝動にわたしは駆られた。どうして小太郎がこの場にいるのか。隆彦に理由を問い詰められたところで、日頃の行いがよかったから神様がご褒美をくれたんやって、と苦しい言い訳をするのでいまのわたしには精いっぱいだ。

 もうどうにでもなれ、と半ば自暴自棄になって隆彦を室内にわたしは案内した。

「誰か一緒かい」

 首を伸ばしてわたしの背後を覗きこもうとする小太郎を、脱いだ靴を揃えるふりをしつつ奥へと追いやる。けれどわたしの危惧など知らぬ顔で、小太郎は廊下のまんなかに立ってまっすぐ玄関のほうに視線を向けている。

「あら、隆彦くんや。久しぶりやね」

「静かにしててっ」

 覗こうとしてくる小太郎をどうにかして隠そうと奮闘しているわたしを、なにか変な生き物を見るような目つきで見ていた隆彦は、訝しそうに口を開いた。

「誰と話してるんや」

「え?」

「さっきからもぞもぞぼそぼそと、さては部屋が散らかってんのか。そんなん気にせんでいいのに」

 わたしをかわしてさっさと靴を脱いで部屋に上がりこむと、身を壁に寄せてよけた小太郎になど目もくれず、隆彦は廊下を突き進んでいった。

「……そっか。見えんのか」

「そんなとこ立ってると、足の裏汚れるんやざ」

 小太郎の冷静なつっこみを受けて、わたしは我に返った。

 どういうことか、隆彦には小太郎の姿は見えていないようだった。おそらく声も聞こえていない。玄関マットに足の裏をこすりつけてから、小太郎の物言いたげな視線を感じつつわたしは部屋に入った。

「すぐ用意できるで、テレビでも見てて」

 そう言って、隆彦は台所へと向かった。手伝うよ、とすぐさま追いかけて言い返したものの、見事に口先だけやな、と自分で自分に呆れた。振り返れば、いつの間にか小太郎はベッドの上で寝そべっていた。

「野菜切るだけやし、ほんとすぐできるから」袋から材料を取り出している隆彦は、小さい子供と戯れているときのような、朗らかな口調で言った。「たしかカセットコンロあったよな。それだけ用意しといて」

 大人しくうなずき、台所下の収納から滅多に使うことのないカセットコンロを取り出して、わたしは部屋に戻った。テーブルの上にコンロを置くと、その物音を聞きつけてか小太郎の耳がぴくりと動いた。

「鍋でもするんか」

「豚しゃぶ。でも小太郎にはあげんし」

 意地悪で言ってやったつもりが、小太郎にはそんなもんいらんわとでも言わんばかりに鼻であしらわれて、わたしは軽くへこんだ。

 そのときふと、再び一緒に過ごすようになってから、小太郎は一切飲まず食わずだったことをわたしは思い出した。以前勢いあまって買ってきたドッグフードも、口を開けただけで中身はまったく減っていないのが、台所の隅に無造作に置いてある。そりゃ幽霊はなんも食べんよなあ、と内心で笑ってみるものの、そうか幽霊か、と次の瞬間には意味もなく落ちこむのだった。

 こうして目には見えているし、声もちゃんと聞こえている。ふさふさした薄茶色の毛に触ることだってできるのだけれど、小太郎はもうとうに亡くなったはずなのだ。幽霊、と呼ぶのは多少安直すぎる気がしないでもないのだけれど、だとすればいま目の前にいる小太郎は、いったい何者なのだろうか。幻? 夢? やっぱり幽霊?

 これまで小太郎が目の前にいる、という事態にただ納得してしまって、なぜどうしてといった疑問は、まったくといっていいほど持たなかった。いつかはいなくなってしまうときが来るのだろうか。

 そのあと、豚しゃぶなるものを初めて食べたわたしは、牛のしゃぶしゃぶよりも遥かにあっさりとした口当たりに、口に含んでいるあいだ感動に包まれた。この感動を是非とも味わってほしいと思い、再三に渡ってこっそり小太郎にも勧めてみたのだけれど、彼女はやっぱり口をつけようとはしないのだった。

 案の定、人気の豚肉はあっという間になくなり、あとはひたすら野菜と格闘することとなった。

あまり野菜が得意ではない隆彦のぶんも貰い受けつつ、白菜やら水菜やら、様々な種類の野菜をわたしはどうにか平らげた。

 見えていないことをいいことに、食事中、小太郎は隆彦の周りをうろうろしては、立派になったねぇ、などと感慨深そうに呟いているものだから、わたしはなかなか落ち着けなかった。下手に注意しようものならば、隆彦にまた奇異の目で見られるので迂闊に手も出せず、もしなにかの拍子に見えるようになってしまったらどうしようかと、わたしは終始気が気でならなかった。

 お酒片手に過ごす食後のゆったりとした時間は、この上ないほど充実したひとときで、わたしたちは笑いながら互いの近況を話し合った。

 なにを見るでもなしに点けたテレビをふたり並んで座って眺め、たまにお酒を喉に流しこむ。肩に触れているところから隆彦の体温が伝わってきて、その包みこんでくれるような温もりに、わたしは目を細くする。こうしてふたりでだらだらと過ごす時間が、わたしにとっては至福のひとときだった。

「千晶は、大学出たあとは、やっぱり就職すんの」

「そうやとは思うけど、でもまだ先のことやし、あんま想像できんわ」

「そんなもんか」隆彦は乾いた笑い声を上げた。「俺も数年後なにしてるんやろなあ」

「すこしは出世してるって」

「すこしはってなんや、すこしはって」

 笑いながら隆彦に肩で軽く押され、笑いながらわたしはよろけて手をついた。

「もう、こぼれるやろ」

「ごめんごめん」

 そう言って、反省する素振りなど見せることなく、隆彦は缶ビールを煽った。

「でもさ、俺が頑張って稼ぐし、べつに千晶は就職なんかせんでもいいんやざ」

「どゆこと?」

「どゆことでしょう」

 再三話すよう促しても、へらへらと笑う隆彦は話をはぐらかすばかりで、答える気はさらさらないようだった。

 横目でベッドの上を窺ってみると、小太郎は寝ているのか、ぺたんと伏せて目をつむっていた。ときおり鼻や耳をぴくぴくと動かしたり、溜息を吐くように息を吐いたり。その様子はとても微笑ましく、見ているだけでわたしは満たされたような気持ちになる。

 隣に目を移せば、ちょうど何本目かの缶ビールを隆彦は空にしたところで、缶を持つ腕越しに喉仏が生々しく上下する様が見えた。隆彦には不満らしい不満はほとんどないのだけれど、物が喉を通るときにぐにゃりと動くごつごつした喉仏が、いつ見ても気持ち悪くて唯一わたしは受け入れられなかった。

 ただ、それを指摘したところで、そんなこと言ったって、と隆彦が困ったように笑うのは予想の範囲内なので、未だに口にしたことはない。

「何本飲んだんや」

「よんほん」

 火照った顔を歪ませると、一口ちょうだい、とわたしが持っていた梅酒を隆彦は取り上げた。酔っているとはわかっていても、その一瞬の乱暴な手つきにわたしは身が縮む思いをした。

「飲みすぎやざ。明日もまだ仕事やろ」

「これくらい、だいじょうぶ」

 帰ってきた缶は、すっかり空になっていた。大してお酒に強くもないのに、気を抜くと隆彦はすぐ深酒になってしまう。お店で泥酔されると店員さんにまで迷惑をかけてしまうため、ここが居酒屋などでないのがせめてもの救いだった。

 もうそろそろ帰ったほうがいいんじゃない、とわたしが言うと、いやー、とおもちゃをねだる子供みたいに隆彦は駄々をこねた。隆彦は酔うと甘える人間だ。甘えに甘えて、そしていつの間にか寝てしまう。立派な大人であっても、あっという間に幼児に退行させてしまうお酒の力は、実に偉大だ。

 寄りかかっていたのはわたしだったはずが、いつのまにかわたしが隆彦に寄りかかられている現実に、いったいどうしたものか、とほろ酔いの頭でわたしは思った。この状況が嫌だというわけではなく――むしろたまらなく幸せなのだけれど――、このままでは隆彦は明日の仕事に響くのが目に見えており、わたしも明日は一限から講義があるため、できれば過度の夜更かしは避けたいところだった。けれどわたしも飲んでしまった以上、いますぐには車で家まで送ってあげることもできない。

 わたしがああだこうだ思考を巡らせているうちに、膝の上からは平和そうな寝息が聞こえ始めた。次第に諦めの感情が高まってきて、隆彦のさらさらの髪をわたしは撫でた。

 しばらく寝かせてあげよう。そう思い、わたしもゆっくりと目を閉じた。


 はたはたと踊っている淡い緑の布が目に飛びこんできたときは、一瞬、年甲斐もなく本気でおばけが出た、と思った。

 もちろんそんなはずはなく、かすかに開いたままになっていた窓から流れこんでくる夜気が、カーテンを揺らしているだけにすぎなかった。

 ほっと息を吐く間もなく、体の末端が恐ろしく冷えていることにわたしは気づいた。絨毯は敷いてあるものの、同じ姿勢で座り続けていたために、お尻の感覚もほとんどなくなっていた。

 点けっぱなしだったテレビには、普段よく目にする芸人がちらほらと映っていて、ゴールデンでは放送できないようなちょっと過激なトークを賑やかに繰り広げている。

 見れば、時計は午前一時を回ったところだった。相変わらずわたしの膝の上に頭を乗せて眠っている隆彦は、やっぱり寒いのだろう、猫のように身を丸く縮めている。毛布でもかけてあげとけばよかったな、と胸が痛んだ。

 酔いはおおかた醒めており、全身の冷えと凝りを除けば体調は万全だった。

「隆彦、起きて。風邪引くざ」

 皺の寄ってしまったワイシャツの肩を揺すり、懸命に起こそうとするものの、隆彦はなかなか目を開けてくれず、わけのわからない寝言をぶつぶつと口走るだけにとどまった。

 どうしよう。

 早々と途方に暮れていると、ベッドの上でもぞもぞと動く小太郎の姿が視界の隅に映った。彼女もいままでずっと寝ていたのか、一度大きな口を開けて欠伸をすると、のっそりと体を起こして伸びをした。

 鼻を数回ひくつかせると、わたしをじっとりとした眼差しで見つめながら、ぶっきらぼうに小太郎は言った。

「酒臭い」

 ごめん、と反射的に謝ってから、こっそり部屋の臭いを嗅いでみるものの、ひんやりとした室内にそれほど酒臭さは感じられなかった。

「そんなに臭い?」

「千晶にはわからんやろけど、鼻が利きすぎんのも、楽じゃないんやざ」

 心底嫌そうな低い口調で、小太郎は言う。そのときになって、そういえば小太郎は犬だったことをわたしは思い出した。犬じゃなければいったい何者だというのか。本人があまりに人間じみているために、毎日一緒に暮らしていると、ついつい感覚が痺れてしまう。

 犬の嗅覚は人間の何千倍だったか。わたしにわからない臭いが、小太郎にはわかって当然なのだ。となると小太郎には、これまでどれだけつらい思いをさせてきたことか。具体的に思い浮かばないあたり、間違いなくそれは数え切れないほど多い。

「寒ない?」

 なぜかそんな見当違いなことを、わたしは口走っていた。

「寒くはないけど」

「そっか」

「……隆彦くん、まだ寝てるんか」呆然と言いながら、右耳のあたりを後ろ足で小太郎は器用に掻いた。「起こしてあげんくてもいいんか」

「さっきから起こそうとしてるんやけど、ぜんぜん起きる気配ないんやって。お酒が入ってるせいもあるんやろけど」

 起きないことをいいことに、わたしが隆彦の耳たぶを引っ張って遊んでいたところ、それじゃ、と小太郎は口を開いた。

「すこし、散歩でもいかんか」

「いまから? 外寒いざ」

「こんな酒臭い部屋じゃ、気持ちよく二度寝もできんわ」

「すいません」

 ベッドから降りて、とことこと玄関へ向かう小太郎を咄嗟に追おうとして、あやうく膝の上の隆彦を落としそうになった。

 腕と腿が千切れそうになる思いをしつつ、ベッドの脇にあった中綿がビーズのクッションをどうにか捕まえる。持ち上げただけでも、簡単にぐにゃりと形が変わってしまうほど柔らかいクッションだ。わたしの硬い膝よりも、寝心地は数倍いいことだろう。枕としては、いささか柔らかすぎるのかもしれないけれど。

 膝からクッションに隆彦の頭を慎重に移動させ、やっとの思いで立ち上がる。長いあいだ隆彦の頭が乗っていた部分から下に、ようやく充分な血が通っていくのを実感しながら、ベッドの上から取った毛布を隆彦にかけてあげた。

 窓をしっかり閉める代わりに台所の換気扇を回して、玄関で待っていた小太郎と一緒にわたしは部屋を出た。


 九頭竜川の堤防には街灯が点々としか立っておらず、それも何十年前のものかわからない古びた物であるため、照らしている範囲はごく狭く、堤防全体の七割程度は暗闇に覆われているといっても過言ではなかった。

 左右の土手に茂る草の青々とした匂いが、緩やかな夜風に乗って香ってくる。部屋にいたときは冷たく感じた外の空気も、いざ全身を放り出してしまうと不思議と心地よく感じられた。

 晴れている夜であればまだしも、今夜は曇りで、街灯から離れたところでは足元すら満足に見ることができない。舗装されているのがせめてもの救いだ。砂利道だったとしたら、すでに何度かこけている自信がある。

 やや前を歩いている小太郎の姿はおぼろげにしか確認できず、下手をすればお尻を蹴り飛ばしてしまったり、足を踏んでしまったりする可能性に怯えつつ、夜の九頭竜川を片手に気持ち慎重にわたしは歩く。

 晴れていれば月明かりを映して控えめに輝く水面を見ることができるのだけれど、曇天の下では漆黒の平野が広がるばかりだ。福井市街へと続く国道八号線沿いの光が、夜だからか対岸の遥か遠くに見える。

「外の空気は美味しいねぇ」

「当たり前やが。田舎なんやから」

「でも、それが田舎の魅了やろう」

 ずんずんと前を歩いていきながら、小太郎は声を張った。響いた声は、夜の空気に吸いこまれてすぐに消えた。

 寝静まった街の静寂を感じていると、ときおり、ここから二百メートルほど離れた国道を走るトラックの地響きが、低く唸るように響いてくる。それはサンダルの底から足を伝い、腰を伝い、わたしの体の内側にまで届く。

「さっき隆彦くんと話してたみたいやけど、千晶は、大学を出たらどうしたいんや?」

 街灯が近づくにつれ、小太郎の姿が暗闇から浮かび上がってくる。その様子は、あぶり出しによく似ていた。逆に街灯の下を通り過ぎると、じわじわと暗闇に溶けていく。

「盗み聞きしてたんか」

「聞こえてくるもんはしょうがないやろ。わざわざ耳塞げとでもいうんけ」歩きながら、小太郎は耳をはたはたと動かした。

「そこまで言ってないが」

 ふうん、と不満げに相槌を打った小太郎は、歩くペースを徐々に落としていき、最終的にはわたしと並んで歩きだした。話をするにあたって、前後の位置関係では話しづらいとでも思ったのか、それともただ単に、歩くのが遅いわたしに痺れを切らして、仕方なく合わせているだけなのか。

 考えれば考えるほどどうでもよくなっていき、足元にあった小石をつま先で蹴ったところ、親指の先に当たって鈍い痛みが走った。爪が欠けた気がして、苦労して塗ったのに、と指先のペディキュアを気にしながらよたよたと歩いていると、小太郎が口を開いた。

「千晶は、なんでひとり暮らししようと思ったんや」

「……なんでって、そんな急に言われても」

 特に理由はなかった。実家からでもじゅうぶん通える距離に大学はあるし、プライベートな空間だってもちろんあった。両親はいつまで経っても新婚かと思うほど仲がよく、ふたりとももう七十近い祖父母も、痴呆などとは無縁の健康そのもので、唯一の孫であるからかわたしには成人したいまでも非常によくしてくれる。

 それはもう、悲しくなるほど幸せな家庭だった。わたしが居たいと言えば、きっと彼らは快くうなずいてくれただろう。

 けれど、わたしが選んだのは、家を出るという選択だった。

 両親はまったく反対しなかった。むしろ祖父母が、ひどく動揺していた。

「お嫁に行くまでここにいたらいいんやざ」

 家を出ることが決まってから、わたしと顔を合わせるたびに、祖母は口癖のようにそう言った。大事な、とても大事な宝物をそっと扱うような、温かくて柔らかい口調で。腰は曲がっていないものの、もともと小柄な祖母に見上げられたときは、いつも言いようのない罪悪感にわたしは苛まれた。目尻と口元に深く刻まれた皺が、いまでも脳裏にはっきりと焼きついている。

 寡黙な祖父とは、日頃あまり会話らしい会話を交わしたことはなかったのだけれど、食事のときや居間でテレビを見ているとき、頻繁に視線を感じるようになった。祖父なりの気遣いだろうと納得しようとしたものの、その寡黙さゆえに、自分でも言いたいことがあるのに言えないのだろうかと考え始めると、気の利いた一言すらわたしは言えなかった。

「小太郎は――」

 そんな彼らの気持ちに気づいていたのだろうか。そう考えかけて、そんなはずはない、と即座にわたしは心のなかで首を振った。それ以前に、小太郎は亡くなっていたのだ。

 わたしが家を出ると決めたのは、高校を卒業したあとのことだった。もしその頃まで生きていたら、小太郎は祖父母と一緒になってわたしを引き止めてくれたのだろうか。

「ねえ。なんでまた、わたしの前に」

 野暮だとは薄々感づいていた。それでも訊きたくて仕方がなかった。いままで我慢してきたけれど、この堤防の幻想的ですらある雰囲気も手伝ってか、綿のような軽さで言葉が喉からあふれ出た。

 けれど思い切って口にした瞬間、知りたかったこととは別の答えが、頭上からすうっと舞い降りてきた。それはあまりに単純で、一度気づいてしまうと自分でも呆れてしまうようなものだったけれど、けっして後ろ向きな感情にはならなかった。

 左側を歩く小太郎の背中を見やりながら、わたしは細く息を吐く。これはずっと昔から変わらない、散歩をするときの位置関係だ。どちらでも構わない、とわたしが言うのに対し、逆はどうも落ち着かない、と小太郎は言う。そのため、いつの間にかこの形が定着した。そういえば、漫才コンビもいつも同じ位置関係じゃないと調子が狂うのだと、いつしかテレビで見たことをわたしは不意に思い出した。

 小太郎、と口には出さずにわたしは声をかけた。

 わたし、小太郎のえん家に住むんが、耐えられんかったんやと思う。

 もう何本目かすら忘れた街灯の下を通り過ぎ、足元に数秒だけ伸びた自分の薄い影をわたしはぼんやりと目に焼きつけていた。

「馬鹿やの。場所なんて関係ないのに」

 独り言のようにささやかれた小太郎の言葉は、すこしでも気を逸らしていたら聞き取れなかっただろう。どこか幻想的ですらある堤防の雰囲気に取りこまれていたせいか、わたしの耳はやけに冴えていた。

 ようやく蓋をすることができたと思っていたわたしの当時の気持ちを、わたしの心を見透かしたとしか思えない悟りきった小太郎の言動は、軽々と、けれど優しく掘り返した。記憶と感情が混ざり合ってできたものが、山奥にある川の源泉みたいに、勢いはなくとも無尽蔵に湧き出てくる。

 歩きながら、カーディガンの袖でわたしは何度も目元を拭った。

 無言で寄り添って歩いてくれている痩せ細った背中に、いつにない安らぎと頼もしさを感じた。

「冷えてきたし、そろそろ帰るざ」

 首を捻ってちらりと見上げてきた小太郎を見つめ返し、わたしは黙ってうなずいた。


 家に帰ると、隆彦はまだ床で丸くなっていた。毛布の端をしっかりと握り締めて眠っている様は、普段の隆彦とはかけ離れた幼い雰囲気を醸し出していたけれど、顎や鼻の下に薄っすらと伸びてきている髭が、やっぱり大人の男やな、と思わせる。

 台所で水を飲んでから再び部屋に戻ると、小太郎がベッドの上で伸びをしていた。

「猫みたいやね」

「ゆっくり歩けて、すっきりした」わたしの言葉を無視して間延びした声で言いながら、小太郎は欠伸をした。「夜は周りが静かでいいわ。また行こう、千晶」

「うん」

 酒臭さは消えたのか、そのあと小太郎が不満を漏らすことはなかった。

 わたしが部屋着に着替えてベッドに上がろうとすると、小太郎はすでに体を丸めて眠りについていた。人の寝床を堂々と占領している小太郎の脇に、自分の寝床なのに肩身の狭い思いをしながらわたしは身を横たえた。

 豆電球のほのかな明かりを見つめていると、わたしの耳にはふたつの寝息が聞こえてくる。それ以外はほとんど無音のなか、時計の秒針の刻む音が、静かに響いている。

 体を横に傾けると、小太郎のふさふさした毛が二の腕を撫でた。

「……おやすみ、小太郎」


 小太郎と会話ができると気づいたのはいつ頃だったか。物心がついて恐れを感じなくなった頃には、ごく当たり前のようにわたしは小太郎と会話を交わしていた。

 しゃべるのが当然だと思っていた幼いわたしは当初、家族が誰も小太郎と話さないことを疑問に思っていた。

 小学生として日々を送るようになったある週末の朝、母親の手に引かれて病院の精神科に行ったとき、ようやくわたしは自分だけなのだと悟った。小太郎を家族同然に可愛がっていた両親や祖父母が、話などできていなかったと知ったときは、それまで一体どうやってコミュニケーションをとっていたのだろうと、わたしは不思議で仕方なかった。

 すべての犬がしゃべるわけではないということは、幼心でも理解できていた。隣の家の大きなラブラドールレトリバーには、何度話しかけても返事は返ってこなかったし、街を歩いているときに散歩している犬とすれ違いざまに声をかけても、ただ飼い主の人が微笑むだけだった。

 犬を飼っている友達に尋ねてみても、会話なんてできるわけないと哂われた。夢じゃないと証明するために友達に小太郎を会わせたこともあったけれど、わたしが小太郎と話していると、馬鹿みたい、と失笑してその子は帰っていった。

 いままでつきあってきた男の子には、小太郎は話ができる犬だということは伏せてきた。

 犬と話ができるという変な女、と思われてふられるのが怖かったからだ。自分がそういう意識をもっていることに気づいたとき、自分はなんてひどい人間だとわたしは思った。ひたすら自分自身を責めた。呪った。

 けれど、隆彦には口を滑らせてしまった。うっかり目の前でいつも通り話してしまったのだ。ああ嫌われる、と半ば諦めかけたとき、隆彦がとった行動にわたしは呆気にとられた。

 隆彦は、何気なく小太郎に話しかけたのだ。

 わたしが慌てて問いただすと、そんなわけないやろ、と隆彦は朗らかに笑った。悪い冗談はやめてほしいと続けざまに詰め寄ったわたしを、わたあめのようなふわふわした態度で隆彦はあしらってみせた。

「千晶が聞こえるっていうんやから、聞こえるんやろ。俺は聞こえんから、羨ましいな。動物と会話できるなんて」

 隆彦のたわいないその言葉が、言いようのない幸福感をわたしにくれた。

 認めてくれたと思うのは単なる思いこみかもしれないし、隆彦も冗談で言っていたのかもしれないけれど、実際に受け入れる態度をとってくれたという事実が、なにより大きかったのだ。

 鼻で笑って理解したふうを装う人は多くいても、すすんで関心を示してくれた人は、隆彦が初めてだった。


 まだ陽も昇っていない明け方に目が覚めた。

 ベランダに出ると、夜の闇を押しのけてすこしずつ白みだしている空が目に入った。湿気を多く含んだ空気は想像以上に生ぬるく、寝起きの汗ばんだ体には不快ではあったけれど、どこからか香ってくる緑の匂いが爽やかだった。

 まだ目覚めきっていない街は静かで、行き交う人や車の姿もまばらだ。小鳥のさえずりが聞こえたかと思うと、つがいだろうか、二羽の雀が目の前をすいっと横切っていった。

 背後からもぞもぞと衣擦れの音がして、肩越しに部屋のなかを覗くと、隆彦がゆっくりと体を起こしたところだった。

「おはよう」

 わたしは部屋に戻り、窓は開けたままカーテンだけ閉めた。

 まだ開ききらない目をこすりながらわたしを見上げ、もう朝け、と欠伸をしながら隆彦は言った。諦めていたこととはいえ、無残にも皺だらけになった隆彦のワイシャツを見ると、せめて着替えさせてあげるべきやったな、とちくりと胸が痛む。

「よく寝れた?」

「……欲を言えば、もう三時間は寝たい感じ」

 時計を見て、ろくななはち、と慎重に目で追ってから、わたしは言った。

「間違いなく遅刻やな」

「夜中のうちに、起こしてくれればよかったのに」

 膝の上で四つ折にした毛布をベッドの端に放るように置いて、隆彦はゆらゆらと立ち上がった。水でも飲む? とわたしが尋ねると、頼む、と両手でこめかみを押さえながら隆彦はつぶやいた。

「まだ座ってればいいんやざ」

 水の入ったコップを手渡すと、隆彦はそれを二回に分けて飲み干した。

「座ると寝そうやから。立ってる」

 そう言って、腕を組みながらぼうっと壁にもたれている隆彦の目はまだ半分ほど閉じており、放っておくと立ったまま寝そうな勢いだった。

「シャワーでも浴びてきたら?」

 空のコップを受け取りながら尋ねると、感受性の乏しいロボットみたいに、隆彦はこくりと無言でうなずいた。

 よたよたと脱衣所に向かう背中を見届けたあと、簡単に昨日の片づけをしていると、ふと自分の部屋なのに自分の部屋ではないような、なにかが足りないような違和感をわたしは覚えた。

 なにが違う。食器を洗いながら息を潜め、耳を澄ませてみると、聞こえるはずの物音が聞こえないことにわたしの心音はどんと跳ねた。

「小太郎?」

 洗い物を放り出してベッドに駆け寄る。

 なにもなかった。毛一本、落ちていなかった。

 目覚めたときになぜ気づかなかったのか。

「小太郎?」

 押し入れ、ベランダ、トイレ、玄関、部屋という部屋、家中をわたしは文字通り這いずり回った。

 冷蔵庫や食器棚、あらゆるところを意味もなく開け放ち、はっと我に返ったときに見た部屋の様子は、空き巣に入られたあとかというような惨状だった。

 風呂場から聞こえてくる水音、外で動き始める人びとの朝は、否応なしにわたしを現実に連れ戻す。

 こんな日々が今後ずっと続いていくことはないだろう。頭ではわかっていた。けれど実際にこうした現実を前にしたとき、わたしはどういった態度を、どういった行動をとればいいのか。唐突すぎて、風邪を引いたときのように頭がくらくらした。

 お別れくらいさせてくれてもよかったんやないの?

 溢れる思いは言葉にならず、ただ涙となって流れ落ちる。


(了)


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