『僕×白紐帯の木乃伊』 2
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目が覚めると、いつの間にか自分の腹の上で女の子がサンドイッチを食べていて、その女の子の顔には包帯がぐるぐると巻かれていたのであった――改めて整理をするとなかなかB級臭のするお話ではあるが、これを実際この目で見てしまうとなかなか怖いね。うん、怖い。
しかしさすがにこの存在が俺にしか見えない想像上の産物だなんてオチではない、と思う。現にしっかりと、俺の腹は彼女の重みにつぶされて若干気持ちが悪くなり始めているのだから。
ではどうするべきか。ここは彼女に進言すべきなのだろうか? いやでもしかし、それでは彼女がとんでもなく恥ずかしい思いをしてしまうのでは?
ならばこのまま俺がベンチという役割を全うする、否、俺がベンチとなれば、こいつは何事もなかったようにそのままサンドイッチを食べ続け、腹が膨れれば自然とどこかへと行くのだろう。その間誰かに見られる可能性が無いとも言えないが、そこは心配ない。
何故ならそう、俺は――ベンチなのだから!
イエス! アイアムベンチ!
「んなわけあるくぅあぁぁぁっ!」
俺は腹の底から空でくつろぐお天道様まで轟くような声を出した。
「きゃああああっ!」
俺の腹に乗っていたそいつは、突然、何の脈絡もなく、すぐ近く(正確には自分の右斜め下)から聞こえてきた雄叫びと、それに呼応して振動するベンチもとい俺の腹に驚き、鼓膜を超振動させるほどのキンキンとけたたましい悲鳴を上げて立ち上がった。その拍子で彼女の手から高く舞い上がったサンドイッチはなんと俺の口の中に着地した。ツナだった。
あまりに乱暴に立ち上がってしまったそいつは自分の腹をテーブルの縁に激しくぶつけると、「うっ」と苦しそうな声を出してまた同じ場所に倒れるように腰を下ろした。
そして今度は俺が声を上げる番だった。勢いよくおろされたお尻に内臓をつぶされてしまった俺は「うふおぉ」と、とんでもなく情けない声を上げた。
その声にまた驚き立ち上がるそいつは、またしてもテーブルの縁に腹をぶつけて俺の上に着地しようとする。だがしかし、同じ轍は踏むまいと今度はそいつが着地するその直前、俺は両手でベンチの縁にがっちり掴み、腕の力だけで自分の体を一気に頭の方へ引いて両足を左右それぞれの方向にベンチの上から外へと放り出した。
俺の腹というクッションを失って、彼女は堅いベンチの上に落ちお尻をしたたか打ち付けた。とても痛そうで、実に愉快爽快。
結果、彼女が俺の両足の間に座っているという構図の出来上がり。
「いったぁ~……」
腰の辺りをさすりながら彼女は小さな声でつぶやいた。大声じゃない分余計痛そうに見える……気がする。心もとない。なにせ目を覆い隠してしまいそうに長い前髪の奥には包帯があるのだから、表情が読めない。
「痛いのは分かる。が、それよりもまず、するべきことがあるだろ?」
俺は腹筋の力だけで上体を起こすと、少し離れて座り直した。
そいつはこっちを向いたが、やはり何も見えてないみたいで、声の持ち主を探すようにキョロキョロ顔を動かし続けている。
「どなたですか? 隠れていないで出てきなさい!」
「いやいや、隠れているどころか目の前にいるんだけれども」
「どこですか? 姿が見えませんよ!」
「なら聞くが、今のお前には一体何が見えているんだ」
「何も見えるわけないでしょう。包帯を巻いているのですよ? そんなことも見て分からないのですか?」
「はぁ!?」
なんだこいつ、おちょくってるのか? ケンカを売っているのか?
「それより質問に答えなさい。あなたは何故私の下にいたのですか?」
「いやいつそんな質問したよ? ……まぁいいや、誤解しているようだから言わせてもらうけどな、先にこのベンチで寝ていたのはこっちだ。お前は、あとからやってきて平然と俺の腹の上に座ってサンドイッチをむさぼっていたんだよ」
「では寝ていたあなたが悪いじゃないですか、ベンチは座るものですよ?」
一瞬の逡巡もなく言い返された。しかもそれは正論であり間違ってはいない。でもそれは論点をずらしている。
「なら聞くが、本来座るものであるところのベンチに寝ていた男の子の腹の上は、本来座るものではないんじゃないか?」
「ベンチに寝ていた時点で、その方はベンチになるのです。ならば私が、あなたのお腹であろうが顔であろうが足であろうが、座ることに対して諌められるいわれはないのです」
彼女は勝ち誇ったように胸を張る。俺たすベンチはベンチ、余りなし。俺要素消滅。それは足し算のようで引き算。
そんな大変失礼極まってやりあがる彼女に、俺は大人気もなく論戦を展開してもいい……のだが、そんなことはしないさ。
「なるほどな……分かったよ。最初は、それこそ気持ちが全くこれっぽっちもこもっていなくても、素直に謝罪をすれば許してあげようと、俺は広い心持で構えていた。だが、その俺の親切心をむげにしたお前にはもはや一切の情けをかけてやる義理も情もない」
「……どうするつもりですか?」
そいつは両手で体を抱くように守りを固めた。まさか生けるエチケットことこの俺がそのような野蛮な行為に手を染めると思われたことがまた遺憾である。
「どうもしないさ、どうもしない。それどころか何もしない。これで終わりここでお別れはいさようなら」
俺はベンチから立ちあがった。その影が見えているのか、そいつも顔を上げる。しかし目が隠されているのでどんな顔をしているのかは良く分からない。まぁ別に、想像する必要もする気もないだろう。
そのまま何も言わずに、隣の隣のテーブルとベンチがあるところまで歩いて行き、そこにまた仰向けで寝ころんだ。状況を理解したのか後ろからは「ふん! 何怒ってるんですか! そうやって拗ねて拒絶すればかっこいいなんて、中学生までの妄想です!」と俺をなじる言葉が聞こえたが、聞こえないことにする。俺の聴覚が拾った音が言葉なのか雑音なのか、その決定権は俺にあるのだ。
なんだか大変釈然としないと言うか、色々複雑な気持ちだったが、寝てしまえばそんなもの関係ないつーか知ったこっちゃねー。
気にしない気にしない、一休み一休み。
「…………………………………………………………………………………ぐぉ」
もうなんなんだ。せっかくまた人が気持ちよく落ちていこうとしていたのに、またもそれを妨害された。
しかも、今度はさっきのとは違って、かなりの重みがある。
目を開いてみると、さっきあいつが乗っていたところ――つまりはまた俺の腹の上に、今度は男の子が座っていた。黒いサラサラヘアーの、長身美男子。
「まさかとは思うが、お前もベンチと人は融合すると思ってんのか?」
「は? なんだよそれ?」
違った。
「じゃあ今お前が何をしているか、分かるか?」
「お前の腹の上に乗ってる」
確信犯だった。
でもよかった、話は通じるみたいだ。だがどうやら心は通じそうにない。
「しかし……よく分かったな」
「なんだって?」
「こっちの話……で、その誰だか知らないやつの腹の上に乗るのが今の流行なのか? トレンドなのか? 情報社会へのアンチテーゼを謳って久しくマスメディアから遠のいている俺にも共感できるように説明してもらえるか?」
「そんなわけあるか、馬鹿か?」
馬鹿じゃねーよ馬鹿そういうお前の方が馬鹿だろこの馬鹿なんて馬鹿な発言を馬鹿らしくしたら俺が本当に馬鹿みたいだから、黙ることにする。
しかしどうやら彼は話も通じないみたいだ。まださっきの包帯少女の方がましな気がしてきた。……はて、何故あいつと比較をしたのだろう? たまたま、連続したからか? でもまったく違和感がない。
「……おいおいシカトすんなよ。悲しくなるだろうが」
何にやにや笑ってやがる。つーかいつまで乗ってんだよ。地味に重くて苦しいんだよ。
「とりあえず、どいてくれるか?」
「まぁまて、俺は話があってわざわざこうしているんだ」
「人の腹の上にのって話すのがお前のスタンスなのか?」
「素箪笥? なんだそれ? 素じゃない箪笥ってあるのか? 厚化粧箪笥、みたいな?」
「……いや全然面白くねーし。今の発言まさに馬鹿丸出しだぞ?」
「馬鹿って言うやつが馬鹿だって言うの、知らねーの?」
勝ち誇ったように笑っているこいつを本気でしばき倒したい。
でもなんだこれ、デジャヴじゃないけど、なんかこの感じついさっき味わった気がする。
そう……完全に自分を棚上げしやがっている感じ、やはり先刻の包帯少女を想起する。
「……だから黙るなって、寂しいだろうが」
「あのな、お前が『話がある』っていうから黙って聞いてやってんだろうが」
「あぁ、そうか、なんだお前、意外といいやつだな。少しだけ隙に慣れそうだわ」
「初対面なのに気を許しすぎだ。少しは警戒しろ」
「あぁ、違った、『好きになれそうだ』の間違い。ふむ、日本語は難しいな」
こいつにとって簡単な言語はこの地球、いや宇宙規模で探しても存在しないであろうことを、まだ弱冠十代で知らせるのは酷だろうから、黙ることにする。俺ってばおっとなぁ~。
「まずは自己紹介だな、はじめまして、俺は通りすがりの覆面ライダーだ」
「人に乗って颯爽と参上するなんて平成ライダーは斬新だな」
「……日本語使えよ」
「おっけーお前とりあえず今日家に帰ったら真っ先に国語辞書で『自己紹介』と『覆面』を引いてみろ。これなら意味分かるか? 分かるよな?」
「何わけ分かんないこと言ってんだ? 普通家に国語辞書なんてないだろ? 日本人なんだから」
……おいおい、この学校ってこんなに学力的に難を抱えていたっけか? 確かこの辺りでは有数の進学校だったはずなのに。あのパンフレットの謳い文句は詐欺か?
「まぁいいや、とりあえず、俺はそーゆー者だ。そしてなんと、俺は悩める人間を見過ごすことができない性格なのだ」
「なんだよその説明口調。戦隊ヒーローが新しい兵器を手に入れた時の博士の解説か」
「だから、俺は全力でその悩みを解決してあげるのだ」
スルーされたし。
「はいはいそれはそれはようござんした。ならまずは俺の悩みを解決してくれ、言わなくても分かんだろ? そこをどいてくれさえすればいいんだ。まぁなんて簡単!」
「おいおい待て待て、物には順序があるんだ」
おいおいそんなこと言うヒーロー聞いたことねーぞ。あ、いや確かにヒーローは段取り重視だけれど。必殺技は最後までとっとくけれど。
「とにかく、そういうことだから。これから君には一つやってもらわなくてはならないことがあるのだ」
「……ん? おいちょっと待て、それはおかしいぞ。今お前俺が全力で悩みを解決するって言ったばかりだろ? なのにそれじゃあ、言ってることが矛盾しているだろうが」
と言ってから、後悔。こいつにはそんなことを言うべきではなかった。案の定、意味を――いやまず言葉を理解できていないようで「む、じゅん……」と呟きながら頭を傾げている。
「……夢を巡る?」
「パプリカか」
「わけわかんねぇよ、とりあえず黙って聞いてろって」
横暴すぎる。こいつきっと甘やかされて育ってきたな。それか父ちゃんはジャイアンだ。
「あれ、見えるだろ?」
そう言ってこの自称覆面ライダーは左手でどこかを指さした。その先には……何がそんなに落ち着かないのか、とても挙動不審なさっきの包帯少女がいる。
「……それが、何? 俺今あの子とのメモリーをフォーマットしてんだけど」
「今、彼女はとても思い悩んでいる。あぁかわいそうに、あれではいつその重さに耐えきれなくなってしまうか分からない。何と嘆かわしい。だから、だから、俺は彼女を救いたい」
俺の言葉なんてどこ吹く風。途中、やりすぎな演技を踏まえながら、覆面ライダーは俺の腹の上で訴えかけた。しかしもしかしてその過剰な演技と、俺の腹の上じゃないどこか他の場所で訴えてきたなら、俺はもう少し真摯に聞いてやっていたかもしれない。
そもそも考えてみると、何故に俺が選ばれた? ただ近くで寝ていたからか? それともついさっきまでやつ――包帯少女と話していたのを見ていたからか? どちらにしても選定要因は不十分だし、相手を間違えている。よりにもよって、俺にかよ。そりゃないぜ。
「……お前、それ本気で言ってんのか?」
「え?」
覆面ライダーの中の筋書きだとここまでで終わっていたのだろうか、俺の反応に若干動揺している。……ということは、こいつの台本通りなら俺はここでこいつの訴えに胸を打たれて助力していたのか? なんだかだいぶ安く見られていたんだな。
「本当にあいつを助けたいと、思ってんのか? あいつは他人なんだろう? 全く知らないやつなんだろう? 通りすがりの覆面ライダーなんだから、そうなんだよな? そんなただの他人を助けたいと、本当に思っているのか?」
「う、ううん?」
覆面ライダーは曖昧にうなずいた。
「助けるってことは、責任を負うことなんだぞ? お前がもしあいつを助けたいなら、お前はあいつの問題に責任を負わなければならないんだぞ? それは途中で投げ出すことも、無駄に引き延ばすことも、中途半端も許されない。その問題にとって出来得る限りの最適で、最善で、最良で、最高な回答を最悪一人ででも導き出さなければいけないということを、お前はちゃんと分かっているのか? ――あぁ、当然分かっているんだよな? なにせ通りすがりの覆面ライダーだ。今までも幾度となく悩める人を救ってきたお方だ。俺に言われるまでもなくそんなこと重々承知だったか。これはごめんなさい、調子に乗りました。釈迦に説法ってやつ? いや俺的には馬の耳に念仏が一番しっくりくるかな?」
いつまでも俺の腹から動かない覆面ライダーに、俺は少し意地悪をした。だけど、たぶん今俺が言ったことの七割を聞き流したこいつは「あぁ」とか「うん」とか言いながら曖昧にうなずいているだけだった。そして、言った。
「――つまり、やってくれるな?」
気持ちの良い笑顔だな~こんちくしょう。
「……あの包帯に、少しでもお前のようなところがあったなら、そんなに悩むことはなかったんだろうな」
「あぁ、全くだ」
誇らしげに胸を張るな。
「で、当のお前はこれからどうするんだ?」
「ん? 俺? とりあえず……これで終わり」
「まさかの丸投げ!?」
こいつ……もう何もかもがひどすぎて怒る気すら起きない。
「じゃあ、よろし!」
そう言ってさっさと颯爽と去って行った。すべてまるまるごっそり俺に任せて、やつは消えた。
「……なんてこったい」
この場合、俺の行き場を失ったこの負の感情はどこに向けるべきだろうか。
その一、あいつを追っかけて後ろからはたき倒す。
その二、このまま寝てすべてをフォーマットする。
その三、やっぱりあいつを追っかけてタコ殴る。
(中略)
その五十三、包帯少女のもとへとはせ参じる。
そんな選択肢の箇条書きを頭の中で列挙して、選んだ一つ以外を撤去する。ベンチの硬さを惜しみつつ、体を起こした。結局は、こうなるのか。
包帯少女はまだベンチにいた。人のことをとやかく言うつもりもないのだけれど――言えるような立場にいないことも重々承知だが――こいつ、授業は出なくていいのだろうか? 俺が知っているやつ以外にも授業免除符を頂戴したやつがいるのか?
少し考えて、俺は挙動不審な包帯少女の隣に少し間隔をあけて座った。
「おい」
「はっ!? その声はさっきの!」
包帯少女はその明らかな敵意を明らかにあさっての方向に向けている。
そこに誰がいるんだ誰が。
「おいおい頼むぜ、こっちだよ」
「なぁ!? いつの間に……テレポーターですか?」
と、包帯少女はベンチの隣の垣根に向かって言った。
「いい加減にしろ。そっちでもない。こっち……だ!」
俺は包帯少女の顔を両手で両方から挟むと、思いっきり俺の方に向けた。
「……痛いです」
「あぁ、ごめん、ちょっとむしゃくしゃしててな。八つ当たりだ」
「そんな開き直り方ってありですか!」
「開き直りに関してはお前にとやかく言う権利はないぞ」
包帯少女の頬はほんのり温かい、それにすごく柔らかい。昔誰かが「頬が柔らかいやつはエッチ」と言ってけど、それが本当だとしたらこいつはなかなかのレベルかもしれない。
包帯×変態は……未知数。青少年の妄想は無限大!
「……あの、いつまでそうしているつもりですか? あなたの手は案外冷たいんですけど」
「あぁ、悪い悪い、さっきトイレに行ってきて手を洗うのを忘れたから、こうしていれば洗ったことにはなるかな~と思って」
「ぎゃああああっ!」
包帯少女は狂ったように頭と腕を振って俺の両手から逃れようとした。なので、俺はしばらくそのまま両手で挟み続けた。所詮こいつ程度の抵抗では俺の呪縛を断ち切ることはできまい。
案の定、包帯少女はすぐに「はー、はー」と肩で息をし始めて抵抗をやめてしまった。
「ん? もういいのか?」
「……三秒、過ぎて、しまいました、から」
「まさかの三秒ルール適用!?」
「……もう、お嫁にいけません」
「おいおい、いくらなんでもそれは悲観しすぎだ。たとえ汚い包帯少女でも、それはそれなりに需要があるかもしれないぞ」
「そんなマニアックな趣向をお持ちの方向けに売り出そうとなんてしていません。私は万人受けする包帯少女になりたいんです」
包帯自体がマニアックなことにこいつは気が付いていないようだ。というかその包帯はお前のアイデンティティーなのか。個性奨励世代のけったくそに残酷な選択肢だこと。
包帯……包帯?
「そういえば、なんで包帯なんて――」
包帯って言うのは本来、傷を覆うもののはずだ。その傷が早く治るように、傷がひどくならないように。
だとしたら、こいつは何か傷を抱えていると言うことなのだろうか……
「いやっ!」
俺の言葉をさえぎって、俺の手を振り払って、彼女はそれを守ってしまった。そんな彼女は、ひどくおびえているように見えた。
「あ、いや、その……悪かった」
「…………」
謝っても……遅いか。彼女は自分の両手で包帯を守りながら俯いて、何も話してくれない。これはいよいよ本当に怒らせてしまったようだ。
どうしようかと思っていた時、唐突に、はじかれるように彼女は立ち上がった。
「お、おい」
そして、俺の制止には反応しないで、そのまま――走った。
器用に、決して女の子走りではなくちゃんと手を前後に振って。前が見えないのにそんな走りができるのは、きっとすごい、とんでもなくすごい。きっと、すぐにはできない。
でも、今はそこに見とれている場合ではない。
「おい! 走ったら危ないぞ! おーい……あやっぱり」
そうやっぱり、例え前が見えているように走っていても、やっぱり見えていない。
些細な大きさの石ころにつまずいて、彼女はまるでホームにヘッドスライディングするかのように、激しく、かつ勇ましく転んだ。そして滑った。
左足の靴は、飛んだ。そして落ちた。
しかもそれからピクリとも動かない。
「……死んだか?」
俺は恐る恐る近づいてみた。近くにある棒を拾ってそれでつついてみた。「おーい」と声を何度かかけてみた。
完全に無反応だった。
「……死んだか」
「社会的には、死にました」
うつ伏せのまま、彼女はやっと言葉を発した。とりあえず個人的には生きていた。
「……あのさ、やっぱり俺も人として、このまま放っておくことはできないわけなんだけど、もしそれがお前の尊厳を著しく損なわせるものだとしたら、むしろこの場合は俺の非情になるべきかもしれないと思うわけよ。でさ、こんなことを聞くのはあれかもしれないけど……俺、どうしたら良いかな?」
「……起こしてください」
「分かった」
気のせいか、泣いているような声だった。俺は出来得る限り優しく、包み込むように肩を抱いて体を起こした。
ひとまずそのまま座らせ、体に付いた砂を払った。その間、されるがままだったこいつが、一体どんな心境だったかは考えないようにしてやろう。それだって優しさだ。
「あ――」
制服の砂を払って、今度は顔に着いた砂を払おうとした時――思わず手が止まった。
それは完全に不可抗力だと言えよう。さっき転んだ拍子で、包帯がずれていたのだ。包帯と包帯の隙間からは閉じられたまぶたが見える。
片目、左目だけ。
「ん?」
俺の手が止まったことに気が付いて、彼女は目を開いた。
そして――目が合った。
その瞬間――俺は息をのんだ。
彼女の目は――どこかで見たような、きれいな青色をしていた。
2013/10/15 誤字修正