第8話 人魚姫との和睦と、新たな連絡先
氷結した海原を、滑るように進んでくる一台のソリがあった。
海馬に引かれたそれは、真珠や珊瑚で装飾された王族専用の馬車だ。
俺は氷で作った即席のテーブルと椅子に腰掛け、優雅に足を組んでその到着を待っていた。
手には、ゴンブが氷を削って作ったアイスコーヒー。
「お待たせしました、ヴェルト様」
ゴンブが緊張した面持ちで給仕をする。
俺は一口啜った。
「……塩辛いな」
(当たり前だ、海水で作ったんだから。俺も疲れてるな……)
そうこうしている間に、ソリが目の前で停止した。
扉が開き、中から護衛の兵士に支えられて降りてきたのは、透き通るような青い髪と、宝石のような鱗を持つ美女だった。
下半身は魚。正真正銘の人魚だ。
海人族の第一王女、メリア姫である。
「ひ、姫様! 来てはいけません! こやつは化け物です!」
氷漬けのアビソス将軍がガチガチと歯を鳴らしながら叫ぶ。
しかし、メリア姫はそれを扇で制し、俺の目の前まで――尾ひれを器用に使い、魔法の水球に浮きながら――進み出た。
「お初にお目にかかります、陸の魔人殿。わたくしが海人族を統べる王の娘、メリアです」
鈴を転がすような美しい声だ。
だが、その瞳は油断なく俺を観察している。
「丁寧なご挨拶、恐縮です。魔王軍四天王No.3、ヴェルトです」
(見た目は儚げだが、魔力量は将軍以上か。交渉が決裂したら、この姫ごと凍らせてカチコチのオブジェにするしかないな)
俺は内心で物騒な算段を立てつつ、紳士的に氷の椅子を勧めた。
「どうぞ。お茶はありませんが、冷えた空気ならいくらでも」
「……感謝します」
メリア姫は着席すると、周囲の氷結した軍勢を見渡した。そして、ふぅ、と溜息をつく。
「単刀直入に申し上げます、ヴェルト様。……貴方の勝ちですわ。これほどの規模の環境干渉魔法、わたくしたちの魔法技術では対抗できません」
「賢明なご判断です。無益な争いはコストの無駄ですから」
「ですが! 我が軍にも言い分はあります! 先に手を出したのはそちらのサキュバスでしょう! 我が民の住居を爆破しておいて、タダで済むとお思いで!?」
姫の声が強まる。当然の主張だ。
俺は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、テーブルに滑らせた。
「ご安心を。そちらの被害状況はすでに試算済みです。サンゴ礁の修繕費、および精神的苦痛への慰謝料。……これだけの額を、我々が支払います」
俺が提示した金額を見て、メリア姫が目を見開いた。
さらに、アビソス将軍も氷の中で目を剥く。
「なっ……! こ、こんな大金を!? 魔王軍の年間予算に匹敵する額ではありませんか!」
「ええ、その通りです」
(リゼット先輩の私財を全部没収して、さらに向こう百年の給料を天引きすれば払える額だ。あの人が路頭に迷おうが知ったことではない)
「……正気ですか? 勝者である貴方が、なぜ賠償金を?」
「我々は『話の通じる隣人』を求めているからです。海人族とは不可侵条約を結びたい。そのためなら、多少の出費(先輩の自腹)は安いものです」
俺はニッコリと微笑んだ。営業スマイルだ。
メリア姫はしばらく俺の顔と羊皮紙を交互に見ていたが、やがて頬を朱に染め、扇で口元を隠した。
「……なんて……なんて度量の広い方……」
(ん? 雲行きが怪しいぞ?)
「圧倒的な力を持ちながらそれを誇示せず、敗者に対してこの誠意……。それに、この冷徹なまでの論理的思考……。あぁ、熱血バカばかりの海の男たちとは大違いですわ……!」
姫の瞳が潤んでいる。
まずい。海人族は「強さ」を尊ぶ種族だが、どうやら彼女は「知的な強さ(インテリヤクザ的な)」に弱いタイプらしい。
「あの、ヴェルト様。この条約、結ばせていただきます。ただし、一つ条件が」
「……なんでしょう? 金銭の上乗せですか?」
(これ以上は先輩が破産して、俺に借金を申し込みに来るから勘弁してほしいんだが)
メリア姫は懐から、虹色に輝く巻き貝を取り出した。
「これを。王家直通の『伝声貝』です。……今後、何かトラブルがあれば、わたくしに直接ご連絡をくださいませ。公的な話でも……その、私的な話でも」
彼女は上目遣いで貝を差し出してくる。
「……はぁ。承知しました。緊急連絡用としてお預かりします」
(要するに、仕事用の携帯電話がもう一台増えただけか。……着信拒否機能はあるんだろうか?)
俺は貝を受け取り、条約書にサインをした。
「では、交渉成立ですね。……《解凍》」
パチン、と指を鳴らす。
瞬間、湾内を覆っていた氷が一斉に水へと戻った。
「ぶはっ! た、助かった……!」
アビソス将軍が水面に顔を出し、溺れそうになりながら呼吸をする。
他の兵士たちも次々と氷から解放され、我先にと沖へ逃げていく。
「またお会いしましょう、ヴェルト様♡」
メリア姫はウィンクを残し、優雅に海中へと帰っていった。
嵐のような外交戦だった。
「さ、さすがヴェルト様! 海人族を手玉に取るなんて!」
ゴンブが興奮して鼻息を荒くしている。
「手玉になんか取ってない。ただの事後処理だ。……さあ、帰るぞゴンブ」
(リゼット先輩には、この条約書のコピーと、特大の請求書を送りつけなきゃならないからな。……あぁ、胃が痛い)
こうして、南の海でのトラブルは(俺の残業によって)解決した。
だが、城に戻った俺を待っていたのは、安息ではなく――さらなる地獄の入り口だった。
「報告ぅ! 報告ぅ! 西の砦に、人間族の『勇者パーティ』が出現! 現在、第一城壁を突破中!」
伝令のガーゴイルが、空から叫ぶ。
「……はい?」
(嘘だろ? さっき帰ったばっかりだぞ? シフト制勤務という概念はないのか、この世界の敵は!)
「しかも、ヴォルグ様が単身突撃し、現在消息不明とのことです!」
「あのアホンダラァァァ!!」
俺の絶叫が、夕暮れの海岸に虚しく響き渡った。
定時退社は、今日も夢のまた夢である。
(続く)




