ネコを撫でるあなたに、わたしは恋をした
天気の良い休日の昼下がり。
リリアはひとりで、貴族学院内の大庭園に来ていた。
貴族学院がある副都は自然豊かで、学院内には巨大な庭園があった。
庭園は、噴水や売店がある人の多いエリアと、木々や小川がある自然豊かなエリアに分けられていた。
リリアは売店などには目もくれず、奥の方に向かって歩いていく。
「今日もネコちゃんたちいるかな」
ぽかぽかと陽光が降り注ぐ庭園には、柔らかい風が流れている。
リリアの肩で揃えた髪が、首元で踊るように揺れた。
汗が滲んだ首筋に、風の感触が心地よかった。
庭園の奥の方にあるベンチは、リリアのお気に入りの場所だった。
天気の良い日には芝生の上で猫たちが日向ぼっこをしており、リリアはベンチに座って猫の絵を描くのが好きだった。
肩から下げたカバンを揺らしながら、庭園の中を足取り軽く進んでいく。
カバンに引っ掛けた白猫のぬいぐるみが揺れて鈴の音を鳴らした。
リリアはぬいぐるみに視線をやりながら、思わず微笑んだ。
カバンの中にはスケッチブックとお気に入りの文房具が入っている。
今日はどんな子がいるかな? そんなことを考えながら、庭園内の並木道を進んだ。
もうすぐいつもの場所だ、そう思いながらリリアは角を曲がったが、そこで「あ」と声を漏らして足を止めた。
お気に入りのベンチの前に、体格の良い男が片膝をついていた。
男はさっぱりとした短髪で精悍な顔つきをしている。
運動中に休憩しているのだろうか。男は簡素な服装に、首から布を垂らしていた。
「……誰かいる……どうしよう、他の場所を探そうかな……?」
リリアがベンチに向かおうか迷っていると、男の元に猫がゆっくりと近寄った。
男は嬉しそうにはにかむと、猫を優しく撫でた。
さらに何匹かの猫が男の周りに集まってくると、男は座り込んで順に撫でていく。
先ほどまでのキリッとした表情は、猫に囲まれて蕩け切っていた。
猫たちに向ける男の表情に、リリアは不思議と目を奪われた。
思い切って話しかけてみようか、そう思ってリリアが一歩踏み出したとき、男はリリアに気づかないままゆっくりと立ち上がった。
男は大きく身体を伸ばすと、リリアとは反対側に向かって駆け出していった。
並木道を走る男の動きは俊敏で、すぐに見えなくなってしまう。
「ふふ、なんだかネコちゃんみたい」
リリアは微笑むと、ゆっくりとベンチに向かって歩き出した。
――――――――――――――
始業前。
リリアはカバンを肩から下げて学舎に向かっていた。
朝の部活動に参加している学生が多く、寮から続く道は空いており歩きやすかった。
リリアが所属する手芸部は夕方の活動のみのため、朝はゆったりとした時間を過ごすことができた。
やがて学院内の大通りが見えてきた。
女子寮と男子寮は大通りを挟んで反対側に位置しており、それぞれの道が、同じ地点で大通りに合流している。
大通りに近づくと、反対側から歩いてくる男の顔が目に留まった。
「あ」
休日に庭園で見た男だとすぐに気づいた。
リリアは無意識に早歩きになった。
大通りに入ると、ちょうど男の横に並んで歩くことができた。
おはよう。そう言おうとするが、言葉が口から出てこない。頭の中では、休日に庭園で見かけて……と言葉が続くが、どうしても話しかけることができない。
ふと顔が熱くなったように感じて、頬に片手を触れた。
結局話しかけることができないまま学舎に到着してしまった。
学舎に入ると男は階段を上って行ってしまう。
リリアは女子トイレに入ると、鏡に目を向けた。鏡の中の自分の頬は、ほんのりと赤く染まっていた。
「どうしちゃったのかしら……」
リリアはひとりつぶやいた。
――――――――――――――
翌日も、リリアは同じ時間に寮を出た。
今日も会えるだろうか? 少しだけワクワクしながら、大通りに向かって歩みを進める。
肩にかけたカバンを手に持ち替えて、白猫のぬいぐるみを指で弾いた。
りん、と鈴の音が鳴る。
大通りに近づくと、リリアは歩調を緩めてゆっくりと歩いた。顔は前を向けて、不自然にならないように男を探した。
「いた」声にならない声でつぶやいた。
人の邪魔にならないように後ろを気にしながら、歩く速度を調節して大通りに出ると、学舎側に足を向けた。
「おはよう」そう声をかけてみるつもりだったのに、またしても声が出せず、男の顔を見ることもできなかった。
よく考えたら、面識がない自分が急に話しかけても困らせてしまうかもしれない。ちゃんと作戦を練ろう。
視界の端で男の方に意識を向けながら、その歩く速度に合わせて、少しだけ早歩きで進んだ。
その時、リリアは小さな段差につまづいてつんのめった。
「あっ」
思わず手を前に出す。
なんとかバランスをとって転ぶことは防げたが、カバンから手を離してしまった。地面に落ちたカバンから手帳やペンケースがこぼれ落ちる。
顔が熱くなる。
慌ててカバンを拾うと、同時に横から手が伸びてきて手帳やペンケースが拾い上げられた。
「大丈夫?」
「あ、はい……」
「あ、ネコペン」
男は手の中のペンケースを見ると嬉しそうに笑った。
ペンケースの隙間から、白猫をモチーフにしたペンが顔を覗かせていた。
男の精悍な顔つきに幼さが浮かぶ。リリアはつい男の顔を見つめてしまう。
「この白ネコのペン可愛いね」
「ありがとう、お気に入りなの」
「ほら見て」
男は自分のカバンに手を入れると、1本のペンを取り出した。
ペンの先っぽには、可愛らしい猫の人形がくっついていた。猫は座りながら手招きするような姿勢をとっている。
「あ、ネコペン」リリアは顔を赤くしたまま、思わず笑顔を作った。
男と視線が合うと、恥ずかしくなってすぐに俯いてしまう。
「うん、ネコペン。トラ柄で可愛いでしょ?」男が楽しげにペンを軽く揺らした。
リリアは視線を合わせられないまま、「可愛い」と何度も頷いた。
そのまま俯きながら、男の顔を見ずに手帳とペンケースを受け取る。
「あ、ありがとうございます……」
「いえいえ、じゃあ気をつけて」
男はそれだけ言うと、学舎の方に歩いていった。
リリアはしばらくの間、道の端でカバンを胸に抱いたままぼうっと立っていた。
肩を叩かれてはっと振り返る。
「おはよう! 時間やばいよー」
「あ、おはよう! うん!」
走っていくクラスメートの背を見ながらリリアも駆け出した。
――――――――――――――
「おはよう」
翌日、リリアは思い切って挨拶することに成功していた。
隣を歩いていた男は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに笑顔になって挨拶を返した。
「おはよう」
「あの、わたしはリリア。リリア・ローゼルといいます。その……ちゃんと昨日のお礼が言いたくて。ありがとう」
リリアの言葉に男は軽く頭を下げた。
「これはどうもご丁寧に。俺はエリオット・ベルクレアです。気にしないでよ、可愛いネコペンも見れたし」
エリオットがおどけたように笑うと、リリアも笑顔になった。
ふたりで並んで歩き出すと、リリアのカバンの白猫が、りんと鈴の音を鳴らした。
エリオットがリリアの方をチラチラと伺っている。
「あの、どうしたの?」
「それいいな」
「え?」
エリオットがリリアのカバンを指差した。
「カバンについてるやつ。首のところに鈴がついてるんだね」
リリアは腕を動かしてカバンを揺らすと、再び鈴の音が聞こえる。
「へへ、お気に入りなの」
「俺もネコが好きでさ、ペン以外にもいろいろネコグッズを持ってるよ」
エリオットはカバンを持ち上げると、軽く開いて中を見せた。
カバンの中には猫の巾着など、いくつかのネコグッズが入っていた。
「わあ、いいなあ」
カバンを覗き込んだリリアは、満面の笑みを浮かべた。
「いいでしょ。休みの日にちょっとずつ買い集めていて」
「わたしもたまに行くよ。ひだまり猫ハウスっていうお店なんだけど」
「あ、俺もそこによく行くよ!」
「そうなんだ! もしかしたらすれ違ってるかもね」
リリアは店に行ったときのことを思い出そうと、視線を上に向けた。
「あぁ……」エリオットは困ったように笑った。
「ん?」
「ひだまり猫ハウスって小さい店だからさ」
エリオットは頬をかいて恥ずかしそうな顔をした。
「俺さ、この顔でこのガタイだから、店や他のお客さんに迷惑かけないように、念のため早朝か閉店間際にしか行ってないから……」
リリアは思わず吹き出した。
「なんだよー」エリオットは口を尖らせた。
「気にしすぎじゃないかな。優しいんだね」
「優しいってわけじゃあないと思うけど」
エリオットの言葉を聞きながら、リリアは休日の庭園を思い出していた。
猫に向けたエリオットの表情を思い出すと、温かい気持ちになった。
「ううん、とっても素敵だと思う」
「なんか照れるな……」
「そうだ、もしよかったら、今度のお休みに一緒に行く?」
「いいの?」エリオットは嬉しそうに身体を揺らした。「あ、でも、混んでるときに行って大丈夫かな」
「いいよ。わたしに付き合わされてる感じにしてさ」
「それは無理かも……」
「え」
「店主によく言われるんだよ。客の中で俺が誰よりも楽しそうに買い物するって」
リリアはエリオットの言葉に笑い声をあげた。
――――――――――――――
週末、ふたりはひだまり猫ハウスに来ていた。
「リリアは何を買うの?」
「わたしは枕カバーを買おうかな。ほら、あそこにある白ネコの枕カバー。あとは文房具とか」
「いいねいいね」
「エリオットは?」
「俺も文房具と、あとは運動するときに着れるシャツが欲しくて」
エリオットがシャツの棚を指差した。
壁に展示品のシャツが掛けられている。シャツの腰のあたりには、横向きに伸びをする猫のシルエットが控えめに入っている。全体の配色も相まってシンプルながらおしゃれだった。
「いいね。あ……でも、大きいサイズがないみたいだよ……」
「うん、実は前に店主に相談してて、特注か取り寄せか確認するって言われてるんだ……ちょっと聞いてくる」
「あ、うん」
エリオットは巨体を縮めて、他の客たちの邪魔にならないように腰を低くして受付に歩いていく。
そんな後ろ姿を、リリアは笑顔で見送った。
しばらく商品を見て回ったリリアは、商品カゴを手に受付に向かった。
「いらっしゃい、いつもありがとう」
「はい、お会計お願いします」
「あなた、エリオットのお友達なの?」
「え? はい、そうですが……」
「あの子は目立つから印象に残ってるんだけど、お昼の時間に珍しいと思って」
「あ、その」リリアは言うべきか迷ったが、エリオットが迷惑をかけないように時間を選んでいることを伝えた。
「あー」
店主は優しげに微笑んだ。
「そうなんだ。言っといてくれる? 遠慮しないでいつでも来なさいって」
「はい! 喜ぶと思います」
リリアは大きく頷いた。
「いっぱい買っちゃった」
リリアは紙袋を抱えて、幸せそうにため息をついた。
「ほんとにな」
エリオットも紙袋を手に満面の笑顔を見せた。
「ふふ」
思わずリリアは笑い声を漏らした。
「どうしたの?」
「ううん、言ったとおりだったね」
リリアの言葉に、エリオットは首を傾げた。
「商品を選んでるとき、お店の中で一番笑顔だったよ」
「あ」
エリオットは少しだけ顔を赤くして、頭をガリガリとかいた。
「そういえば」リリアはエリオットの顔を見た。「会計の時にさ」
「うん」
「店主さんが、好きな時間に来ていいって言ってたよ」
「え」
エリオットは目を丸くした。
「もしかして、俺が人が少ないときに店に来てることを」
「ごめん」リリアは舌を出した。「言っちゃった」
「ええ、ほんとかよ」エリオットはのけぞって呻き声をあげた。
「恥ずかしがらないでいいと思うけど」
「そうかな」
「うん、でもお店の人も言ってくれてるし、好きなときに来れるね」
「あぁ、その……さ」
「うん?」
「そうは言っても、やっぱりひとりだと混んでる時は居づらいからさ」
「うん」
「次も一緒に来てくれよ」
「あ……うん。わたしも一緒に買い物したい」
ふたりは視線を合わせずに、学院に向かって歩き出した。
「やっぱりさ」エリオットは少しだけ大きい声を出した。「俺みたいなのは、女の子に付き合わされてる感じで店にいた方が自然だし」
「あの笑顔で?」すかさずリリアは聞き返した。
「この笑顔で」エリオットは真剣な表情を作って、自分の顔を指差した。
ふたりは顔を見合わせて、笑い合った。
「わたしさ、卒業したら、ひだまり猫ハウスみたいなお店を持ちたいんだ」
「店を?」
「うん。自分でグッズを作る方でもいいんだけど、やっぱり店に来ると憧れちゃって」
「そうなんだ。いい夢だな」
「だからいろいろ経営のこととか勉強してるの」
「そっか、頑張ってるんだ……リリアは家からいろいろ言われないの? その、家督とか縁談とか」
「うん。わたしの家は兄弟が多くて、わたしは末娘だからね。自由にしなさいって言われてるよ。エリオットは?」
「俺は一応次期当主ってことになってるからね。うちの家は貿易とかにも関わってるし、兄弟それぞれに役割を言われてる。国外に出て、いろいろ学んだりもしないといけないんだ」
「そっかぁ……大変だね」
少しの沈黙の後、エリオットは紙袋からシャツを取り出した。
「まあとりあえず今日のところはそういうのは全部忘れて、このネコシャツを着てゆっくり癒されよっと」
「いいね。わたしもネコ枕カバーでゆっくり寝ようっと」
――――――――――――――
リリアは手芸部の部室で、作業に勤しんでいた。
「リリアちゃん」
「先輩」
「またネコのぬいぐるみにするの?」
「そうなんです。ネコちゃん可愛いです」
リリアは作りかけのぬいぐるみを先輩に見せようと動かすが、誤って針を手に刺してしまう。
「あっ」
「あぁ! ごめん! 作業中に話しかけて」
先輩は申し訳なさそうな顔をしながら、救急箱が置いてある棚に向かって駆け出した。
「いえ、大丈夫です」
リリアは笑顔を作って、針山に針を刺す。
「ごめんね。ほら、手を見せて」
「はい」
先輩はリリアの手を取ると、清潔な布で血を拭き取り薬をつけた。
「それにしてもネコ好きだね。今度はトラ柄のネコかぁ。小ぶりだけどこれもカバンとかに付けれるようにするの?」
「ええ、そうします。上手にできるといいんですけど……」
「大丈夫だよ。リリアちゃん上手だもん」
「ありがとうございます」
リリアが作業に戻ると、先輩も隣で自分の作品を取り出して作業を始めた。
ふたりが黙って作業を始めると、少し離れた席からため息のような声が聞こえてきた。
「ねえ、そういえば聞いた? 生徒会長のリシェル先輩、公爵家の令息と婚約ですって」
「うん聞いてるよ。あ、これは知ってる? ベルクレアの令息も婚約するらしいわよ。婿に行くって」
リリアははっと息を呑んだ。
手を止めて、手元のトラ猫のぬいぐるみをじっと見つめる。
「リリアちゃん?」
先輩に声をかけられて、リリアは顔を上げた。
「大丈夫? やっぱり痛む?」
「あ、いえ、大丈夫です」
リリアは無理に笑顔を浮かべると、作業に戻った。
その後も噂話は続いていたようだが、リリアの耳には入らない。
「お兄さんは国外留学で、弟さんの方が婚約だってね」
「みんな、いろいろと大変だね」
リリアはただただ無心で作業に没頭していた。
――――――――――――――
週末のお昼。
リリアは大庭園のベンチでスケッチブックを手に絵を描いていた。
猫たちは芝生の上でゆったりと日向ぼっこをしている。
スケッチブックを膝の上に置くと、ふぅ、と小さく息を吐いた。
リリアは傍のカバンから、完成したトラ猫のぬいぐるみを取り出した。
両手で包んでむにむにと優しく押しつぶすと、手の中のトラ猫が笑ったように表情を変えた。
ため息が漏れる。
「婚約かぁ……貴族だもんね」
エリオットのペンをイメージして作ったトラ猫のぬいぐるみを眺めながら、再びため息をついた。
しばらくじっとしていると、膝のスケッチブックにぽとりと水滴が落ちた。
「雨?」
上を向くが、空は雲ひとつなく、青色が広がっている。
「あ」
リリアは自分の頬を触ると、涙で濡れていることに気づいた。
ポケットからハンカチを取り出して、涙を拭いた。
「そっかぁ……」
背もたれに身体を預けて顔を上に向けると、腕で目を覆った。
「好きだったんだ……」
しばらくそうしていると、やがて涙が止まった。
リリアは腕を下ろして青空を見ると、ほぅっと息を吐いた。
その時、靴にカリカリと擦れるような感覚があった。
下に視線を向けると、トラ柄の猫がリリアの顔を見ながら「にゃあ」と鳴いた。
リリアは微笑みながらトラ猫の頭を撫でた。
リリアに撫でられていたトラ猫はやがて満足したのか、身体をぶるりと震わせるとリリアから離れていく。
トラ猫は近くで寝ている白猫に近づくと、体当たりをするように横に寝転んだ。
白猫は迷惑そうに頭を上げると、トラ猫の頭をペシリと叩いた。
トラ猫は意に介さずにごろりと寝返りを打つと、目を閉じて寝てしまう。
白猫は大きくあくびをすると、再びうたた寝に戻った。
猫たちの様子を眺めていたリリアは「わたしもネコちゃんになりたいな」と呟いた。
リリアは手の中のぬいぐるみを見た。
「渡したら迷惑かな……」
エリオットの笑顔を思い浮かべる。
「ううん、まだただの友だちだもん。友だちとしてプレゼントして、お祝いしよう」
リリアは頷くと、ぬいぐるみやスケッチブックをカバンにしまい、寮に戻るために歩き出した。
――――――――――――――
「おはよう」
学院の大通りで、リリアはエリオットと挨拶を交わした。
ふたりは特に約束はしていなかったが、毎朝大通りを一緒に歩くのが日課になっていた。
「聞いたよ、家のこと」リリアは俯きながら、切り出した。
「え……そっか」
「うん、もう前みたいにひだまり猫ハウスにも行けないよね」
「そうだね。寂しいけど」
リリアは小さく息を吐いた。お祝いすると決めたのに……これじゃあダメだ、と自分に言い聞かせた。
一瞬だけぎゅっと目を瞑ると、笑顔を作ってエリオットを見た。
「婚約おめでとう」
「うん、ありがとう……あいつも婚約かぁ」
「え?」
「ん? 弟の婚約のことだよね? 婿入りが決まったんだけど」
「え……あ、確かに婿入りって言ってたかも」
「……俺のことだと思ったの? 俺は次期当主だから婿入りはできないけど。あれ? 言ってなかったっけ? 兄弟それぞれに役割が」
顔が熱くなる。リリアは鏡を見なくても自分の顔が赤くなっていることがわかった。
思わずエリオットの腕をペシリと叩いた。
「そこまで聞いてないよ! ちゃんと言っておいてよ!」
エリオットは叩かれた腕を押さえて大袈裟に痛がった。
「もう、なんだ……あれ? でもじゃあ、ひだまり猫ハウスに行けなくなるっていうのは……」
「ああ、それはさ……」エリオットが寂しげに微笑んだ。
「うん」
「俺、次の春から留学することが決まったんだ。前々から話は出てたんだけど、最終学年は留学するって正式に決まって」
「あぁ……」リリアはため息交じりにつぶやく。「そういうことかぁ……」
「でもさ」エリオットが明るい声を出した。「春まではこっちだからさ、また今度ひだまり猫ハウスに行こうよ」
リリアはエリオットの顔を見ると、何度か頷いた。リリアの動きに合わせてカバンが揺れると、りんと鈴の音が鳴った。
「あ、そういえば」リリアがカバンを肩から下ろして、中から小包を取り出した。
「これは?」
「もしよかったら……開けてみて」
エリオットは包みを開くと、笑顔でトラ猫のぬいぐるみを取り出した。
エリオットの手の動きに合わせて、トラ猫の首についた鈴が音を立てた。
「トラネコだ!」
エリオットはぬいぐるみについたひもを摘むと、嬉しそうに小さく揺らした。
「前にわたしのカバンの白ネコをいいなって言ってたから」
「すごい、もらっていいの?」
「もちろん。エリオットのペンについてるネコちゃんをイメージして作ったの」
「自分で作ったの? すごいね」エリオットは目を丸くした。「ありがとう。大事にするよ」
「うん、喜んでくれて嬉しいよ」
ふたりはすでに学舎に着いていたが、道の端に移動して立ち話を続けた。
「それにしても留学かぁ。卒業したら戻ってくるの?」
エリオットは首を振った。
「いや、親父が元気なうちに、見識を広めてこいって。あっちにうちの商会の支部もあるし、しばらくはそっちで勉強かも」
「そっか……」
「リリアはさ」エリオットは何かを言いかけるが、すぐに口を閉じた。
リリアは首を傾げてエリオットの顔を見た。
エリオットは目を閉じてしばらく黙っていたが、やがていつもの笑顔を見せた。
「リリアは、お店を持つ夢があるもんな」
「え、うん、そうだね。わたしもエリオットに負けないように頑張るよ」
「うん……」
その時、リリアの後ろから声が響いた。
「おはよう! ふたりとも時間やばいよー」
リリアのクラスメートが駆け抜けていく。
「あ、エリオット、わたしたちも行かないと」
「そうだね、じゃあまた!」
ふたりは慌てて駆け出した。
――――――――――――――
それから月日が流れて、春になった。
リリアはエリオットと買い物に出かけたりして楽しい日々を送っていたが、少しずつ別れの日が近づいてくることを思うと、胸の痛みが日に日に大きくなった。
エリオットの友だちが開催した送別会にはリリアも参加させてもらった。
寮に戻ってベッドに入ると、エリオットの笑顔で頭がいっぱいになった。リリアは白猫のカバーに包まれた枕を抱きしめて、静かに涙を流した。
そして別れの日、ふたりはリリアのお気に入りの場所で会う約束をした。
リリアは春の日差しに包まれたベンチに腰掛けていた。
手にはスケッチブックを持ち、ひとりで絵を描いていた。
横から足音が聞こえて顔を向けると、エリオットの笑顔が見えた。
「待たせてごめん」
「ううん、大丈夫だよ。ほら、ちょうど完成した」
リリアはスケッチブックをエリオットに見せた。
「うん、上手だ」
エリオットははにかむと、日向ぼっこをする猫たちの近くに腰を下ろした。
「みんな気持ちよさそうだね」
「うん」
リリアはスケッチブックを閉じると、エリオットの隣に歩み寄った。
エリオットが横に置いたカバンからハンカチを取り出して自分の横に敷いた。
リリアは「ありがとう」と言って隣に座った。
ふたりはしばらく黙ったまま、猫たちを眺めていた。
リリアは、このまま夜にならなければいいのにと思った。
「明日、出発するんだ」エリオットが静かに言った。
「うん」
「もう、この子たちにも会えないのか」
エリオットが近くで寝ていた猫の頭を優しく撫でた。
猫は一瞬だけエリオットに目を向けると、再び目を閉じた。
「エリオット、向こうに行っても身体に気をつけてね」
「うん、リリアも……」
エリオットが身体をリリアの方に向けようとすると、エリオットのカバンが倒れた。
持ち手に括り付けられていたトラ猫のぬいぐるみが揺れて、首についた鈴がりんと音を鳴らした。
リリアは鈴の音を聞くと、「ひっ」と小さく声を漏らした。涙が溢れてくるのを感じて、慌てて顔を隠した。
「ご、ごめん」袖を目に押し当てる。「こんなつもりじゃなかったのに」
「リリア」
エリオットは倒れたカバンから布を取り出すと、リリアに手渡した。
リリアは布を受け取ると、ここで初めてエリオットを見た時のことが頭をよぎった。あの時、首に垂らしていた布だろうか……次々とエリオットとの思い出が蘇っては消える。涙を止めたいのに、とめどなく溢れてきてしまう。
エリオットは何も言わず、リリアの背中を優しくさすった。
しばらくそうしていると、やがて涙が止まり、リリアは顔を上げた。
エリオットに向けて笑顔を作ると、「ごめんね」と小さく漏らした。
エリオットは首を振ると、猫たちに視線を戻した。
「あのさ、今から勝手なことを言うけど、聞いてくれるかな」
「うん」
「俺、最近留学のこともあって将来を考えることが多くてさ」
「うん……」
「そうすると、いつもリリアの顔が頭に浮かぶんだ」
リリアは「わたしもだよ」と声を出そうとするが、掠れた息が漏れるばかりで言葉にできなかった。
気づけば止めたはずの涙が再び出てくるが、今度は顔を隠さずにエリオットの顔を見つめた。
「不安に思うこともいっぱいあるけど、リリアのことを考えると元気が出てくるんだ……あと、このぬいぐるみを触ってる時とかね」
エリオットはトラ猫のぬいぐるみを撫でると、リリアに笑顔を向けた。
リリアも涙を流しながら頷き返した。
「卒業したら、俺のところにきてほしい」
リリアははっと息を呑んだ。
「俺の仕事は他国に行くことも多そうだから、ひだまり猫ハウスの店主みたいに、自分の店をじっくりと育てていくことはできないかもしれない」
リリアは小さく頷いた。
「でも例えば、商会に女性向けのグッズ部門なんかを作って、リリアに仕切ってもらっていろんな街に店を作ってもいいし……俺のネコグッズ収集は一族でも有名だし」
エリオットはそう言うと、頭をかいておどけたように笑った。すぐに真剣な表情になって、リリアの目を見つめる。
「俺は次期当主だから家を継がないといけない。でも、リリアとの将来も諦められない。自分勝手でわがままなんだけど、どうしても今日伝えたかったんだ。俺と婚約してほしい」
「わたしも」リリアはうまく声が出せずに、一度深呼吸した。「わたしも、エリオットと一緒にいたいって、いつも思ってたよ」
リリアは涙を拭くと、エリオットの目を見つめた。
「経営する立場になっても、お店に出ることもできるでしょ?」
「うん、そういう機会も持てると思う」
「それに」リリアは手を伸ばして、エリオットのカバンのトラ猫のぬいぐるみをつついた。
「こういうのを自分で考えるのも好きだもん。わたしが考えたグッズが、いろんな街の人に買ってもらえるかもって思うと、すごくワクワクするよ」
「じゃあ」
「うん、こちらこそお願いします」
エリオットはほっと息をついた。
「よかった」
「でも、わたしなんかで大丈夫かな」
「大丈夫だよ。俺は情熱を持って共に頑張っていけそうな女性を選べって言われてて。実は親父には相談してて、今日玉砕してくるって言ってあるんだ」
「そうだったの」
「うーん、でもこうなると、卒業までの1年が長く感じるな」
「いっぱい手紙をやり取りしようよ。ひだまり猫ハウスでお手紙セットを買わないと」
「あ、それなら、リリアが描いた絵が入ってると嬉しいかも」
それからリリアとエリオットは、猫たちに囲まれながら、ふたりの将来のことを話した。
近くにいた猫は、くあっと大きくあくびをすると、ふたりをチラリと一瞥して、興味がなさそうに前足に頭を置いて目を閉じた。




