第87話 聖女の凱旋、魔女の茶会
リリアが、俺とエレノアの隣に立った。 それは、世界で最も美しい三叉路だったかもしれない。聖女、魔王の伴侶、そして魔王。本来なら、決して交わるはずのない三つの存在が、一つの食卓の記憶によって結びつき、今、共通の敵…いや、共通の「招かれざる客」に向き合っている。
数万の軍勢が、沈黙していた。彼らが信じてきた物語が、目の前で音を立てて崩れていくのを、ただ呆然と見ているしかなかった。聖女が、魔王の隣で、まるでそれが当然であるかのように立っている。剣を抜くべきなのか、祈るべきなのか、それとも、ただ逃げ出すべきなのか。誰も判断がつかなかった。
「…裏切り者め…!」 ついに、セラフィーナの唇から、聖女らしからぬ、剥き出しの憎悪が漏れた。その完璧な微笑みは完全に消え失せ、代わりに、人間離れした冷たい怒りがその瞳に宿っている。 「神の恩寵を仇で返すとは…! その身に宿る聖なる力、全てを剥奪してくれる!」
セラフィーナ…いや、彼女に宿る〝それ〟が、天に向かって手を掲げる。空気が震え、大地が呻く。先日の戦いで見た、あの禍々しくも神々しい力が、再び集束し始めた!
「やめなさい!」 叫んだのは、リリアだった。彼女は、もはや怯えていない。自らの意志で、母とカイトの隣に立つことを選んだ少女の、力強い声だった。 「あなたの言う『神』が、本当に人々を救うと言うのなら、なぜこんなことをするの!? 力で全てをねじ伏せ、嘘で心を縛り、家族を引き裂く…! それが、あなたの正義なの!?」
「黙れ、小娘!」セラフィーナの背後から、神々しい光の翼が出現する。「神の御心を知らぬ愚か者が…! 世界の調和を乱す『悪』は、魔王も、調停者も、そして…道を踏み外した聖女も、全て等しく、消し去るのみ!」
まずい! あれだけの力を、こんな至近距離で解放されたら…! 「エレノア!」 「ええ!」 俺とエレノアは、同時に動いていた。エレノアがリリアの前に立ち、防御魔法を展開する。俺は、バスケットに残っていた最後のスコーンを掴むと、セラフィーナに向かって駆け出した!
「させるかァァァッ!」 「我が君に近づけるな!」 ザラキアスとゴウガも、エレノアの勅命(リリアを守れ)を一時的に忘れ、俺を援護するように飛び出す!
「カイト!? 何を…!?」 エレノアの驚く声が聞こえる。だが、俺には考えがあった。俺の力は、戦うための力じゃない。調和させる力だ。ならば…!
「セラフィーナ!」 俺は、神々しい光を放つ彼女の目の前まで駆け寄ると、叫んだ。 「お前も、腹が減ってるだけなんだろ! これを食え!」
そして、俺は渾身の力で、エレノア特製の『世界平和のスコーン』を、セラフィーナの口の中に、ねじ込んだ!
「…むぐっ!?」
時が、止まった。 天に集束しかけていた神の力が、ふっと霧散する。 セラフィーナの瞳から、神々しい光が消え、ただただ目を白黒させている、一人の女性の顔に戻っていた。口には、スコーンが詰まっている。
「……」 「……」 「……(うまい…?)」←セラフィーナの心の声
広場全体が、信じられないものを見た、という沈黙に包まれる。 ザラキアスとゴウガは、俺の後ろで「な…なんという奇策…!」「スコーン…恐るべし…」と震えていた。
「…ふふ…あはははは!」 最初に吹き出したのは、エレノアだった。彼女は、腹を抱えて笑い転げている。 「か、カイト…あなたって、本当に…!」 つられて、リリアもくすくすと笑い出した。さっきまでの涙が嘘のように、晴れやかな笑顔だった。
俺たちの笑い声は、困惑していた兵士たちの間にも、伝染していく。 誰かが、ぷっと吹き出したのを皮切りに、あちこちで笑いが起こり始めた。それは、嘲笑ではなかった。あまりにも馬鹿馬鹿しい、しかし、あまりにも人間的な光景に対する、安堵の笑いだった。
口の中のスコーンをもぐもぐと咀嚼し、ごくりと飲み込んだセラフィーナは、自分が何をしたのか、そして何をされたのかを理解し、顔を真っ赤にして叫んだ。 「き、貴様らァァァァァァーーーー!!!」
だが、その叫びは、もはや神の威光を伴わない、ただの癇癪にしか聞こえなかった。 戦いの空気は、完全に霧散していた。一杯の紅茶と、一つのスコーンによって。
「さて、セラフィーナさん」 エレノアが、笑い涙を拭いながら、優雅に立ち上がる。 「お茶の、続きでもいかがかしら? 今度は、ゆっくりと、話し合いましょう。…世界のこと、神様のこと、そして、美味しいスコーンのレシピのことでも」
その言葉は、もはや魔王のものではなかった。ただの、お茶会好きな、一人の女性からの、穏やかな提案だった。 セラフィーナは、何も言い返せずに、ただ悔しそうに唇を噛む。
こうして、世界を二分するはずだった聖女と魔王の戦いは、史上最も奇妙な形で、一時休戦を迎えた。 俺は、空になったバスケットを見つめながら、深いため息をつく。 (…スコーン、全部使っちまったな…)
だが、心は不思議と、晴れやかだった。 俺たちの家族の物語は、まだ始まったばかりなのだから。




