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第91話 微笑みの下のさざ波と、女神の不在

 連合軍野営地の中央広場は、もはや完全に巨大な野外カフェテラスと化していた。日が傾き始め、空が茜色に染まる中、兵士たちは三々五々、地面に座り込んだり、盾をテーブル代わりにしたりしながら、エレノアの魔法が生み出す無限の紅茶と、山と積まれたスコーンを堪能している。武器は傍らに置かれ、顔には疲労と、そして予想外の休息に対する安堵の色が浮かんでいた。


「…信じられない光景だな」  俺は、自分のカップを片手に、その喧騒の中心から少し離れた場所で呟いた。隣では、エレノアが静かに微笑んでいる。リリアは、まだ少し落ち着かない様子で、兵士たちの輪と俺たちの間を行き来していた。


「まあ、美味しいものを前にすれば、人は少しだけ素直になれるものですわ」  エレノアは、まるで自分の庭の草花を眺めるかのように、兵士たちの顔を一人一人見つめている。 「彼らだって、好きで戦いに来たわけではないのでしょう。家族がいて、守りたい日常がある…ただの、普通の人間よ」


「…母様」リリアが、心配そうにエレノアの顔を覗き込む。「でも、この状況…いつまでも続くわけじゃ…」 「ええ、分かっているわ」エレノアは、リリアの髪を優しく撫でた。「これは、ほんの束の間の休息。本当の問題は、何も解決していない。…セラフィーナさんが、このまま黙っているはずがないもの」


 その言葉通り、広場の和やかな空気とは裏腹に、野営地の端々には、依然として険しい表情でこちらを睨みつける兵士や、セラフィーナ派閥であろう神官たちの姿が見え隠れしていた。彼らは、この「魔女の茶会」に参加することなく、遠巻きに状況を窺っている。老将軍も、兵士たちの休息を黙認してはいるものの、時折苦虫を噛み潰したような顔で、セラフィーナがいるであろう大神殿の方角に視線を送っていた。


「それにしても、セラフィーナは何をしているんだ? 神託とやらを待っているのか?」  俺が疑問を口にすると、エレノアは少しだけ眉を寄せた。 「…それが、少し気になるの。先ほどから、あの方の気配…いえ、あの方に宿っていた『何か』の気配が、この野営地から、完全に消えているのよ」 「えっ!? 消えたって…どこへ?」 「分からないわ。まるで、最初から存在しなかったかのように、綺麗に…」


 エレノアの言葉に、俺は背筋に冷たいものを感じた。嵐の前の静けさ、というやつか。それとも…?


「ふははは! 聞いたか、ゴウガ殿! この兵士、我が君のスコーンのあまりの美味さに、故郷の母の味を思い出し、涙しているぞ!」 「うむ。俺も、少し泣いた」 「お前はただ、食べ過ぎで胸焼けしてるだけだろうが!」  広場の中心では、ザラキアスとゴウガが、すっかり兵士たちと打ち解けて(?)いた。ザラキアスに至っては、即興で『魔王様のスコーン讃歌』なるものを熱唱し始め、なぜか兵士たちから手拍子まで起こっている始末だ。…あいつら、本当に何なんだ。


「…カイト」リリアが、俺の服の袖をそっと引いた。「私…やっぱり怖い。セラフィーナ様が、何を考えているのか…そして、私がしたことが、本当に正しかったのか…」  彼女の瞳には、再び不安の色が揺らめいていた。聖女として育てられ、信じてきた世界の全てが、今、足元から崩れ去ろうとしているのだ。無理もない。


「リリア」俺は、彼女の目をまっすぐに見つめ返した。「何が正しいかなんて、俺にも分からない。でもな、一つだけ確かなことがある」 「…なに?」 「お前が、あの時、自分の心に従ってここに来たこと。そして、エレノアの紅茶を飲んで、スコーンを食べたこと。それは、絶対に間違いじゃなかった。俺は、そう信じてる」


 俺の言葉に、リリアの瞳が、わずかに潤んだ。彼女は、ありがとう、と小さく呟くと、再び母の隣に寄り添った。


 日は、さらに傾き、野営地に夕闇が迫り始めていた。  兵士たちの間にも、さすがに「いつまでこうしているんだ?」という空気が流れ始める。老将軍が、意を決して俺たちの元へ歩み寄ってきた、まさにその時だった。


 遠く、王都の方角から、伝令兵が騎馬で駆けてくるのが見えた。その兵士の顔は蒼白で、何かとんでもない凶報を運んできたことが、遠目にも明らかだった。


「将軍閣下! 大変です! 王都に…王都に、正体不明の『影』が…!」


 伝令兵の絶叫が、ティーパーティーの和やかな空気を、一瞬にして凍りつかせた。  セラフィーナの不在。  そして、王都に出現したという、『影』。


 俺は、エレノアと顔を見合わせた。  嫌な予感が、確信へと変わっていく。


 本当の戦いは、この野営地ではなかったのだ。  俺たちがここで足止めされている間に、敵は、別の場所で動き始めていたのかもしれない。  ティーカップの中の紅茶は、いつの間にか、すっかり冷めていた。

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