『僕×白紐帯の木乃伊』 1
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「――い……おいっ! おい穂結っ!」
ぼやけた意識の中、うっすらと聞こえてくる声。聞き慣れた、ちょっとボリュームが大きくて眠い時には鬱陶しい声に、頭を乗せていた腕のしびれが鮮明になり、その痛みで夢の記憶が遠のいていく。
おぼろげながら覚えているのは、その夢が俺の思い出だったこと。それらを懐かしいと思うにはまだ若すぎる。でも振り返ればきっとそう言いたくなってしまうような色の濃い思い出。なのに今じゃ夢位でしか昔を思い出さなくなった。
そっか……思えば学校が始まってもうすぐ一ヶ月か。意外とあっという間だったな。最初こそいろいろあって大変だったけど、今じゃそれなりにクラスメイトをお話したりする。幸運なことに転校生いじめに遭遇することもなく、何より新参者を快く受け入れてくれた皆さんのおかげで、俺なりにこの学校に溶け込めているんじゃないかと思う。それはとてもとても大切なことだ。共同体の中で生きるにあたって一匹オオカミを貫くような勇気はもとより、そんな発想すら俺にはないけれど。
「おいっ! お~き~ろ~よっ!」
だって俺はどうしようもない弱虫なのだから。
……嫌だね、卑屈なのは。
「……なんだよ?」
何かが俺を机に縛り付けたのかと思うような体のだるさは完全に睡眠不足のせいだ。
のろのろと体を起こす。そいつは机をバンッ、と叩いて勢いそのまましゃべりだす。
「なぁおい! 三組にいる梶谷って子、知ってるか?」
長身で茶色がかった短髪の、いかにも「俺、不良だぜ、かっこよくね?」みたいなことを言ってしまいそうな残念君こと蕪木立花が顔を近づけてきた。
「……お前、俺のことそういう風に思ってたのか」
「はは、冗談だよ、冗談。……いっけね、声に出てたか」
「わざとらしくボソッと言うな! さっきのが本音みたいになるだろ!」
「えっ……」
「……おいおい否定しろよ!」
「あぁ悪い、あまりに的確に真意を汲み取られて言葉が無かった」
立花の身長は高校生男子の中では割と高めな分、机に座っているやつにここまで顔を近づけると必然だいぶ腰を曲げている体勢になっていて、傍から見たら弱い者いじめをしているようだ。
事実、最初はその誤解が広く伝播してしまっていた。実際、こいつの性格はそんなことからは遠くかけ離れているのだけれど。
やっぱり人は見かけによらないってことだね。
「全く……それより! かじやだよ、か・じ・や!」
立花は心の弾みが顕著に表れている瞳で俺をじっと見ている。推察するに、女子の事だ。
かじや、カジヤ、人名変換しておそらく梶谷。そうか梶谷か……はて誰かしら?
「誰だよ、知らないぞそんなやつ。なんたって俺は一年一組の生徒だからな」
胸を張って答えた。自分のクラスなだけに、俺はこのクラスにそれなりの愛国心ならぬ愛組心を抱いているのだ。
「そんなの知ってるんだよ」
そんな俺の崇高な遵奉精神を無下に一蹴する言葉だった。
「なら聞くな」
俺は立花に手をふらふら、どっかいけよのジェスチャー。そのまま腕を組んで寝ようとすると、頭を両方から掴まれて無理やり上に向かされた。
「なぁ、見に行こうぜ」
息がかかりそうなくらいそのにやけ顔を近づけて、囁きやがった。気色悪い。
俺はその手を振り払い立花の顔を押しのけた。
「なんだよ、俺の初恋の相手に似ているのか? だったら考えてやらないでもない」
「そんなの知らねぇよ」
「じゃあ初めてのちゅーの相手?」
「もっと知らねぇよ!」
「当たり前だろうが!」
「なんで怒ってんだよ! ……まぁいいや、そんなことはいい。なんかさ! 今までスルーされてたけど、最近になって話題沸騰。雰囲気変わって実際よく見るとすげーかわいいって評判なんだよ。性格も入学当初から少し変わったらしくて、男女問わず好印象らしい。もういたせりつくせり盛りだくさんの大盤振る舞い!」
なんだか安い飲食店のうたい文句みたいな感想だな。
「はて、前にもそんなことを言って俺を連れまわさなかったっけか?」
前にも――そんな言い方だとまるで過去にも一度そんなことがあったと言うように聞こえるかもしれないから、訂正。
こいつには学校がある日の朝は大体この手の要件で校舎を引きずりまわされている。彼曰く「男としての欲求に正直に、恥じぬ人生を謳歌したい」らしい。なんと恥を恐れぬ恥さらしだろうか。
そうしてその人生の相方としてまさかキャスティングされてしまった俺はあらゆる学年、学級に顔を出し、こいつがリサーチしていた美幼女美少女時々美少年のもとへとはせ参じているのだ。
「前回は失敗だった。友達の噂を鵜呑みにした俺のミスだ。あんなにかわいい顔してたってのにその実たまたま女子の制服着てたまさかの同性だったとは……だがしかし、今回に限っては問題ない。何故なら、俺が事前に見ておいたからだ!」
なんと驚いたことに、その中には彼曰く「残念」な方々もいるらしいのだが、まぁそれはこいつのさじ加減だ。しかしまさかその子も、こいつのような真っ当とは言い難い感性の持ち主に残念だったなんて言われているとは露も思うまい。そこまで人は自虐的にはなれないだろう。しかし、件の美少年には俺も驚かされた。「もういっそそれ取っちゃえば?」と言ってしまいたくなったほどだった……いや、言ったんだった。
そして今日見事こやつのお眼鏡にかかってしまったのは梶谷と言う子らしい。
「一度見ているのならわざわざ見に行く必要はないのでは?」
「美人と可愛い子は見れば見るほど味が出るんだよ!」
「スルメか」
リアル干物女。
「ほら、行くぞ!」
「とは言っても、この時間は正直睡眠に充てたいと常々思っているわけで、はいそうですかと首を縦に振ることはできないのです」
なんて言って諦めてくれたことはない。そんなこと分かってる。まぁいわゆるお約束だ。
「大丈夫だ、眠気も吹っ飛ぶかわいさを保証する」
そう言って立花は俺を無理やり立たせると、そのまま後ろから腕を回す。俺は雁字搦めにされて強引に三組に連れて行かれた。いつだって誰だって俺の意思などそっちのけなのだ。
「あれだ」
三組のドアから顔を突っ込み立花が指差す先には、窓側の席で、クラスメイトの女の子達と楽しげに話している一人の女子生徒がいる。
立花の話では、入学当初は良い言い方でとてもおしとやかなお嬢様、悪い言い方でお高く留まって近寄りがたい雰囲気を醸し出すお姫様。クラス内では常に窓側後方の席を占拠し、他を寄せ付けない雰囲気を垂れ流す。クラスメイトからは『御上婦人』なんて揶揄されていたらしいが……どうにもそんなところは見つからない。それどころか友達と話をしているその様子はとても人当たりが良さそうで、決してやかましいというわけではないにしても、話のいちいちに驚き、怒り、笑う。それなりに感情を表に出しているように見える。
まぁ、所詮は人の噂、大して当てにならないからな。
ちなみにうちの学校は防犯的な目的からか自分が所属しているクラス以外のクラスに入ることを禁止、とまではいかないまでもそれに近い注意を促している。だから普通の生徒はあまり他クラスに出向くようなことはしない。俺たちはこうして廊下からクラスの中を覗くほかないのだ。そしてこれはとてもよく目立つ。出来ればしたくない。
何故かって? そりゃもし可愛い女の子目当てに自分のクラスを覗いているやつがいたら皆思うだろう? アホか、てさ。至極まっとうな理論の帰結だ。
「な? な? な? 可愛いだろ?」
「あぁ、そうだな」
立花はかなり食い気味に迫ってきた。顔のニヤけっぷりと言ったらひどすぎる。
まぁ、確かに可愛いと思う。髪の毛は明るい茶色で肩にかかるかかからないかくらい、乱れることなく真っ直ぐ下に伸びている。わりと白い肌に整った顔立ちは、予想通り結構幼め。庇護欲をかきたてられた男子どもの話題になるのも頷ける。むしろ今まで話題にならなかったことに首をかしげるくらいと言ってもいい……かな?
「……それだけか?」
俺のいつも通りのリアクションに、立花はいつも通りのリアクションをする。これほど分かり切っているやり取りもないだろうに、いつもこの問答を繰り返す。
「それ以外何が?」
その言葉に立花はこれでもかというくらいに肩を落とす。危うくその肩がその体から剥がれ落ちてしまうくらいに。
「……はぁ。なんだそれ、それでも男か? それとアッチ系の方なのか? あんなかわいい子を目にして、何か湧いてこないのかよ!」
徐々に熱くなる立花。言っていることの危なさに気が付いていない。
「お前は発言が不潔すぎる。それに誰かさんに学校中の美幼女を見せていただいたおかげですっかり免疫が付いたみたいだ」
「それじゃあ駄目なんだよな~いつでも新鮮さを持たなきゃ。まだまだお前はそこから抜け出せないぞ」
そこってどこだ。
「俺はここが居心地いいんだよ」
ここってどこだ。
「いいや。俺が絶対に覚醒させてやる。俺には分かる、お前にはその素質がある」
何やら変な使命感を彼の中に芽生えさせてしまった。悪いやつではないんだ。ただちょっとばかり……ねぇ? 色々あるのさ。それは誰だって同じだろうよ。だから誰にもこいつの熱情を冷ます権利はないのさ。同様に、覚ましてしまった奴にも責任はない。当然だ。論理的だ。一切の矛盾もない。決して自己弁護ではない。だから俺は悪くない。
「待ちなさい!」
唐突に、しかしまるで出番を待っていたかのように、後方遥か下の方から声が聞こえた。振り返ってから見下ろすと、いつの間にか風深が立っていた。
その特注であろう校内最小サイズの制服を少々の余裕を残し着こなす小さすぎる体に、キラキラした大きな目、小さな鼻と口と言うパーツで構成された幼すぎる顔をもつ『養いたい同級生ナンバーワン』こと安久都風深。その外見にボブヘアーの組み合わせは俺的にはかなりしっくりきているが、本人曰く「これのせいで幼く見え過ぎる」らしい。そんなの誰が見ても髪の毛のせいではないことは確かだ。
そして、実は、何を隠そう――俺とは選ばれし者のみが持ち得る幼馴染という設定があるのだが、あまり知られていない。俺自身は隠しているつもりはないのだけれど、どうやら風深は隠したいみたい。
なんか……切ない。
「どういう意味だ、安久都?」
迎え撃つ立花も態度だけでは一歩も引けを取らない。
「これ以上うちのクラスに公然わいせつ人間はいらないって意味よ!」
おぉ、今にもそのボブヘアーの頂点から角が生えてきそうな剣幕だ。
とりあえずそのこげ茶色の頭を押してみた。
「なっ、ちょっ、何すんのよ!? なぁ~やめてやめてやめて~」
風深は別に頭を触られることが嫌いなわけじゃない。ただ(年齢的に)小さい時に「頭を押さえつけられると背が伸びなくなるんだよ」と教えられてから、それを真に受けて今でも信じ続けているというなかなかにかわいいやつなのだ。
手をぐるぐる回しながら、足をドタバタさせながら、風深は抵抗する。
だがしかし、所詮は風深である。その絶対的な身長差により抵抗空しく俺にされるがままなのは、もうお約束である。
少しすると、風深は諦めて俺を放って話を続けた。
「おいおい、誰がそんな人に迷惑しかかけない快楽主義者だって?」
「あら? あなた以外にいるかな?」
風深は意地悪そうな笑みを浮かべて立花を挑発する。だが残念、その童顔が邪魔していまいち効力にかけている。
「失礼だな。俺はただ一介の高校男子として、悔いのない人生を送りたいだけだ」
「その人生がもはや罪と言う泥沼にどっぷりつかっていることが分からないかな?」
二人はにらみ合っている。
この二人は本当に仲が良い、いつもこんなことをしている。飽きないのが不思議でならない。
だから邪魔しないようこのうちに自分のクラスに戻ってしまおう。
「そこの予備軍も気を付けなさい!」
風深は俺の背中を指差しながら言ったような気がした。でもきっと俺じゃないと思ったので振り返らなかった。
「かっちゃんのことよ!」
なんと意外、俺のことだった。
「おいおい心外だな。風深は俺があんなのになると思っているのか?」
俺は振り返り立花を指さしながら言う。
「なんだかずいぶんな言い方だなおい」
「予備軍よ。いつまでもこんな人の奇行に付き合っていると危ないってこと」
「心配するな。俺はそこまで堕ちないよ」
すると立花が、まるでどこか大事なねじが吹っ飛んでしまったような笑い声をあげた。何事かと立花を見る俺と風深を含めた数名の生徒に憚る事無く、しばらく腹を抱えその悪そうな笑いを続けた後、今度はピシッと背筋を伸ばし、あらんかぎりの高さから風深を見下ろしながら言った。
「……ちげーよ、ちげーよなぁ安久都? 安久都が本当に心配してるのはよぉ、未来の旦那様候補が誰か他の女の子に寝とられないか、だよなぁ?」
「な、なぁ!? 何言ってるのよ!?」
風深の顔は誰が見ても分かるくらい、今にも湯気が出そうなくらい赤く染まった。それを見てまた笑いだす立花。
その瞬間、風深の中でスイッチが切り替わったようにも見えた。俺は静観する。
ちなみにこれは余談だが、風深はとても背が低い。立花は結構背が高い方。
それと風深は小学校から空手をやっていて今でも道場に週二回くらいで通っている。立花は特別何かをやっていたとかは聞いたことが無いけれど、モデルみたいな体型で足が長い。
いや別に、特に意味はないけれど、ただの余談。
一瞬間が空いて、それから次の瞬間――
「ごびぁっはっ!?」
と、文字表記するのが少々わずらわしいオノマトペを口走って、立花は沈んだ。しかし今のはきっとこいつが悪い。
ふと三組を見ると、三組の何人かがこちらを見ている。その中に立花お勧めの梶谷と言う生徒もこちらを見ていた。こいつはほとほと運のないやつだ。まさかこんな小さな女の子に沈められたところを見られるとは。よし、あとで教えてやろう。
「おっと、そろそろホームルームの時間じゃーないか」
と、教室に戻ろうとしたその時――その時だった。
なんとタイミングの悪いことに、用を足したくなってしまった。がしかし、もう先生がやってくるはず、さすがに今行ったら間に合わないだろう。けれども、ここで我慢して、炎症なんかを起こしてしまって、それが思いのほかひどく急きょ入院することになってしまって、そこで精密検査をしたところなんと悪性の腫瘍が見つかり「残された時間はもうほとんどないでしょう」なんて宣告された時にはたまったもんじゃない。
「ふぅ……仕方ない」
自分のクラスに向かおうとしていた足を止め、俺は方向転換し、トイレに向かうことにした。途中、立花が体を丸めながら倒れて、しとしとと泣いていた。きっと何か大切なもの失ってしまったのだろう。そっとしておいた。
「かっちゃん! どこ行くの! もう先生来るんだから!」
風深が両手を腰に当てて立ちはだかった。その姿がより彼女のその幼児体型を強調してしまうとはなんと言う皮肉だろうか。
「どくんだ、風深。男には、たとえ何かを犠牲にしても、為さねばならない事があるんだ」
「そうはさせないわ! どうせ保健室とかにでも行ってサボるつもりなんでしょ!」
これは心外だ。彼女の中では俺はそんなに素行が悪いという印象になってしまったのか。
「違う、俺はいつ来るかもしれない体調を崩した生徒のために、あらかじめ床を温めておいてやっているのだ」
「今時そんなことして喜んでくれるちょんまげなんかいないわよ!」
「冗談に決まってんだろ。トイレだよトイレ」
「……本当?」
風深はまだ疑惑のまなざしを向けている。
「なんならついてくるか?」
「ば、ばかっ!」
「はっはっは、これくらいで動揺しやがって。ミルキーハートの純情乙女かお前は」
俺が笑うと、風深また真っ赤になりながら、体を小刻みに震わせた。まったくもっていじりがいのある幼馴染だ。
「ふん! 私は知らないから!」
リンゴのような顔であっかんベーをしながら、風深は教室のほうに走って行った。
「あ、お~い、立花はこのままなのか~……まぁいいか」
俺は足早にトイレへと向うこととする。
途中風深という妨害がありながらも、俺は無事目的を達成することができ、その達成感に俺の心は満ち満ちている……と思いきや、何やら腹に異変を感じる、まるで虫がうごめくような……もしかしたら、何か重大な疾患を患ってしまったかもしれない。
これもまた仕方なしだ、とりあえずついでに保健室にも行っておこうと思う。
俺は意気揚々と反対側の校舎の四階にある保健室まで行くと、ノックをして扉を開けた。
こちらに振り返った篠守先生は、俺を見ると何故か呆れたように、やれやれと言いたげに頭を振った。先生のポニーテールがふわりと舞う。
「穂結君、今はホームルームの時間ではないのですか?」
「そんな、ここは弱った生徒の駆け込み寺でしょう。そんな嫌そうな顔して迎えないでくださいよ。それに理由ならちゃんとありますよ。ほら、俺のおなか、なんだかおかしいんですよ。まるで虫がうごめいている感じ」
「それはね、単におなかが減っているのよ」
なんと、先生は診察をするまでもなく俺の異常の正体を見抜いてしまった。それはもはや神の領域ではなかろうか?
「まぁ、友達思いなところは大いに結構なのだけれどね」
――――――――――くすっ。
唐突に、保健室の奥から聞こえてくる小さな笑い声。澄んだその声はこの部屋に響き渡り消えていく。
「その声は。やっと来たのか、この放任不良生徒め」
「その声は。やっぱ来てたか、この公認不登校生め」
長方形をした保健室は入って目の前に先生と先生の机、右側に衝立を挟んで休息用のベッドというレイアウト。だがしかし、先生の机の奥には衝立とカーテンで区切られ隠された、そしてその先にはこちらからは見えない、見えないようになっている空間がある。
仕切りに仕切られ、空間から切り離された空間。
その空間は、やつのために、それだけのために存在している。
どちらかと言えば、俺にはこっちの方が梶谷よりそれっぽく見えたりもするのだが。
「不登校が認められるのはそれだけの理由があるということだ。それに厳密には不登校ではない。現に私はここにいる」
その向こう側から届く声には確固たる自信も付随している。
「そんなの知るか。教育機関は常に生徒に対し公平にあるべきなのだ。だからつまり、今ここに俺がいても叱られる謂れはないのだ」
「何を言う。お前はどうせ私がいなくともここに来るだろうが」
「仮定の話をしても仕方がない。お前はここにいるのだから、俺はここにいて良いのだ」
俺は胸を張り声を大にして言い返してやった。
「そーかそーか、分かったからとりあえずこっちに来い」
それに対してあいつはまるで子供たしなめるような声だった。
俺は呆れを通り越して笑っている先生の横を通り過ぎ、衝立と衝立の隙間を通り、カーテンをくぐり、その空間に足を踏み入れた。
そこには、ベッドが一つと、小さな丸いテーブルとイスと、ちょっと長めのソファが一つずつ。何が入っているか分からない箪笥の上には全くもって判読不明かつ雑多な本がずらりと並ぶ不思議な本棚。
それがこいつの空間、こいつの城、こいつの要塞、こいつの心の壁の中。
ベッドのシーツや掛布団は本来、保健室の象徴ともいえる、清潔さを主張する純白であるはずなのだけれど、ここだけは――おそらくこいつの趣味で――青空のような水色になっている。
そしてそいつは、ベッドの上で体だけを起こした状態で待っていた。
異質でありながら――もとい異質であるが故に、まるでこの空間の一部のような一切の違和感を感じさせない少女。胸のあたりまである赤茶色の長い髪の毛は首の後ろで二股に分かれて体の前に出されていて、それぞれこれまた空みたいな青色のゴムで結われている。前髪は目にかかるかかからないか程の長さで横に一直線。その前髪の下の目は大きく、鋭い。切れ長ともいうのかもしれないその目、その鋭さはとても威圧的な感じだけど、それ以外に、とても不思議な光を感じる。まるでその光は、なんでもかんでも見透かしているかのようだ。
「なんだ、寝てたのか?」
そいつ――間城崎暁は、今日はミカンのような橙色に水玉模様があるパジャマを着ていた。
いつも通り制服はカーテンのサッシにハンガーでかかっている。しわ一つない、ほとんど新品同様の状態。
「あぁ、でもどうにもやかましい声が聞こえてきてな、すっかり目が覚めた」
「言ってくれるね~、俺が来てほんとはうれしいくせに」
「うぬぼれるなよ。お前がここに通うのは、お前が私に会いたいからだろう?」
け~なんとまあよくもそんなことを言えたもんだなおい。
「どうなんだ? そうなんだろう?」
はっ、まさか――と突っ張ってもいいのだけれど、ここは大人の対応をしてやろう。
「へいへい、そうですそうですそうですとも、わたくし穂結は、麗しの姫様に一目お目にかかりたく参上している次第でございます」
俺は恭しくお辞儀をした。
「よろしい。お前が来るから、私はここに来るのだ」
「へへー、ありがたき幸せ」
たく、素直じゃないんだから、こいつは。
「あ、もちろん先生にも会いたいからですよ」
「それはどうも、気を遣っていただいて光栄ですこと」
先生がお盆にお茶とオレンジジュースとお菓子をのせて入って来た。
「あぁ、そんな、お気遣いなく」
「と言いながら、その手はどうしてお菓子に伸びているのかしら」
あらまいつの間に。
「なんと! こいつめ! いやしいやつだ。すみません先生、あとで厳しく言い聞かせておきます」
俺は右手を叩きながら陳謝した。ついでに左手でそのお盆を受け取り、右手が持っているせんべいを口に運ぶ。
「ごっゆっくり――とは言えないわね。ほどほどで教室に戻りなさいよ?」
「ふぁってんしょうち!」
「穂結、口に物を含みながらしゃべらない」
「ふぁいよ」
俺はお盆をベッドに備え付けられている方のテーブルの上に置いて、オレンジジュースを間城崎に渡した。間城崎はそれをご飯を長時間のお預け状態から解き放たれたワンちゃんのごとき素早さでひったくるように受け取ると、それはそれは恍惚の表情を顔にだらしなく浮かべながらおいしそうに飲んだ。
「――ぷはー! やっぱりこれだね~」
おっさんか。
「あ、こら見ろ、こぼしてんじゃんねーか」
俺の指さす先、間城崎のパジャマに、一見同じ色で分からないが、よく見るとオレンジジュースの水玉模様ができていた。
「あぁ、しまった。私としたことが……」
と言って、間城崎は即座にパジャマの前のボタンをはずし始めた。俺は二枚目のせんべいに手を伸ばしながらその様子を見ていた。
すると最後の一個のボタンを残したところで、間城崎は不思議そうに俺を見つめてきた。
「……ん? なんだ?」
「いや、お前はここで何をしている?」
なんと、お前は鶏並みのお頭なのか? いや、こいつの場合一歩たりとも動いていないのだから、さらにひどい。
「何ってお前、せっかく会いに来てやった人にそれはないだろう」
「違う、そうじゃなくて。私が言いたいのは、私が今行っていることに関連して、お前は自分で気が付いて行動しなくてはならないことがあるでしょう? ということだ」
「んー、さてなんだろう?」
俺は少し考えて、思いついた。
「なんだ、手伝ってほしかったのか?」
それならそうと、早く言えばいいのに。何故あえてそんな遠回しに、分かり辛く、しかし理解されることがさも当然のことの如く話すのだろうか。これだから頭の良いやつってのは良くない。あえて難しい表現にするのは、彼らの定められた宿命なのか?
「……そっか、もういい、なんでもない、お前が良いならそれで良い」
そう言って間城崎は最後のボタンを外してパジャマを脱いだ。
さて、全国の男性諸君の誰もが気になるそこんところをお教えしよう。
……まぁ、おそらく日本女性の平均だと思う。あるっちゃ、ある。いや、割合ある方? しまった、誰を比較対象に置くべきかを考えておくべきだった。
だが特筆すべきは、その病的なまでの肌の白さだ。まるで雪のよう、とはまぁ月並みだが、まさしくそれ。黄色人種であるところの日本人からでは到底できるはずのない眩しい輝きを放っている。そこに、すべての光を吸い込んだかのような深い深い漆黒の――下着がついている。
そのあまりに極端なコントラストはどうも不自然だ。
というか高校生で黒い下着ってどうなの?
「……しっかし、お前は男がいるってのに、平気で脱いじゃうんだな。あれか? 俺を男として認識してないってことか?」
慣れとはいえ、それは男に生まれた身としてはショックではある。
でも何故か、間城崎もショックを受けているように見える。
「…………」
ハトが豆鉄砲で撃たれた、まさにそんな顔だ。さっきまでの気品あふれる顔とはかけ離れた表情。
こいつ、実は意外と表情豊かなところがあるんだよね。
「もはや、無言絶句」
「何それ? 漢詩の新ジャンル?」
「いや、あえて言うならお前の新境地」
「んん? さっぱり分からない」
でもなんだか、『新境地』って語の響きは……悪い気がしないな。
はにかむ俺の顔に、間城崎は思いっきりパジャマを投げつけた。痛くはないが、まだ温かくて、間城崎の香りがした。女子高生の脱ぎたてパジャマ、ゲットだぜ。
「……もし『これ、そっちの方面の方々になら割と高値で売れるんじゃないか?』なんてほんの少しでも考えたなら、私はしかるべき行動をとるぞ」
間城崎は非常に物知りだ。もちろん、俺にはそう言うのが好きそうな友達がいることも、とっくに承知なのだろう。
「ほう、それはぜひ聞いてみたいね。お前に何ができるというのかな?」
そう言いながら俺はそのパジャマを小さく丸めてわきに挟んだ。
「確かに、私のこの細い腕ではお前を組み伏すことはできない。だがしかし、考えてみろ? この状況をよく見て、考えてみろ? もし私が今ここで声を張り上げて助けを求めたら、その声を聞いて駆けつけてきた何も知らない人がこの状況を見たら、どう思うのかな?」
保健室。先生が衝立とカーテンの向こうにいるとはいえ、区切られた狭い空間。男女が二人。女は上半身が下着だけ。女の上着を持っている男……
考えるまでもなかった。いやな汗が額から頬を伝って床に落ちる。
「……え、冤罪だ。なんにもやっちゃいない」
「その言葉を、誰が信じる?」
こんなことを自分から言ってしまうのは自慢になってしまうかもしれないけれど、俺は素行品行に関しては一家言持ちだ。今までだって先生方のお冠に触れたことなどほとんどない。そんな俺がまさか、こんな卑劣極まった行為でおとしいれられるものか……と、胸を張って言えないのはさて何故だろう? 特別何かしたわけではないはずだけれど。この状況で俺が勝てる見込みがないのは、はて誰のせい?
「まぁ、無理だろう」
間城崎はとても意地悪そうに笑った。でも俺にはどうしてかこいつがとてもご立腹に見える。
「……し、仕方がない、何が望みだ?」
その時、間城崎の口角がこれ以上にないほど上がった。まるでこの言葉を待っていました、と言わんばかりに。
「まず手始めに――」
間城崎はベッドから片方の足を出した。パジャマの先から出ているのは、細くて、真っ白で、ろうそくみたいな足だった。
「この足の下に頭を入れて『私は生きていることさえおこがましい地球上生物序列最下層に位置し底辺を汚す愚物です』と頭を床にこすり付けながら言った後そのパジャマを洗って干して地球上すべての生物に謝罪して死ね」
「手始めどころか最期!?」
間城崎はその真っ白な手で俺を指さした。
「ならば死ね。刹那的に」
「お願いだから生きさせて! 底辺でもいいから天寿を全うしたい!」
「お前はもう、死んでいる。社会的に」
「知らぬ間にマイナスイメージが横行していただと!?」
「お前はもう、いらない。個人的に」
「シンプルなだけに残酷!」
「私はもう、飽きている。総合的に」
「一片の余地もない!?」
「当たり前だ。誰がこれ以上このような茶番に付き合ってたまるか。私までそんな風に思われる。客観的に」
「何がお前はそこまで歪ませてしまったんだ……というかなんなんだその倒置法」
「マイブームだが、言った通りもう飽きた」
「相変わらずキャラがブレブレだな。……まぁいいや、ちょっとこれ洗ってくるよ」
俺は終わりが見えたこの茶番に一区切りをつけることにした。
「じーっ」
間城崎はあからさまな疑いの目でこちらを見ている、仲間にしますか?
断じて断る。
「へいまだ何か?」
「……ちゃんと手洗いするんだぞ?」
「へ~へ~しますしますしますとも。間城崎様の汗と涙と少量のオレンジジュースが染み込んだこのパジャマを、私は懇切丁寧にこの両手でもみもみもみ洗いしますとも」
俺は間城崎がまた何か言いたげな顔をしているのでそそくさとその場を後にした。
「先生、ちょっとこれ洗ってきます」
「お疲れ様。洗剤はいるでしょう」
そう言うと先生は席を立って、机の隣にあるロッカーから洗剤を一箱取り出して俺に渡した。
さすがに保健室と言っても、洗剤まで常備しているものだろうか。はたまた、どこぞのわがままパジャマの言いつけか。先生も苦労しているみたいだ。
「おい、お前が悠長にしている間、私は上半身裸のまま誰かに見られないかとひやひやしていなければならないのだよ? 分かっているのかな? 早くしてくれたまえよ」
衝立の向こう側から厭味ったらしい声が聞こえた。そもそも誰のせいだと思っているんだろうかね。とういうか、わざわざベットから起き上がって待っていないでベッドに入っていればいいだろうが。
それかそのピッカピカの制服に袖を通してみるとか……ね。
とにかく、これ以上何か言われる前に――と、俺は保健室を後にした。
校舎と体育館をつなぐ通路を通り、体育館の壁沿いの通路をつたって体育館の隣、校庭との間に立っている建物に向かう。この四辺の壁のうち手前と奥の二辺を取っ払った屋根つきの建物の内には、部活動をする生徒のために水道と、その隣に洗濯機が二台用意されている。この建物のさらに奥にある――今度はしっかり四方に壁と、ドアには鍵まである――建物が男子シャワー室、それに隣接するドアがいっぱいついた武骨な二階建てコンクリートの建物が運動部の部室になっているらしい。もちろん洗濯機等の施設は部活動に参加するしないに関わらず使用は自由だ。
ちなみに女子シャワー室はここから見て部室棟の右側、体育館と平行に建てられている女子専用部室棟内に作られているらしいのであしからず。誰にって話しだが。
放課後にここで一生懸命部活動をする生徒の汗と涙と泥んこが付いたユニホームをせっせと洗うマネージャーのけなげな姿を何度か拝見したことがある。それだけのために部活動に参加する価値はあると思えた。まぁ、思っただけだがね。
もちろんこんな時間に選択をしているマネージャーはいない。俺は一番近い洗濯機に持っていたパジャマを突っ込んで、洗剤を少量入れて、スイッチをプッシュ、終了。
「さて、と……」
さて暇だ、時間が余った、やることない、こりゃ大変だ。教室に行こうか? いやそろそろホームルームも終わるだろうし、今行ったところで怒られるだけだし、わざわざ怒られに行くのは時間はつぶせるけど面白くない。それにこのままパジャマを置いてどこかに行くわけにはいかないか――てことは、何? 俺この洗濯が終わるまでずっとここにいなきゃいけないんじゃん。うわーどーしよーどーしよー………………うん、ちょっと、一休みでもしようかな。
洗濯機のすぐ近くは音がうるさいからちょっと離れたところがいいなと、辺りを見渡してみた。……と、ちょうどいいことに、少し離れたところに木造のテーブルと二脚の長いベンチのセットがあるじゃあないですか。
早速、そのベンチに仰向けに寝転んだ。
今頃皆は、先生からいつもとさして変わらない、登下校上での寄り道の注意やら、授業中の携帯電話の使用禁止の徹底だとか、近々行われる新入生対象の部活動説明会だとか、その他もろもろの連絡を面倒くさくも律儀に聞いているころだろう。しょうがない、それは俺たちに義務付けられていることなのだから。だがしかし、そんな中、こうしてうららかな春の日のぽかぽか陽光に包まれてベンチでコックリコックリ舟を漕いでいるこの背徳感はたまらんね~。
そうこうしているうちにまぶたが開かなくなってきた。
抵抗などと野暮な事はするまじ。
「……………………………………………………………………………………ふぉ」
は? へ? なんだ? なにが? どうした?
どうにも腹のあたりにちょうど人一人分位の自然エネルギーを感じて、安らかな彼の地から渋々俗世に舞い戻ってみれば――なんと、俺の腹の上に人が乗っているではないか。
いや驚くべきところはそこではなく――あ、いやそこも十分驚くべきなんだけれど――ここで何が優先して驚かれるべきかというと、こいつ、俺をまさに言葉通り『尻に敷いて』サンドイッチを召し上がられているのだ。
もしかすると、危うい性癖の持ち主なのだろうか。だとすればあまり関わり合いにはなりたくないな。少なくとも俺にはそっちの気はない。
だがしかし……よく見てみれば彼女はそういう意味意図で俺の上にいるのではないということが分かる。その判断材料とは何かと聞かれれば、それはそう、こいつがよもや俺という男子生徒の腹の上でサンドイッチを食べているとは夢にも思っていないだろうことを容易に察することが出来るからである。
何故こいつは気が付いていないと分かるか、ですって?
まずその大部分は俺のせいであると言うこともあるが……何と、こいつ、さっきから一度も目を開いていない――というか、開いているのかどうかも分からないのだ。
どういう意味かよく分からないって?
よくぞ聞いてくれた、驚くなかれ――とは言わない。むしろ全身全霊で驚いてくれたまえ。
そいつの両目は――真っ白な包帯で巻かれていたのであった。
2013/10/15 副題誤字修正
2013/10/15 誤字修正
2013/10/15 誤字修正
2013/10/19 誤字修正