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第92話 冷めた紅茶と、王都の影

 伝令兵の絶叫は、まるで凍てつく風のように、和やかだった広場の空気を一瞬にして凍らせた。さっきまでスコーンを巡って談笑していた兵士たちが、血相を変えて立ち上がり、武器を握り直す。甘い紅茶の香りは、急速に鉄と土埃の匂いへと塗り替えられていく。


「『影』だと…? 王都に、何が起こったというのだ! 詳しく報告せよ!」  老将軍が、伝令兵の肩を掴み、厳しい声で問い詰める。その顔には、先ほどの困惑とは違う、指揮官としての険しさが戻っていた。


「はっ…! それが、何とも…! 日没と共に、王城を中心に、まるで…生きているかのような巨大な『影』が複数出現し、城壁に取り付き…! 衛兵隊が応戦しておりますが、物理攻撃も、通常の魔法も、まるで効かず…! すでに城の一部が…『影』に飲み込まれ始めております!」  伝令兵は、恐怖に顔を引きつらせながら、必死に報告を続ける。


「物理も魔法も効かぬ『影』…」エレノアが、静かに呟いた。その表情は、俺が見たこともないほど険しいものに変わっていた。「…やはり、あちらが本命でしたか」 「エレノア…?」 「セラフィーナ…いえ、『彼女に宿るもの』の不在は、陽動だったのですわ。わたくしたちをここに引きつけ、その隙に、王都…おそらくは、王家に伝わる何か、あるいは王都そのものの魔力を狙って…!」


 エレノアの言葉に、俺は息を呑んだ。セラフィーナは、この茶番劇の間、ただ祈りを捧げていたのではなかった。俺たちがスコーンの味に舌鼓を打っている間に、彼女(あるいは〝それ〟)は、遥か王都で、恐ろしい計画を実行に移していたのだ。


「…将軍閣下!」俺は、状況を把握しきれずにいる老将軍に向き直った。「これは、セラフィーナ…いや、彼女を操っている何者かの仕業です! 俺たちが戦っている場合じゃない!」


「黙れ、調停者とやら!」将軍は、俺を睨みつけた。「貴様らの言葉など…!」 「では、どうするのです?」エレノアが、冷徹な声で将軍の言葉を遮った。「このまま、王都を見捨てるおつもりで? あなた方が忠誠を誓った王が、『影』に飲み込まれるのを、ここで紅茶でも飲みながら待つと?」


 その言葉は、老将軍の心を深く抉った。彼は、ぐっと唇を噛み締め、苦悩の色を浮かべる。魔王討伐という大義と、王都の危機という現実。二つの重圧が、彼を押し潰そうとしていた。


「母様…カイト…」  リリアが、震える声で俺たちの名を呼んだ。彼女の顔は蒼白だった。王都は、彼女が聖女として迎え入れられ、短い間とはいえ、新たな希望を見出そうとした場所でもある。そこが今、正体不明の脅威に晒されている。 「王都には…まだ、私がお世話になった人たちが…!」


「ならば、行くぞ!」  最初に動いたのは、意外にもゴウガだった。彼は、食べかけのスコーンをポケットにねじ込むと、巨大な戦斧を肩に担ぎ上げた。 「敵が誰であろうと、関係ない。目の前の脅威を、砕くのみだ」 「ふん、脳筋が…だが、同意だ!」ザラキアスも、マントを翻す。「我が君の御前を汚す不埒な『影』…! 我が究極魔法の前に、塵と化すがいい!」


 四天王(二人)の単純明快な闘志が、この場の膠着した空気をわずかに動かした。  老将軍は、迷いを振り払うように、顔を上げた。 「…魔女エレノアよ」 「はい」 「貴殿は…その『影』について、何か知っているのか?」 「全てを知っているわけではありません。ですが…あれが、この世界の理から外れた、危険な存在であることは確かですわ。放置すれば、王都だけでなく、いずれ世界そのものを蝕むことになるでしょう」


 エレノアの言葉には、嘘も誇張もなかった。それは、魔王としてではなく、ただこの世界に生きる一人の人間としての、真摯な警告だった。  将軍は、しばらく黙ってエレノアの目を見つめていたが、やがて、深く、重い息をついた。


「…分かった」  彼は、ついに決断を下した。 「一時休戦だ。いや…これは、休戦ではない。共通の敵に対する、一時的な『共同戦線』と見なす!」  彼は、周囲の兵士たちに向かって、声を張り上げた。 「全軍に通達! 魔王軍との戦闘状態を一時解除! 目標を王都に出現した『影』に変更する! ただちに王都へ向け、進軍を開始せよ!」


「「「おおおおっ!!」」」  兵士たちから、戸惑いながらも、力強い鬨の声が上がる。目標が定まったことで、彼らの士気は再び燃え上がり始めていた。


「エレノア殿」将軍は、改めてエレノアに向き直った。「貴殿らの力、当てにさせてもらうぞ。…ただし、これはあくまで一時的なもの。王都の危機が去った後、改めて、貴殿らとの決着はつけさせてもらう」 「ええ、結構ですわ」エレノアは、静かに頷いた。「今は、目の前の『影』を払うことが先決ですものね」


 こうして、世界で最も奇妙な同盟が、王都を襲う謎の脅威を前に、結ばれることになった。  俺は、隣に立つリリアを見た。彼女の瞳には、まだ不安の色は残っていたが、それ以上に、守るべきものを見つけた者の、強い光が宿り始めていた。


「さて、と」  俺は、もうすっかり冷めてしまった紅茶のカップを置くと、立ち上がった。 「ピクニックは終わりだ。行くぞ、お前ら!」 「御意!」「うむ!」


 魔王とその伴侶、元聖女候補、そして二人の四天王。  数万の連合軍と共に、俺たちは、王都を覆う不吉な『影』へと立ち向かうべく、夕闇迫る荒野を駆け出した。  冷めた紅茶の、ほろ苦い後味が、まだ舌に残っていた。

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