最初の車
ダム工事の現場代理人として働く俺は、工程の組み直しのため深夜まで残業することになった。先に引き上げる地元業者の職人が声をかけてくる。
「遅くなるなら、峠はスピード出して通った方がいいっすよ。女の幽霊が出ますから。地元民はみんな、あそこだけは飛ばします」
幽霊より警察の方が怖い。安全運転を貫くつもりだった。
午前零時、雨の峠道。地元ナンバーの車が次々と猛スピードで追い抜く。ハザードを焚き、クラクションを鳴らしながら──まるで何か合図を送っているかのように。
更に不気味なのは、どの車も追い抜きざま、こちらを一瞬見ていくことだ。
その顔は、みな硬くこわばっていた。
その時、一台が俺を抜き去った瞬間、ルーフに何かが叩きつけられた。
──ドンッ。
衝撃と同時に、赤黒い液体がフロントガラスを這い降りてくる。ワイパーがそれを伸ばし、視界を赤く染めた。鉄臭い匂いが室内に入り込む。
「うわっ……!」
慌てて停車して外に出たが、何もない。ルーフもガラスも、ただ雨が打ち付けているだけだった。
──それでも鼻の奥には、濃い血の匂いが残っていた。
もう安全運転などしていられない。俺はアクセルを踏み込み、一気に峠を下る。
出口付近で、パトカーのサイレンが鳴った。
「スピード違反ですが……切符は切りません」
警官は妙に低い声で続けた。
「ここから先は法定速度で走ってください。ただし、明日以降もここを通るなら、この峠は“法定より十キロ程速く”走りなさい」
理由を問うと、警官は淡々と語った。
二年前、この峠で女が事故死した。最初に彼女をはねたのは速度超過の車だった。だが死因は違う。
撥ね上げられた彼女は、その後ろを安全運転で走っていた車の屋根に落ち、その衝撃で即死した。
以来、霊は毎晩“その夜”を繰り返す。
最初の車は女を撥ね上げる一瞬で終わるが、後続車の方は──
「……長い時間、屋根に乗られる。叩かれ、覗き込まれ、窓を血で塗られ……」
警官はそこで口をつぐみ、じっと俺を見た。
「だから地元民は飛ばす。『最初の車』になるために」