小説『アラサーロリータ、原宿に立つ』
真里子さんは、私の叔母にあたる。
母の妹だけど、姉妹で歳が十二も離れているからあんまり姉妹っぽくない。そして、真里子さんと私も、叔母と姪っぽくなくて、歳の離れた姉妹のようだ。
母は四人兄妹の上から二人目で、下に弟と妹の真里子さんがいる。上の兄姉三人と、末妹の真里子さんとの間は十歳も開いている。祖父と祖母は三人で子供をおしまいにするつもりだったんじゃないか、なんて思う。
「有栖ちゃん、よくきたね。今度中学だって? もう背、追いつかれそう」
真里子さんの左右にくっと広がる笑顔には、綺麗に加えて可愛いと優しいが絶妙に混ざっていた。今日はおもてなしスタイルだからね、と髪を飾る青いカチューシャが、つやつやの黒髪に似合っていた。
「紅茶はいつものダージリンでいいよね?クッキーもあるよ。一緒に食べよう」
実家に遊びにいくと、真里子さんはいつも、優しく部屋でもてなしてくれた。歳の離れたお姉さんみたいで……憧れの人だったんだ。
◇
母が短大を卒業して就職したときでも、真里子さんはまだ小学生だった。きっと、当時から凄く可愛かったのだろう。上の兄姉から歳の離れた真里子さんを祖父母はたっぷり甘やかし、幼い頃から可愛い服をたくさん買い与えたという。
母は二十三で結婚退職し、翌年生まれたのが私。
私が小学生になったとき、真里子さんは二十歳の大学生で、長兄以外は実家から出てしまっていたなかで、変わらず実家で生活していた。年に何度か実家に行くと、真里子さんは小説を書いていたり、漫画を描いていたり、ゲームにはまっていたりした。
着ている服はいつも凄く可愛いくて、私には綺麗で優しい、楽しいことをいっぱい知っているお姉さんだった。
小学二年の暮れ、帰省のタイミングで私は真里子さんの部屋に初めて一人でおじゃました。真里子さんの部屋の周囲には、どこかカビ臭い実家の臭いとは、違う空気が漂っていた……じじばばと親戚のおじさんばかりの居間は楽しくなかった。
他の部屋は、ガチャとドアを開けて、子供っぽくこんにちはーと飛び込めばよかったけど、真里子さんの部屋は特別。私は「ちゃんとした」マナー……ノックをした。
「どうぞ有栖ちゃん。ようこそ」
くすくす、と笑いながら真里子さんが返事をした。私が照れて小さな声で「おじゃまします」と言いながらドアを開けると、ブルーを基調にしたドレスを着た真里子さんが「いらっしゃい」と微笑んでくれた。窓にはホワイトのシルクとレースのカーテンがリボンでまとめられ、薄い水色の寝具と合わせたパステルイエローのクッションがそばにあった。
大きな木製の本棚にはいっぱいの漫画に小説に、難しそうな本。本棚の脇のマガジンラックには、お姫様のようなドレスを着たお姉さんの写真が沢山載った雑誌……私は写真に見入った。女の子は可愛い服を着ると、こんなに素敵になれるんだ。
そして真里子さんもそんな雑誌から飛び出してきたみたいで……いや、写真のお姉さんたちよりもっと可愛くて、綺麗で、キラキラしてた。
「有栖ちゃん、こんな洋服、好き?」
真里子さんが淹れてくれた香りのいいお茶とクッキーをいただきながら、雑誌の写真を一緒に眺めた。
「すっごく可愛い!」
「これは、お姉さんたちにとって、本気のお洒落で、それでね……勝負の服なんだ」
「勝負の服?」
真里子さんの言ったその言葉の意味は、長いことわからなかった。
私は写真のお姉さんたちと、真里子さんに見蕩れて、きっとぼーっとしていた。その日のことは、ずっと私の中でキラキラした記憶として残っている。
小学三年で初めて読んだ『不思議の国のアリス』。挿絵にあったアリスの姿に惹かれた。正直なところ、お話の筋はへんなの、と思っただけでよくわからなかった。でも、有名な作品なんだから、きっと面白いんだろうと思って格好つけた。
アリスの名前が自分と同じなのが嬉しくて、父に頼んでいろいろ検索させてもらった。雑誌で見たのがロリータというファッションだと知ったのもこのときだ。ベイビー、アンジェリックプリティ、ストロベリーウォーズ、ミルフルール、ジュリエットエジュスティーヌ――ロリータブランドのドレスを着た雑誌のお姉さんたちは、私よりずっと年上だったけど、レースやリボンいっぱいのドレスはどれも可愛いかった。
不思議の国のアリスみたい、私も着たい……そう思ったけど、人に言うのは恥ずかしかった。
そもそも、ロリータファッションの写真を、真里子さんの雑誌以外ではほとんど見たことがなかったし、街で着ている人も見たことがなかった。
母をはじめとした大人達が真里子さんを変わり者扱いしていたのも薄々気付いていた。このファッションを好き、と言うと私も「変」と言われたりするのかな……もやっと不安な気持ちになった。
真里子さんが大学を卒業しても、クローゼットにはドレスがいっぱい入っていた。私が小学校の五年生になった頃から、真里子さんとの身長差もなくなってきていたから、ドレスを着せてもらって、私も小さなお姫様になった。
ささやかなティータイムの習慣が唐突に終わったのは、私が十五歳のときだった。年末の実家で真里子さんと過ごしていた日、部屋に母が入ってきて、我慢ならない、といった風で言った。
「有栖にまでなんて格好させてるの? いい加減にして。真里子あんた、もう二十五過ぎでしょ」
母は明らかに怒った顔をしていて、私は二人の間でおろおろした。
「おんなじような服ばかり買って」
「中学の頃から、いつまでやってるつもり」
「有栖を変な道に引き込まないで。そんなの着てるからいまだに……」
母のガミガミ声を聞いていると、真里子さんのキラキラが汚されていくように感じて哀しかった。その日を境に、私はなんとなく真里子さんの部屋に行きにくくなって……それっきりお茶会は開催されなくなった。
田舎の実家住まいのままで結婚もしなくて……親類の人は真里子さんについて話すとき、陰口みたいな言い方をした。それまでも私が真里子さんの部屋から出てくると、母から「何をしてたの」と必ず訊かれたものだった。「お姉ちゃんね、すっごい綺麗な服もってるんだよ!」……無邪気にそう報告した私を見る母の目は冷ややかだった。
中学校の家庭科でエプロンを作ったとき、余った布でヘッドドレスを作ったクラスメイトがいた。百均で買ってきた小物を組み合わせて、可愛いのを自作しているのが凄く楽しそうで、作り方を教わった私は、家でこっそり作ってみた。
決して出来はよくなかったけど、それを母に勝手に「こんなの作って」と捨てられたとき、私は何も言わず、ため息をついて終わりにした。文句を言ったら何を言われるか、その頃にはわかっていたから。
◇
私が部屋に行かなくなってから、真里子さんと実家で話すことはほとんどなくなった。
数年後、真里子さんは結婚して実家を出た。
私が親に薦められた大学に進み、なんとか中くらいの会社に就職できたばかりの頃だ。真里子さんはお見合いで、国家公務員のエリートと結婚した……年齢は十歳上でバツイチだった。急に結婚を決めた真里子さんの様子が気になったけど、盆や年末に実家に顔を出しても、真里子さんは帰省してこなかった。
そして、私が理不尽なリストラに遭って、派遣社員になった二十六歳の冬。真里子さんも結婚生活を三年半で終わらせて帰ってきた。
私はすぐに実家を訪ねた。転職関連でばたばたしていて実家に寄れてなかったから、と理由をつけて。本当はずっと会えてなかった真里子さんの顔を見て、話がしたかった。
「いらっしゃい。有栖ちゃん、ずいぶんひさしぶりだね」
真里子さんは笑顔だったけど、なんだか……前と違って見えた。
私は人に合わせるのが上手くなくて、就職にも散々苦労して、なのにリストラで真っ先に首にされて。ほとほと不器用な自分が嫌になっていた。真里子さんを何でもできるお姫様のように思って憧れていたけど――実は私達、似ていたのかもしれない。
せめてと思ってお土産は紅茶にした。クッキーと紅茶の香りがあの頃のシンボルだったから。
「……真里子さん、昔小説とか、漫画とかいろいろ書いてたよね」
「綺麗な服も、沢山もってて……ドレスで紅茶飲みながらおしゃべりするの、すごい楽しかった」
「あの頃の服、まだしまってあるの?」
昔の話で水を向けても、真里子さんは小さく笑うだけで、会話に付き合ってくれなかった。
「……もう恥ずかしいから。あの頃……ほんと若かったな」
真里子さんの視線は、遠くへそっと向いた。いつの間にかカーテンもクッションも『普通』の地味なものになっていた。キラキラしたお姉さんの写真が載った雑誌も、沢山のドレスも、ボンネットもカチューシャも、なくなっていた。
「真里子さんはずっと憧れだったし、この部屋に来るの楽しみだったよ……」
「……そっか。うん……ありがと」
◇
立ち去り際。
「ねえ、有栖ちゃん。今でもロリータファッション……興味ある?」
真里子さんはそう尋ねてきた。だから、正直に言った。
「うん。本当はもっと着たかった。真里子さんと一緒に着られて……私はすごく楽しかった」
真里子さんは最後に、ふわっと微笑んでくれた。
あの頃みたいに。
……彼女の話は、これでおしまいだ。
◇
後日、私のアパートに、大きな荷物がどかんどかんと届いた。
中身は、真里子さんが集めたロリータファッションの全て。
衣装ケース六個にぎっちり。小物からブーツ、当時の雑誌までフルセットで。
ドレスはしみ一つなく丁寧にたたまれ、小物も完璧に整理されていた。真里子さんがどれだけ大切にしていたか――痛いほど伝わってきた。
結婚しなきゃいけない、普通にならなきゃいけない、エリートを選ばなきゃいけない……そんないろんなしがらみのために、真里子さんはケースの中に「好き」を封印した。
もっと、活躍させてあげたかったよね?
だからこれは戦いだ。
私と真里子さんの。あの日の自分達のための戦いだ。
最高に素敵なスタイルで原宿を歩きにいこう。誰にも文句は言わせない。
これが私達の――勝負服だ
(アラサーロリータ、原宿に立つ 了)




