第86話 紅茶に溶ける嘘、スコーンに宿る真実
リリアが手に取ったティーカップ。 その小さな白磁の器が、今、世界の天秤そのものだった。数万の視線が、その一点に注がれる。彼女がそれを飲むのか、それとも拒絶するのか。その単純な動作が、この戦争の正義を、そして世界の未来を決定づけるかのように、誰もが息を詰めていた。
「リリア、おやめなさい」 セラフィーナの声は、もはや聖母のものではなかった。それは、完璧な仮面の下から漏れ出した、焦りと苛立ちに満ちた、ただの女の声だった。 「その一口が、あなたの魂を永遠に闇へ繋ぐことになるのですよ。魔女の毒は、五感で味わうものではなく、魂で味わうもの。今からでも遅くはありません。その呪われた杯を置きなさい」
その言葉は、リリアを救おうとする慈愛の言葉ではなかった。彼女を支配下に留めようとする、見えない鎖の音だった。 リリアは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は、もう迷ってはいなかった。涙は乾き、そこには、セラフィーナも、俺も、そしてエレノアさえも見たことのない、静かで、しかし鋼のように強い光が宿っていた。
「…毒、ですって?」 リリアは、ふっと、儚げに微笑んだ。 「セラフィーナ様。あなたは、私に教えてくださいましたわね。聖女たるもの、あらゆる不浄を見抜き、浄化せよ、と。私のこの身には、神より賜りし聖なる力が満ちているはずです」
彼女は、そう言うと、ティーカップをゆっくりと自分の唇へと近づけた。 「ならば、試してみましょう。この一杯の紅茶が、本当に母の『毒』なのか。それとも、あなたの『嘘』が、私を蝕む本当の毒だったのか。私のこの聖なる力が、どちらを『不浄』と断じるのかを」
その言葉は、雷鳴のように広場に響き渡った。 セラフィーナの顔から、血の気が引く。リリアが、自分自身の聖性を、その身をもって証明の天秤にかけると言い放ったのだ。もしリリアがこの紅茶を飲んで何ともなければ、それは魔王の毒ではなく、聖女が認めた一杯となる。セラフィーナが築き上げた「魔王=悪」という単純な構図が、根底から覆る。
リリアは、セラフィーナの凍りついた顔を見つめながら、静かに紅茶を一口、口に含んだ。 広場は、水を打ったように静まり返る。 琥珀色の液体が、彼女の喉を滑り落ちていく。
数秒の、永遠のような沈黙。 リリアの身には、何も起きなかった。邪悪な魔力が体を蝕むことも、苦悶に顔を歪めることもない。 ただ、彼女の頬が、ほっとしたように、微かに緩んだだけだった。
「…温かい…」 その、あまりにも素朴な一言。 だが、それは、セラフィーナの描いた壮大な物語に、決定的な終止符を打つ一言だった。
「さて、と」 俺は、この好機を逃さなかった。バスケットから取り出した蜂蜜のスコーンの皿を、リリアの前に差し出す。 「口直しには、こっちがいいだろ。主役の登場だ」 「カイト…」 「いいから、食え。お前のための、お茶会なんだから」
リリアは、俺の顔と、隣で静かに微笑む母の顔を見比べた。そして、覚悟を決めたように、スコーンを一つ手に取った。 今度は、ためらわなかった。 サクッ、という、心地よい音が、静寂の中でやけに大きく響く。
一口、また一口と、リリアは、まるで失われた時間を取り戻すかのように、夢中でスコーンを頬張った。その姿は、悲劇の聖女でも、光の代行者でもない。ただ、お腹を空かせた一人の少女の姿だった。
「…な…何を、しているのですか…! 兵士たち! あれは、魔女の幻惑です! 目を覚ましなさい!」 セラフィーナが、ヒステリックに叫ぶ。だが、その声は、もはや誰の心にも届かなかった。 兵士たちは、見てしまったのだ。自分たちが崇める聖女が、魔王の淹れた紅茶を飲み、その伴侶が差し出したスコーンを、涙を浮かべながら、しかし幸せそうに食べる姿を。 自分たちが掲げていた剣の先に、一体どんな正義があったのか。彼ら自身が、分からなくなってしまったのだ。
「セラフィーナ」 エレノアが、静かに立ち上がった。その声には、魔王の威厳でも、母の優しさでもない、ただ一つの、冷徹な真実だけが宿っていた。 「あなたの負けよ。あなたは、リリアを聖女にできたかもしれない。でも、あの子から、母親のスコーンの味を奪うことは、できなかった。…それだけのことよ」
その言葉は、セラフィーナの心を折る、最後の一撃となった。 彼女は、わなわなと唇を震わせ、その美しい顔を、憎悪に歪ませた。
「…まだよ。まだ、終わってなど…いない…!」
彼女の体から、この前の戦いで感じた、あの〝神の使い〟の、禍々しい神気が溢れ出し始める。 だが、もう遅い。 この戦場の支配者は、もはや彼女ではなかった。
リリアが、スコーンの最後の一欠片を飲み込み、顔を上げた。 その瞳は、もう涙で濡れてはいなかった。 彼女は、自らの意志で席を立つと、俺と母の隣に並び、セラフィーナを、そして困惑する数万の軍勢を、まっすぐに見据えた。
聖女の裏切り。 いや、これは、一人の少女が、自らの真実を取り戻した、最初の凱旋だった。 戦場の勝敗は、まだ決していない。 だが、この物語の勝者は、今、この瞬間に決まったのだと、俺は確信していた。




