『僕×白紐帯の木乃伊』 4
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そろりそろりと幾多の教室を通り過ぎ、とうとう目的地に到着。ドアに耳を寄せて中の状況を探る……どうやら今は誰かに教科書の朗読をさせているみたいだ。たどたどしい日本語、こいつ本当に日本人か? 高校生にもなって『行脚』を『ゆきあし』なんて読むやついるのかよ。
必死にこみあげてくる笑いを押し込めてじっと機会をうかがう。そいつはやっとのことでたいしたことない量の文を読み終えて、先生が説明に入った。そろそろか。
ゆっくりと、音をたてないようにドアを開ける。俺一人分がやっと通れるくらいだけドアを開けたら、なんとかその隙間に体をねじ込む。侵入成功。
そのまま床をほふく前進。一番後ろの席に座る菱川の足元まで行く。
「……おい」
「わっ!? びっくりした~……あれ? どっか行ってたの?」
「こっちを向くなって。先生今何してる?」
俺の体勢からは目の前に座ってる菱川の、男の子とは思えない小ぶりのお尻しか見えない。ちなみに隣にいる久里さんのお尻もちょうど視線のところにあるのだが、久里さん直々に無言の制止がかかっているため、自重。
「今は……黒板に文字書いてる」
菱川は前を見ながら答えた。菱川の声が聞こえたのか、後ろの方の席に座っている他のやつらにも気付かれ始めた。頼むからちらちら見るなって。
俺は床に腹ばいになって腕で上体を支えている状態から、一度完全にうつぶせになって、そのまま床を転がり教室の一番後ろ、壁に併設されているロッカーまでいってそこの上にあるはずのものを手探りで探した。
「……あった」
指の先で転がしてそれをロッカーの上から落っことす。危うく床に激突しそうになって、間一髪受け止めることに成功。冷や汗をかいた。
オレンジのゴム質に黒い線が描かれている、いわゆるバスケットボールを両手でつかみ、また転がりながら菱川の足元までいく。
「……どうだ?」
「まだ書いてるよ」
「よし」
俺はゆっくり体を起こした。先生の後姿が視界に入る。
相変わらず何度見ても哀愁を感じさせる壮年の猫背だぜ。
狙いは教室の四隅の一角、ドアがある方とは反対側の窓側の席の一番後ろ、窓から差し込む太陽にあてられて、とろんとした顔をだらしなくさらしながら眠りやがっている立花。
「許せ、俺はお前の屍を越えていく。左手は――」
俺はバスケットボールを両手でしっかり握りなおして――投げた。
ボールは弧を描き飛んでいく。狙った場所へと寸分の狂いもなく、まるでそこに吸い込まれるかのように。
「ぎゃ」
まず一回、机に突っ伏しているあいつの横顔にちょうど当たった。
「がっ」
次にもう一回、あいつの横顔に当たったボールはそのまま奥に跳ね、一度窓にあたると、何が起こったのか分からず顔を上げようとした立花の後頭部へと落下したのだ。
「ごっ」
最後の一回、ボールが後頭部にあたった衝撃で、立花は上げかけていた頭を机へと叩きつけた。
「よし!」
ミラクルコンボだ。俺にはその光景がすべてスローモーションで見え、その光景にしばし見とれてしまった。
当然、授業中にいきなり奇声を発した立花の方にクラスメイトの視線が集まった。見ると先生も何事かと振り返っている。
「今だ!」
俺は中腰のまま廊下側の壁と席の合間をするすると通り抜け自分の席についた。
ミッションコンプリート。
そのまま何事もなかったかのように机に突っ伏して寝る。
みんなの興味が失せ、先生も視線を戻す。黒板の字を一通り書き終えこちらに振り返るタイミングで、俺は大きく伸びをする、すると先生は俺を見つける。
「あれ? 穂結、さっきからいたか?」
俺は眠気まなこをさすりながら、さも当然のように答える。
「当たり前じゃないですか」
先生は頭をかしげながら黒板に向き直る。
――ふっ、楽勝だぜ。
背後から感じる風深の諌めるような視線も、気が付かない振りで受け流し。何が起こったのか分からない顔をして右の頬と前頭部を右と左の手でそれぞれさすりながらキョロキョロしている立花を見ていると、危うく腹筋が六分割してしまうところだった。
「お前、毎回、俺で、遊ぶのは、やめろよ!」
激しく体を揺さぶられて、初めて自分が寝ていることに気が付いた。顔を上げると、いつの間にか先生はいなくなっていて、クラスメイト達も談笑やら居眠りやら思い思いのひと時を過ごしている。いつの間にか休み時間になっていた。
そしてさっきからずっと俺の制服をつかんで揺さぶっている立花は右隣に立っていた。何をそんなに怒っているのか、顔が真っ赤になっている。現代人特有のキレ症だろうか、こわいこわい。
「……授業は?」
「とっくに終わったわ! つーかそ俺よりお前はなんで毎回毎回俺をダシに使うんだよ! おかげで俺はクラスの笑いものじゃねーか! すっかり奇人扱いだよどうしてくれんだよどうしてくれたいんだよ!」
立花はさらに強く体を揺さぶった。どうやら彼なりに切迫しているみたいだ。
「あぁ……うん……そだな」
「寝ぼけてんなよ目を覚ませよなんとかしろよ!」
「……覆水盆に返らず」
「故事成句をこじつけるなよ!」
「こんな状況にそんなまさしく正論なツッコミができるお前はやっぱすごいよ、だからもういーだろ寝かせてくれよ」
「何が良いんだよ何も解決してねーよ何で開き直ってんの!?」
「あーもう、じゃあどうしてほしいんだ?」
「それは……」
立花は急に黙って何かを考え始めた。立花が頭を使う、それが大変な時間の不毛な浪費であることを俺は友人として教えないべきだろう。
またうとうととし始めたころに、立花の頭の上で電球がパッ、と光った。
「……あ、そうだ! お前の知り合いの女の子紹介しろよ!」
まぁ予想通りの回答だった。
「お前ほんと……頭の中はそればっかだな。あんまりひどくて顔までピンクになってきているぞ」
まぁピンクになっているというのは言いすぎだが、そのだらしのない笑みは近からずとも遠からずな位置にいると思う。
「いいから、どうすんだよ? 紹介すんのか、しないのか」
「うーん……」
どうしようか、俺だってそんなに知り合いが多いわけではないし――というかほとんどいないのに、その中から女の子だけに限定されると、これまた数が減少してしまうんだよな。そんなごく少数の女の子に、こんな欲情の権化みたいな何かを紹介したら俺の評価まで下がってしまう恐れがある、というか確実に下がよね、有ればだけど。それは嫌だなぁ。
どうしようか……別に律儀にこいつのお願いを聞いてやることもないんだよね、無視しちゃってもいいんだよね、約束してから反故にしちゃってもいいんだよね、まぁでもそれはあまりにも人道に反する行為で、やっぱりためらわれるよね。
「分かった、紹介してやろう」
「マジで!? ヒャッホウ! じゃあ放課後、鉄棒の前で待ってもらってて」
「放課後? 鉄棒?」
何を言ってんだこいつは? でも本人はなんだかよく分からないけどすごいノリノリだし、なんかそれに関わるのは煩わしいし、面倒だし、面白そうだし、放っておこう。
その時、ポケットの中で携帯電話がぶるぶると振動した。短い間隔だったので、たぶんメールだ。
見ると、そこには『間城崎暁』という送信者の名前と、『無題』という文字が映っていて、内容も何もない、いわゆる空メールだった。なんだろう? 手違いだろうか? それとも実は俺すら知らなかった隠しキャラクターであるところの『おっちょこちょい』が発動したのか……ははっ、間城崎に関してそれはないな。
とりあえず、行けば分かるだろうよ。
「おい、俺ちょっと出てくるわ」
「は? 何またどっか行くの? もう授業始まるぞ」
「まぁな、いろいろと忙しいんだ。俺は人気者だからあちこち引っ張りだこなんだよ」
「人気かどうかはしらねーが、引っ張りだこには違いないな。……まぁいいや。それよりさっきのこと忘れんなよ」
「分かった分かった」
ぞろぞろと次の授業の準備をし始めるクラスメイトの合間を縫って、俺は教室を出た。
やはり廊下を歩いている生徒の数も少ない……のだが、そのごく少数の中に、何故か風深の姿を見つけた。 風深はまるで何かを見張るかのようにクラスの前を徘徊していた。
「おい、風深」
「あ、かっちゃん。……ちょっと待って! どこに行くつもり!」
そんな風深に声をかけると、風深はまるでその監視対象を見つけたと言わんばかりに顔をしかめ一直線にこちらにやってきた。
「気にすんな、ちょっとそこまでだ」
「あ、そう……じゃなくてもう授業始まるじゃない! またサボる気?」
俺を諌めるような視線。これじゃあ簡単には逃がしてくれそうにない。
どうしようかな……なんて思う間もなく俺は行動を起こしていた。
「そんなことより、聞いてくれ、風深」
俺は風深の肩を掴んで、真剣なまなざしを意識しつつ風深を見つめた。
「な、何よ」
あまりにも突然の事に動揺しているのが明らかに分かる。
しかしそんなのお構いなく、俺は続ける。
「今日、放課後、空いてるか?」
「え、え? ……えぇ?」
さっきまでの(本人的には)威圧的な態度はさっとどこかへ飛んでいって、おろおろと挙動不審な風深。
決して笑うまいと、顔に力を込める。
「どうなんだ? はっきりしてくれ!」
「え、え、ほ、放課後は、部活だけど……ちょっとなら……」
熱がほとばしる顔を俯きがちに、消え入りそうな声で風深は答えた。
「じゃあ放課後になったら、校庭の鉄棒のところで……あそうだ、校舎には背を向けて立っていてくれ。いいな?」
「は? 鉄棒? 背を向ける?」
「いいな?」
「う、うん」
風深はあわてながら何度も首を縦に振った。
「よかった。それじゃ!」
「あ、うん、じゃ」
実に爽やかにさりげなく、そうまさしく今をときめく十代特有の晴れ晴れとした青空のように爽やかな別れを言って、俺は風深の横を通り過ぎた。風深も小さく手を振って送り出してくれた。
少し間が空いてから、後ろで「待てこらー!」と風深が叫ぶのが聞こえた。まぁ、聞こえただけ。
そして到着保健室。本日三回目。
これじゃあこっちまで保健室登校しているみたいだな。
三回ノックをした。……返事はない。
どうやら先生はいないみたいだ。なら間城崎は?
……あいつがノックに対する対応をこなせるようであれば、こんなところにはいないだろう。
「まぁ……あいつに限っていないという心配は必要ないだろ」
あいつは学校では保健室以外に出没する以外にはない。むしろそこが職場であるところの保険の先生より保健室にいる時間は長いんじゃないかと思う。これは別に過剰表現でもなんでもない。あいつは朝学校に登校してきて、放課後に帰るまでずっと保健室にいるからだ。別に『保健室の外に出るといけない病』でもなんでもないけれど、本人が出ないと言っていたからその可能性は排除していい。もしかしたら俺の知らない所では、それはもう自国の領土をねり歩く王様よろしく、この校舎を悠々自適に闊歩しているかもしれないが、今のところそんな目撃情報もない。なんたって間城崎が歩いていたら、それはそれは話題性抜群だからな。
それこそ『怪談』のように。
とりあえず、扉を開けて中に入った。
先生は……やっぱりいない、どうやら他の生徒もいないみたいだ。まぁ、いるわけないか。
静かな室内にはアルコールのにおいが充満している。この匂いはわりと好きだ。それはそれだけここに通い慣れたからだろうか。
「間城崎さ~ん……あれ?」
間城崎の名前を呼びながらカーテンを開けた。
しかし予想外なことに、そこには誰もいなかった。いるはずの人がいなかった。
それだけで、ただ人が一人いないそれだけで……そこは、なんだか違和感のある、そわそわして落ち着かない空気を醸し出している。
断続的に窓から入る風がカーテンを揺らす。
途端、昔見た映画のワンシーンを思い出した。それはまさしく学校の怪談をテーマにした映画だったのだけど、その映画で俺が何より怖かったのはお化けが出てくるシーンじゃなくて、こんな、激しい喪失感を感じざるを得ないようなシーンだった。
日常と言うのはそれだけ人に安心感を与えるものなんだな、なんて思ったり。
「おっかしいな……」
さて、これはどうしたものだろう。当然ここにいるはずで、なのにここにいないとすると考えられる可能性はやっぱり、『帰った』と言うことか。それならそうだと言えば良いのに、俺はわざわざ授業を放棄してきたんだぞ。あれ、じゃあのメールは一体? ただこうやって俺を呼び出して、授業に出させなくするだけのもの? だとしたらなんて無為な、この俺が今更授業に出られないからと言って思うところがあるとでも? ……いやまぁ少しはないといけないのかも知れないけれど。でもやっぱりそれは意味のないことで、そんなことあいつ自身承知の上のはずなのだけれど、もし仮に、それを失念していてこんなことをしたのであれば、あいつは器が小さすぎる。そんな小さなやつではないと思っていたけど、俺があいつの事をそんな深いところまで知っているのかと聞かれれば確かに肯定はできないから、もしかしたらそんなところがあることも否定はできないわけだし……
――――――――――ふふふっ。
「…………ん?」
ひた――と背後で保健室の冷たい床をまるではだしで歩いているような音が聞こえた。耳を澄ませば、必死に抑えようとして溢れ出す笑い声がかすかに聞こえる。
何だよ。そう言う事か。
しかしまさか、あの間城崎ごときがこの俺を出し抜こうとは……全く見上げた良い度胸だぜ。しかもバレバレだし。自分の笑いくらい抑えられないようじゃ俺を脅かすには至らないぜ。
まぁ今まで俺からいろいろ仕掛けたことがいっぱいあったから、今日はその仕返しでもしてやろうってことなんだろうな。
……全く、しょうがないな。
本人的には絶対気が付かれていないと思っているんだから、そうしてやろう。このまま気が付かないふりをしてやることだって優しささ。
「……どうしよっかな、いないんだから仕方ないよな、うんそうだよな、よっしゃ、帰ろうか――いっ!?」
ガツン――と。
突然、後頭部に鈍い衝撃と痛みを感じた。ちょっと間をおいて、自分が何か固いもので叩かれたことを理解する。でもそれを理解した時、俺は保健室の冷たい床を左頬で感じていた。
あぁ、ほんと冷たい。
「――ハハッ、私を侮るからこうなるんだ。お前が悠長にしている間、私の体はすっかり冷えてしまって危うくお腹を壊してしまうところだった。しかもあんまり帰るが遅いから少しうたた寝してみればこれだ。パジャマを置いてお前はいなくなっている。しかも、しかもだ――これは何より許せないことだが――私は言ったはずだ。手洗いをしろ、と。確かに言ったはずだ。しかしこれどうだ? 一体どういうことだ? 洗濯機で洗っているではないか。そんな事をして私の大切なパジャマが痛んでみろ、お前はこれ以上に苦しむことになるのだそ? いや言っても分からないか。ところで知っているか? 人が『痛い』と感じる感覚点は人の表皮に約二百万箇所以上点在しているそうだ。せっかくだ、お前にはその痛点と呼ばれるものが一体全体身体のどこにあるのかを私が直々に教えてやろう。今ここにちょうど裁縫道具があるがそれだけでは足りないな……そうだ、先生の注射コレクションの数点をお借りしようではないか、なぁ? あは、あは、あは、あははあはははあはははははははははははははははははは――」
間城崎は、倒れている俺を見下しながら口角を高く上げつつ危ないことを言った後にねじが壊れ大切な何かが吹っ飛んだように笑い出した。
確かに、俺はこいつを侮っていた。正直、驚きに言葉を失ったくらいだ。まかさ椅子で殴打してこようとは。そりゃ床に倒れるくらい驚天動地したよ。
だが、これも正直に白状しよう。実際、倒れる程だったかと聞かれれば、間違いなくそんなことがないと言うことを。そりゃ多少は痛かったけど、所詮は女の子、しかもいつも保健室のベッドに横になっている不健康ぶり。そんなあいつのそのか細い腕力でやっとこさ持ち上げた椅子で叩かれた程度では一介の男子高校生どころか、たぶん小学生だって気絶させるのは無理なんじゃないかと思う。
じゃあなんでこんな風に保健室の床にうつぶせに倒れているかと聞かれたら、そう、ちょっとした、悪戯心だったわけだ。死んだふりってやつ。勘違いしてほしくないのは、これは礼儀であるということだ。せっかく俺のためにわざわざ冷たい床に裸足で立ってまで、重たい椅子を持ち上げてまで、俺を待っていてくれたのだから、俺を驚かそうとしてくれたのだから、それに相応のリアクションを取ってしかるべきだ。そうだろう?
でも――
「――はは、は……は? ……お、おい、聞いてるのか? ……え? ね、ねぇ、ちゃんと聞こえてる、よね? もう怒ってないから、ね? 起きてよ…………え、ええ、えええ、ええええ――えええええ!? うそ!? うそうそうそ!? し、し、し、し……しん、だ? しんだの? しんじゃうの!? こんなにかんたんにしんじゃうの!? だって、だって、これだよ? いすだよ? いすでしんじゃうの? ぜんぜんちからいれてないよ? ちょっとたたいただけだよ? それで、それでっ、あっ、でっ、こっ、なっ、えっ…………う、うそ、うそ、うそうそうそうそうぞうぞうぞうぞうぞだ~~~~いやだ~~~~じじゃだぎゃだばあ~~~~」
――と、間城崎は最後の方になるともう涙声になって正直なんて言っているのか理解できなくなって手に持っていた丸い椅子を放り投げて俺に駆け寄ってきた。
頑張って俺の体を仰向けにして、頭の下に膝を入れて、俺の顔を色々触って、そして抱きかかえてそれはそれは大きな声で――泣き始めた。
もう、泣いた泣いた。
これでもかってくらい、泣いた。
その間俺は、ちょっとリアルに死んだふりをしようと思っていたために目を開けていたので、その一部始終を見ていた。と言うか、見入っていた。正直、間城崎がこんなに取り乱すとは思っていなかったし、なかなか見れない、もとい見慣れない光景だったし――それこそ少しひくぐらい――で、見入っていて、見入ってしまっていて、タイミングを失った。言い出すタイミングを完全に失った。気付いた時にはもうどうしようもなくなっていた。
「うぅ……」
しばらくすると、どうやら泣き疲れたみたいでもうさっきみたいに大声を出すことはなくなった。けれど、まだ泣いている。
罪悪感をひしひしと感じる。身を焼かれるような思いです。
誰か助けてもうしませんから――と心で叫んでみても当然誰かが助けてくれるわけない。
いやむしろ、なんで気が付かないんだよ、ちょっと考えれば分かるだろ。叩かれた後頭部からは全く血は出てないだろうし、脈だってちゃんとあるんだから顔なんか触ってないでそこを調べれば一発なんだし。気が動転しすぎなんだよ、落ち着いて冷静に状況を見てみろよ。そしたらすぐ分かるから、俺の滑稽な姿がよく見えるから。
だからお願い、よく見て! 目を開けてその目でこの愚かな俺を見て! そして罵倒して! 殴って! 蹴って! でも最後は許して!
「……あ、あのぅ……」
「……うぅ……」
「もしも~し……」
「……うん、聞こえる、聞こえるよ。だからもう良いよ。安心して成仏して。私なら大丈夫だから。もう一人でも大丈夫だと思うから。……うそ、やっぱ無理。でも頑張るから。心配しないで」
「いやいや、俺心配だからもう少し生きてみようかなって思ってるよ」
「そんな……え?」
ここでようやく目を開けて俺を見る間城崎、交差するお互いの視線、しばしの沈黙の後、間城崎が叫んだ。
「え……え……お……う……い……いっ、いっ、いっ――きてるぅぅぅっ!」
そしてさっきより強く、俺を抱きしめた。もうほんと、そのまま圧死させようとしているんじゃないかってくらいに、抱きしめた。もう……なんだか俺が泣きたい気分だった。
結局そのまま間城崎が自分で放してくれるまで、俺はされるがままだった。ただ唯一の償い……なんてものではなく、罪悪感から来る後ろめたさのお詫びと言いますか、抱きしめられている間に感じた女の子の良いにおいとか、男の子にはない非常に柔らかい感触とか、その他もろもろはなるべく考えずひたすら棒になるように努めた。
イエス、アイアムスティック。
「ごめんなさい」
しばらくして、間城崎がやっとその熱い抱擁を解いてくれたので、俺は解放された。でも間城崎の方は床にへたり込んだまま放心状態だったので、彼女をお姫様だっこしてベッドにのせると、俺はとりあえずその脇の椅子に座って、しばらく沈黙。でもその沈黙の重さに耐えきれなくなって、謝った。
間城崎は黙ったままだ。
今更気付いたが、間城崎はいつの間にか水色と白色の縞模様のパジャマを着ていた。代えのパジャマがあるならならわざわざ俺が洗いに行くこともなかったじゃんか、と思うけれど、もちろん言わない。こんな状況で言えない。
「……いやさ、ほんの冗談のつもりだったんだよ。今後、もし熊に会ったときのためにと思って、死んだふり? なんてしてみちゃったり。テヘッ」
これから先長いのか短いのか分からない生涯で熊に遭遇するようなことがあるのかは俺自身疑問だけど、そんなことは今関係ない。
「それがさ、なんかお前急にテンパっちゃってさ、叫ぶは泣きだすわで、もう俺も言いだすタイミング失っちゃってさ……って俺ってば自分の責任を間城崎に押しつけようとしちゃった。テヘッ」
「…………」
「あ、いや、今のは別に調子に乗ってたんじゃなくて、俺って自分で『こんなことしちゃいけないな』って思うと自然とテヘッちゃうくせが小学校の時からあってさ~いやもう困りものだよ。テヘッ」
「…………」
だ、だめだ……言うことなすことすべて逆効果にしかなってねぇ。
間城崎の顔がどんどん険悪なものになっていっている。いや俺がそうしてるのか。あ~逃げたい逃げたい逃げたい。どうしよう、逃げようか? いやそれはないだろさすがに。でもこの状況を打開するすべなんてあるのか? ないならこの場を去ることだってそれは一つの手だと言っていいだろ? 時は和解の立役者。三十六計逃げるにしかず。じゃあやっぱり逃げるか? いやだからそれはそれでまずいだろ。もしそれでさらに険悪になったらどうするんだよ。でもここにいたってどうしようもないし……やっぱり、逃げよ。いやいや違うよ、逃げないよ、帰るんだよ、そう帰るんだよ。そろそろお腹すいたしね。それだけだからね。
「じゃあ、俺はこれで……」
「…………」
腰を上げて中腰そのまま間城崎の反応を待つが、微動だにしない。
「帰っちゃうよ~俺帰っちゃうよ~何か言わなくて良いのか~い……良いのか~い……俺帰って良いのか~い……」
そして、ようやく間城崎が顔を上げた。
ぞっとするような、生気を感じさせない目だった。死んで焼かれて食べられる寸前、皿の上からこちらを睨むサンマのよう。かなりブルった。
「分かった、分かった、ゴメン、もう帰るから」
慌ててその場を去ろうとした俺は誰かに袖をつかまれてその場から動けなくなった。
俺は考えた。今のこの状況から冷静に考えた。そして導き出した。この場で急に新キャラ参上の展開はまずあり得ない。
だから必然、俺の袖をつかんでいるのはやっぱり間城崎となる。
「どうか――した?」
「どうか」の時点で一呼吸空いてしまったのは、そのまましゃべり続けたら「放してください」と言ってしまいそうだったから。それくらい今の間城崎は怖かった。
いつもみたいに感情あらわに、表情豊かな間城崎ではなく、その全く逆の、感情を一切合財かなぐり捨てたその表情は、怒っているのかどうかすら分からないけれど、とにかく怖い。最近はこんな顔をすることがなくなっていたからすっかり忘れていた。初めて会った頃の間城崎の表情。
俺称『真城崎空』モード。
この時の間城崎は非常に……怖い。純粋な恐怖。
ちょっと……ふざけすぎたか?
汗がゆっくりと頬をなぞっていく。
「だ……大丈夫?」
大丈夫でないのは俺だけど。
間城崎はその目をいったん閉じて、大きく息を吸い込んで、吐きだした。
目を開いた。
俺は叫びそうになった。
間城崎の手に力が入った。
俺は逃げられなくなった。
そして間城崎は――
「『さ、さっきのは、え、演技よ!』」
「…………」
――まさかのまさか、強がった。
「『ま、まんまとだまされたでしょう!? そうでしょう!? 隠さなくたって分かってるんだから! バレバレバレよ! 自分では隠せているつもりなんでしょうけど、顔を見ればすぐにわかるんだから! ね? そうなんでしょう? だまされたんでしょう? だまされたんでしょう!』」
そんなことを言う間城崎の顔は、本当に必死そのもので、目も当てられないというやつで、思わず目を背けてしまいそうになった。
でも、これは俺の責任でもある。間城崎にこんなことをさせてしまったのは俺のせい。
ここで目を背けてしまってはダメだ! こんな間城崎を受け止められるのは、今ここでは俺しかいないんだ! 気合を入れろ俺!
こぼれそうな涙をひっこめて、俺は言う。
「『あ、あぁ! な、なんだ演技だったのか!? あーびっくりしたーまんまとだまされたよーお前ってすごい演技力あるよな! すごすぎ! 天才!』」
気のせいか、間城崎の目もうっすら潤んでいる気がした。
「『そうでしょう! やっぱりだまされたでしょう! あったりまえじゃない! 私が本当にあんなに取り乱すとでも思っていたの?』」
「『いや全然! でも本当にまるで演技じゃないよう演技だったからさ、まんまとだまされちゃったぜー』」
「『はっはっはーまだまだね穂結ー』」
「『本当だーはっはっはー』」
それから少しの間、二人は本当にカラッカラな笑い声を上げ続けた。こんなことで俺のしたことの過ちが許されるとは思わない。でも――それでもそれで間城崎が満たされるなら、俺にはこうするしかない。こうしてやることしかできないんだ。
そして俺は、このままこの場を退場するのが最も適切と判断した。
「『いや~驚いた……おっと! そろそろ戻る時間だな。じゃあ俺は行くよ』」
「『そう、じゃあまた!』」
「『おう、またな!』」
お互い顔だけは笑ったまま、別れを交わした。
保健室を出る間際、衝立の向こうからしくしくと声を押し殺した泣き声が聞こえた。それが一体何の涙なのか、残念ながら俺には分からない。でもなんでだろう、俺の目からもこぼれてしまいそうな気がした。なんだかすごく、惨めな気持ちだった。
青臭い日々を送る僕らは、とても壊れやすいのだ。
俺は間城崎を刺激しないようにと、ゆっくり扉を閉めた。ついでにこの記憶も、どこか深くてちょっとやそっとじゃ見つからないところに、そっとしまいこんで鍵をした。
いつか、笑い合える日が来るまで……
「……さて! 切り替え切り替え!」
これからどうしようか。このまま戻って中途半端に授業を受けるか、もういっそこのまま学食に行って一足早い食事をいただくか、二つに一つ。こいつは難しい選択だ……ちょっとやそっとじゃ正解を導き出すことなんてできやしない――なんてことないぜ!
「うん、飯を食おう」
本能の赴くままに、俺は確固たる意志を持って学食へと足を運んだ。