第88話 休戦のテーブルと、苦い紅茶
セラフィーナの絶叫は、しかし誰にも届かなかった。いや、届いてはいたのだが、もはや誰もそれを「神の代行者」の怒りとして受け止めてはいなかった。それはただ、計画をめちゃくちゃにされた一人の女性の、人間的な癇癪に過ぎなかったのだ。 数万の兵士たちは、武器を下ろすことも、構え直すこともできず、ただ立ち尽くしている。彼らの視線は、憎悪に顔を歪ませるセラフィーナと、そんな彼女に「まあまあ、お茶でもどうぞ?」とカップを差し出すエレノア、そしてその隣で「ジャムはイチゴがおすすめだぞ」などと言っている俺の間を、困惑気味に行き来していた。
「…さて、セラフィーナさん」エレノアは、俺が先ほど淹れたばかりの、湯気の立つ紅茶をセラフィーナの前にそっと置いた。「少し、落ち着かれました? スコーン、お口に合いましたかしら?」
その、あまりにも優雅で、あまりにも人を食った態度に、セラフィーナはわなわなと震えた。だが、彼女はもはや、力でこの場を制圧できないことを悟っていた。〝神〟の力は、カイトというイレギュラーな存在と、そして何より、エレノアのスコーンという予想外すぎる「兵器」によって、一時的に沈黙させられてしまったのだ。
「…何の、つもりです…」 セラフィーナは、絞り出すような声で言った。その声には、もはや聖女の響きはない。 「こんな茶番で…全てが解決するとでも…?」
「解決?」エレノアは、きょとんと目を丸くした。「あら、わたくしはただ、娘が心配で迎えに来て、せっかくだから皆さんとお茶でも、と思っただけですわよ? 何か、解決しなければならない問題でも、ありましたかしら?」
完璧なまでの、すっとぼけ。その魔王様(母親)の隣で、リリアは俯き、必死に笑いを堪えていた。肩が小刻みに震えている。
「ふざけないで…!」 「まあまあ」俺は、セラフィーナを宥めるように(実際は火に油を注ぐように)言った。「エレノアも、悪気はないんだ。ただ、ちょっと…平和ボケしてるだけで」 「あら、カイトまでひどい」エレノアが、頬を膨らませる。
「…カイト殿」背後から、ザラキアスがそっと耳打ちしてきた。「今こそ好機! あの女聖女が油断している隙に、我が闇魔法で…!」 「やめろ馬鹿! お前が動いたら、また戦争になるだろうが!」 「むぅ…しかし…」 「いいから、お前は黙って紅茶の温度でも気にしてろ!」 「御意…!」
俺たちの、あまりにも緊張感のないやり取り。それは、セラフィーナが築き上げてきた「神聖なる戦い」という舞台装置を、内側からガラガラと崩していく。兵士たちの間からも、「なあ…俺たち、何やってんだ…?」「魔王軍…なんか、楽しそうじゃね…?」「あのスコーン、美味いのかな…」といった囁きが聞こえ始めていた。
セラフィーナは、この状況を打開しようと、最後の切り札を切った。リリアだ。 「リリア! あなたは、まだ惑わされているのですか! 目を覚ましなさい! その者たちは、あなたの魂を蝕む闇なのですぞ!」
全員の視線が、再びリリアに集まる。彼女は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、もう涙はない。ただ、静かな決意の色だけが浮かんでいた。
「…セラフィーナ様」 リリアの声は、震えていなかった。 「あなたは、私に光の道を説きました。でも、あなたが教えてくれた光は、あまりにも眩しすぎて…私には、他の何も見えなくなっていました」
彼女は、テーブルの上に置かれた蜂蜜の壺を、そっと手に取った。 「でも、思い出しました。どんな暗闇の中にも、こういう…小さくて、温かい光があることを。私は、もう迷いません。私が信じるのは、あなたの言う『神』でも、『大義』でもない」
リリアは、まっすぐにセラフィーナを見据えた。 「私が信じるのは、蜂蜜のスコーンの味です」
その、あまりにも率直で、あまりにも少女らしい宣言。 それは、どんな魔法よりも、どんな神託よりも、強く、兵士たちの心を打った。 誰からともなく、くすくすと笑い声が漏れる。それはやがて、大きな、温かい笑いの波となって、広場全体を包み込んでいった。
セラフィーナは、完全に孤立した。彼女の「正義」は、今や滑稽な道化の衣装でしかなかった。 「…覚えて…いなさい…」 彼女は、それだけを吐き捨てると、まるで亡霊のようにふらりと立ち上がり、兵士たちの間を抜けて、野営地の奥へと姿を消した。誰も、彼女を止めようとはしなかった。
後に残されたのは、気まずい沈黙と…テーブルの上に残った、大量のスコーン。 俺は、立ち上がると、一番近くにいた騎士に向かって、バスケットを差し出した。
「…食うか? まだ温かいぞ」 「…え? あ…はい…いただきます…」
騎士は、恐る恐るスコーンを一つ手に取った。 それが、合図だった。 他の兵士たちも、堰を切ったようにテーブルに集まり始める。
「おお! これが噂の…!」 「ジャムもいいですか!?」 「紅茶のお代わりは!?」
広場は、あっという間に、和やかな(そして騒々しい)ティーパーティー会場へと変わってしまった。ザラキアスとゴウガも、いつの間にか兵士たちに囲まれ、「魔王様の素晴らしさ」や「スコーンの焼き加減」について、熱弁を振るっている。
俺は、その喧騒の中心で、ようやく肩の荷を下ろしたリリアと、満足そうに微笑むエレノアの顔を見ながら、苦笑するしかなかった。 (…本当に、お茶会で戦争、終わらせちまったよ…)
もちろん、根本的な問題…セラフィーナの背後にいる〝それ〟が消えたわけではない。 だが、今は、この奇跡のような休戦を、そして、ようやく取り戻した家族の時間を、少しだけ楽しんでも、罰は当たらないだろう。
俺は、エレノアが淹れ直してくれた、温かい紅茶を、ゆっくりと味わうのだった。 それは、勝利の味がした。蜂蜜のスコーンによく合う、最高の味だった。




