第7話 環境規制魔法《絶対零度・氷結海域》
眼前に迫る、高さ十メートルの水の壁。
海人族将軍アビソスの魔力によって増幅されたその質量は、砦の一つや二つ、容易く押し流す威力を持っている。
「グハハハ! 海の藻屑となれ、陸の猿よ!」
波の頂上で、アビソスが高笑いしている。
部下のゴンブは「ひぃぃ!」と悲鳴を上げ、俺の後ろで縮こまっている。
あのアホなリゼット先輩はすでにいない。
……やれやれ。
俺は眼鏡の位置を中指で直すと、左手をポケットに入れたまま、右手だけを掲げた。
「ゴンブ、よく見ておけ。これが『業務効率化』だ」
俺の脳内で、高速の演算が走る。
敵は水属性。質量攻撃。
対抗策として炎魔法で蒸発させる手もあるが、そうすると大量の水蒸気爆発が起き、周囲の環境破壊が甚大になる。塩害で農作物が枯れるのも困る。
ならば、答えは一つ。
相転移。
液体の分子運動を強制停止させ、固体へと固定する。
「《環境規制:絶対零度領域》」
パキィィィィン――――!!
世界から、音が消えた。
いや、音すらも凍りついたかのような静寂が訪れた。
俺の指先から放たれた極低温の波動が、迫りくる津波に触れた瞬間、その白い飛沫の一滴に至るまでを瞬時に氷像へと変えたのだ。
「な……!?」
アビソスの笑いが凍りつく。
頭上の波は、もはや脅威ではない。巨大で美しい氷の彫刻だ。
そして、凍結は止まらない。
波から海面へ、海面から海底へ。
ピキピキピキ……! という鋭い音と共に、湾内一帯の海水が、見る見るうちに分厚い氷の大地へと変わっていく。
数秒後。
そこには、白銀の氷原が広がっていた。
泳いでいた三千の海人族兵士たちは、首から下を氷に閉じ込められ、身動き一つ取れなくなっている。
「な、なんだこれは……!? 海が……凍った……!?」
「足が抜けない! 寒い! 死ぬぅ!」
「馬鹿な……一瞬で、湾をすべて凍らせたというのか!?」
海人族たちの狼狽する声が響く。
彼らは水の中では無敵だが、氷に閉じ込められればただの生け簀の魚だ。
「……ふぅ。魔力消費率、〇・二%。計算通りだな」
俺は氷の上をコツコツと歩き出した。
革靴が氷を叩く音が、よく響く。
ゴンブがおっかなびっくりついてくる。
「ヴェ、ヴェルト様……これ、全部魔法で?」
「ああ。熱力学の応用だ。彼らから熱エネルギーを奪っただけだ」
俺は、波の頂上から転げ落ち、氷の上に尻餅をついているアビソス将軍の元へ歩み寄った。
彼は全身が震えていた。寒さのせいか、あるいは恐怖か。
「き、貴様……何をした……!」
アビソスが槍を構えようとするが、手がかじかんで力が入らないようだ。
海人族は変温動物に近い。急激な温度低下には弱いのだ。
「何をした、とは心外ですね。貴方が『海で戦う』と言うから、戦いやすいように足場を作って差し上げただけですよ」
俺はアビソスを見下ろし、冷徹に告げた。
「それに感謝していただきたい。もし私が炎魔法を選んでいたら、今頃ここはお前たちの出汁が効いた、巨大な海鮮スープになっていたところだ」
「ヒッ……!」
アビソスの顔色が青を通り越して白くなる。
俺はしゃがみ込み、彼の目を見据えた。
「さて、将軍。状況は理解できましたか? ここはもう海ではない。氷の大地――つまり、我々魔族(陸の者)の領域だ」
陸に上がった海人族の戦闘力は十分の一以下になる。
さらにこの寒さだ。勝負は見えている。
「くっ……殺せ! 捕虜になるくらいなら、名誉ある死を!」
「殺しませんよ。死体処理の書類作成が面倒ですから」
俺は懐から、一枚の請求書を取り出した。
リゼット先輩が破壊した海底住居の修繕費見積もり(概算)と、今回俺が氷結魔法で使った魔力コストの請求書だ。
「ビジネスの話をしましょう、将軍。……おっと、その前に」
俺は視線を、氷原の彼方へ向けた。
氷に閉ざされていない沖合から、一台の豪奢な馬車ならぬ『海馬車』が、氷の上を滑るようにこちらへ向かってきているのが見えた。
「増援か? いや……あれは」
掲げられている旗は、海人族王家の紋章。
どうやら、話の通じる相手のお出ましのようだ。
「ゴンブ、お茶の用意を。……氷ならいくらでもあるから、アイスコーヒーでいいぞ」
「へ、へい! ただちに!」
俺は氷漬けになった軍団の中心で、優雅に客人を待つことにした。
リゼット先輩の尻拭いは、まだ終わらない。
(続く)




