空ばかり見ていた
ずっと、空ばかり見ている気がする。
少しだけため息をついて、お姫様は、窓に四角く切り取られた青い空を見ていた。
黒髪黒目に黒のローブのいかにも悪い魔法使いにとらわれ、雲を突くこの塔に閉じ込められてから、どれだけの時間が経っただろうか。石造りの壁。飾り気のないイスとテーブル。固いベッドとゴワゴワの毛布。光をさえぎる分厚いカーテンと大きな姿見。そして、小さな窓。それが今のお姫様の、世界のすべてだった。お城にいたころはどんな願いだって叶わないことはなかったのに――何もない、何も出来ない毎日のなかで、気付けばお姫様は、空ばかり見ていた。あの青い空の真下は、どんなにか美しいことだろう。誰か私をあの空の下へ連れていってくれればいいのに。そんなことばかり、考えていた。
ふと、お姫様は、窓から見える空に黒い鳥の姿を見つけた。名前も知らないその鳥は、お姫様の決して届かないあの青い空の下を、優雅に楽しげに渡っていた。お姫様は窓枠に肘をついて、しばらくの間その鳥が空を舞う姿を眺めていたが、ふぅ、とため息をついて目を伏せると、ぽつりとつぶやいた。
「……私にも、翼があればな。そうすれば、きっと自由に――」
黒髪黒目で黒づくめの悪い魔法使い。突如お姫様の目の前に現れ、さらって塔に閉じ込めた。彼がどうしてそんなことをしたのか、お姫様は知らない。最初にお姫様をさらって後、魔法使いは一度も姿を見せたことがない。言葉を交わしたこともなく、顔もよく覚えていない。食事は気付けば机に用意されており、とりあえず命をどうこうしようというつもりはないらしい。しかし、だったらなおのこと、魔法使いが何をしたいのか、わからない。
――ケー
鳥の鳴き声が聞こえ、お姫様は我に返る。いつの間にか窓枠に、先ほど空を飛んでいた黒い鳥が止まっていた。真っ黒な羽根に真っ黒な瞳。お姫様は目を細める。鳥は首をお姫様に向けた。
――哀れで愚かなお姫様。あり得ぬ望みを空想し、今日も時間を無駄にする。
鳥が歌うように言葉を紡ぎ、お姫様は驚いて窓から離れた。鳥が、しゃべった? にわかに信じがたい光景が現実であることを証明するかのように、鳥は言葉を続ける。
――翼がなければ己で生やせ。何もせずに嘆くだけの愚か者。
お姫様はムッとした様子で鳥をにらんだ。
「翼を生やすなんて、できるわけないでしょう? 私は人間で、鳥じゃないもの!」
鳥は馬鹿にしたようにカカカと嗤う。
――開き直って他人を責めるか。それで何が解決する? 口を開けて餌を待つひな鳥でさえ、自分はここだと声を上げるぞ。
ひな鳥にさえ及ばぬと言われ、お姫様は屈辱に震える。小鳥はさらに侮りを口にした。
――鳥は腕の無いことを嘆かぬ。翼なき身なら、己に何があるか考えよ。無為な空想にふける前に、身体を動かせこの痴れ者め。
言いたいことを言って、鳥は翼を羽ばたかせ、再び空へと戻っていった。あっ、と小さく声を上げ、お姫様は窓に駆け寄る。青い空の彼方に黒い鳥の姿が遠ざかり、やがて見えなくなった。
窓枠に手を置き、お姫様は唇を噛む。勝手なことばかり言って! 好きでこんなところにいるわけじゃないのに!
窓から見下ろす地上の姿が雲間に遠く見える。この塔は荒野の中にあるらしく、人影どころか木々の姿も見えない。しばらく前までは、王命によって無数の騎士たちがこの塔を目指す様子が見えた。しかし彼らはことごとく悪い魔法使いに撃退され、今や自分を助けようとする者はいないようだ。誰も助けてはくれない。誰も。お姫様の目に涙が浮かぶ。考えないように、考えないようにしていた現実が今、突きつけられていた。
泣いて、泣いても、やがて涙は止まる。お姫様は手の甲で涙を拭った。泣いたところで何も変わりはしない。助けは来ない。このままここで朽ち果てるまで独りでいるの? 冗談じゃない! ひとを痴れ者だなんて何様のつもり!? 鳥のバカにしたような声がお姫様を焚きつける。私に何ができるか、見せてあげるわ!
お姫様はまず、姿見に自分を映した。鳥が腕のないことを嘆かぬなら、人は翼がないことを嘆いてはならない。鳥になく人にあるものはなに? 姿見に映る自分の姿は、かつてお城で何不自由なく暮らしていたときに比べてひどくみすぼらしい。髪は艶を失い、肌は煤けて、小柄でやせっぽちで、服は薄汚れている。お姫様は固く口を引き結ぶ。泣いたりすればまた鳥にバカにされる。
鳥に腕はないが、私にはある。鳥の足は駆けるには向かないが、私は足で地面を走れる。翼の代わりというのなら、私にあるのは手足だろう。ならば手足を使ってここから出る方法を考えよう。扉を開けて外に出る? 扉には鍵が掛かっている。鍵を外す? そんなことができたらとっくにやってる。叩いて壊す? 絶対に無理!
お姫様は部屋を見渡す。手足で無理なら何がある? この部屋にあるものを使えないだろうか? この部屋には何がある? イスとテーブル、ベッドと毛布。カーテンと姿見、そして、小さな窓――
窓から、外に出られないだろうか? 窓は小さいが、お姫様の小柄な体は窓枠を潜り抜けられるだろう。お姫様はおそるおそる窓に近付き、身を乗り出して下を見る。今までずっと窓から空を見ていた。下を見たのは初めてだ。風が吹き、髪が躍る。雲が下に見える。地面は見えない。
身体を室内に引き戻し、お姫様は尻もちをついた。息をしていなかったことに気付く。胸に手を立てて、短く早い呼吸をする。心臓が鳴る。少しずつ息をなだめる。
――ふうぅーーーーっ
大きく息を吐いて、ようやくひと心地をついたように目を閉じる。びっくりした。高い塔だとは思っていたが、こんなに高いとは思っていなかった。地面が見えないだなんて、窓から出るのは不可能だわ。でも、扉からも窓からも出られないじゃ、ここから出るなんて、できない――
――ケー
窓の外から鳥の鳴き声が聞こえる。黒い鳥が気持ちの良さそうに空を旋回している。お姫様は立ち上がり、窓から鳥を見る。黒い瞳と目が合った。
――そら見ろ。愚か者が為さぬ言い訳をしているぞ。
そう笑われた気がして、お姫様は鳥をにらみつけた。鳥はそ知らぬ顔で飛んでいる。お姫様は両の拳を強く握った。バカにして! 絶対あきらめるもんか! そう思いながら鳥を射殺さんばかりににらみつける。すると鳥は、急に勢いを失ったように落下を始めた。お姫様は目を見開き、思わずその姿を追う。鳥は落下しながら塔に近付き――
「ぶつかる!」
お姫様がそう叫んだと同時に、何事もなかったように翼を羽ばたかせて空に戻った。鳥と目が合う。鳥の目はからかうように笑っている。お姫様は怒りに顔を真っ赤にして鳥をにらみ、
「……あれ?」
ふと、視界の端に違和感を覚えた。鳥がぶつかりそうになった、と思った塔の壁に、ぽっかりと黒い穴が空いている。いや、穴ではない。それは開け放たれた窓だった。ちょうど一階分下の位置に、お姫様の部屋にあるのと同じように、窓が開いている。
「この部屋以外にも部屋があるのね」
当たり前と言えば当たり前のことに、お姫様は初めて気づいた。高い塔だ。部屋がここだけであるはずがない。少なくとも魔法使いが過ごす部屋は別にあるはずだし、それ以外にも何か部屋があってしかるべきだろう。ずっとここにいたから、そんな簡単なことに気付かなかった。
びゅう、と風が吹く。冷たさに身体が震えた。けれど、見ることもできない地面に降りるのは無理でも、一階下に行くことはできるかもしれない。一階下の窓から見たら、地面が見えるかもしれない。
「……一階下も、同じだったら?」
ふと、言葉が口をついて出る。一階下の部屋も、扉には鍵が掛かっていて、窓から見ても地面は見えないかもしれない。この部屋にいるのと何も変わらないかもしれない。あるいはもっと、この部屋にいるより悪いことが――部屋の中に猛獣がいるとか――起こるかもしれない。だったら、このままこの部屋にいたほうが……
はっと息を飲み、お姫様はぱちんと自分の頬を叩いた。あぶないあぶない、こんなことを考えていたら、また鳥に「為さぬ言い訳」とバカにされてしまう。もしかしたら一階下も同じかもしれないし、もっと悪いことが起こるかもしれない。でも、同じではないかもしれないし、もっと良いことが起こるかもしれないのだ。どちらになるかなんて分からない。分かっているのは、「ここにいては何も変わらない」ということ、それだけだ。
お姫様はもう一度部屋の中を見渡した。風が吹き込み、カーテンが揺れる。光を遮るぶ厚いカーテン――小柄なお姫様の身体を支えるのに充分なほどの、丈夫そうな布地。これをロープの代わりにすれば、この窓から外に出られるだろうか? 冷たい鉄製のカーテンレールから左右のカーテンを外す。外して、さあ、どうしよう? 一階下に行くには長さが足りない。それに、どこかに括りつけなければ。
何か、役に立つものはない? お姫様は部屋の中を探す。イスとテーブル、ベッドと毛布――順番に目を遣り、姿見に目を留める。これを、ちょっと野蛮だけれど、割った破片でカーテンを裂けば、結わえてもっと長くできる? でも、姿見を割るなんて、いいのかしら? 後で怒られない? それに、姿見がかわいそう……
お姫様は首を振る。強く短い息を吐き、椅子を持ち上げ、目をつぶり、
「ごめんなさい!」
姿見に叩きつける。派手な音がして姿見が割れ、破片が散らばる。椅子が床に倒れる。どきどきしながら目を開けて、お姫様は破片を手に取った。破片でカーテンの端を切り、両手で持って一気に裂く。ビリビリと音がしてカーテンはきれいに左右に分かれた。お姫様は大きく息を吐く。
カーテンを帯状に裂いて端を結わえると、どうにか下の階にまで届きそうなほどの長さになった。後はこれを括りつけるもの――机かベッド。どちらにする? どちらでもいい気がするけれど、きっと、重たいほうが安心よね。だったらベッドの足に括ろう。
ベッドの脇にしゃがんで、お姫様はふと、笑った。こんなに一生懸命に何かを考えたことなんて一度もなかった。考えるのも、手を動かすのも他の誰かの役目だったから。お城にいたときのお姫様はただ、望みを言うだけでよかった。でも今は、自分でしなければ誰もやってはくれない。
カーテンロープをベッドの足に括りつけ、もう一方の端を自分の腰に括りつける。重いベッドの端を持ち、うんうん言いながら引きずって窓際まで移動する。これで、準備は整った、はずだ。本当に? 他にやるべきことはない? 本当に準備は万全?
お姫様は目を閉じ、深呼吸する。万全の準備、なんて、この閉じ込められた小さな部屋で出来るはずなんかない。万全じゃなきゃ動かないなら、きっと永遠に動けない。お姫様は覚悟を込めて「よし!」と叫んだ。よし、今の私でよし。他の誰が言ってくれなくても、私は私を肯定する。お姫様は目を開き、窓の外に身を乗り出す。風が吹く。髪が躍る。怖い、でも、逃げるほどじゃない。ゆっくりと窓枠に足をかけ、お姫様は少し笑った。さあ行こう。まずは一階下の部屋だ。
空はまばゆいほどの青だった。なんでもできるような気がしていた。そしてお姫様は、小さな窓から最初の一歩を、踏み出した。




