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第85話 スコーンの選択、世界の天秤

 俺が投げかけた「砂糖とミルクは、どうする?」という、あまりにも日常的な問い。それは、この鋼鉄と殺意に満ちた広場に、異質な静寂をもたらした。数万の兵士が、ただ固唾を飲んで見守っている。伝説の聖女が、魔王の淹れた紅茶に、砂糖を入れるのか、否か。世界の歴史上、これほどまでにくだらない、しかしこれほどまでに重要な選択があっただろうか。


 最初に沈黙を破ったのは、やはりセラフィーナだった。彼女は、目の前のカップを汚物でも見るかのような目で見つめると、作り上げた聖母の微笑みを、侮蔑のそれに変えた。


「…茶番は、そこまでになさい、魔女」  その声は、鈴の音から一転、氷のように冷たく響き渡った。 「我らを愚弄するにも、程がある。あなた方が差し出すものなど、毒か呪いの類に決まっているでしょう。さあ、兵士たち。見なさい! これが魔王のやり方です! 平和を装い、慈愛を真似て、その実、我らの魂を内から蝕もうとする、卑劣な罠なのです!」


 セラフィーナは、立ち上がって兵士たちを扇動する。その言葉に、弛緩しかけていた空気は再び張り詰め、騎士たちは槍を握り直し、弓兵たちは再び弦を引き絞った。


「あらあら」  エレノアは、その剣呑な空気を意にも介さず、自分のカップを手に取った。そして、セラフィーナに見せつけるように、そっと口をつける。 「…もしこれが毒だとしたら、わたくしの毒作りの腕も、ずいぶん落ちたものですわね。ただの、少し渋みが効いた美味しいダージリンとしか思えませんもの」


 彼女は、こてん、と小首を傾げた。 「それとも、あなた方大神殿では、お客様にお出しした紅茶が毒でないことを、まず証明せねばならないという、悲しい作法でもあるのかしら?」


 その完璧な切り返しに、セラフィーナの眉がピクリと動く。兵士たちの間にも、「確かに…」「自ら飲んだぞ…」という動揺が広がった。


「黙りなさい!」セラフィーナが声を荒らげる。「言葉巧みに我らを惑わそうと…!」 「惑わす、ねぇ」  今度は、俺が口を挟んだ。俺はバスケットから、まだ湯気の立つスコーンが盛られた皿を取り出し、テーブルの中央に置く。バターの甘い香りが、ふわりと広がった。


「腹が減ってると、人間、疑り深くなるもんだ。セラフィーナ様も、腹ごしらえがまだなんじゃないか? ほら、スコーンだ。ジャムは三種類。イチゴと、オレンジマーマレードと…」  俺は、小さな蜂蜜の壺を手に取ると、リリアの目の前に、ことり、と置いた。 「…それから、蜂蜜。お前のためのな、リリア」


 リリアの肩が、びくりと震えた。彼女は、俯いたまま、その小さな蜂蜜の壺を、ただじっと見つめている。


「リリア」  俺は、静かに、だがはっきりと彼女の名を呼んだ。 「お前は、いつからそんなに疑り深くなったんだ? 俺たちが、お前に毒を盛るように見えるか? 昔、『お腹すいた』って泣いてるお前に、エレノアが焼きたてのスコーンを差し出した時、お前は『毒じゃないか』なんて言ったか?」


「やめなさい!」セラフィーナが鋭く叫ぶ。「聖女を、甘言で誑かそうなどと…!」 「黙ってろよ、部外者は」  俺は、セラフィーナを初めて、冷たく睨みつけた。 「これは、俺たちの、家族の話だ」


 その言葉に、セラフィーナは一瞬、息を呑んだ。この場で、彼女を「部外者」と断じた者は、誰もいなかったからだ。


 俺は、再びリリアに向き直る。 「スコーン、まだ温かいぞ。お前、冷めたスコーンは嫌いだったろ。一番美味しい時に、食ってやれよ」 「…………」


 リリアは、何も答えない。ただ、その手は、テーブルの下で固く、固く握りしめられていた。  セラフィーナの教えと、目の前の蜂蜜のスコーン。  聖女としての大義と、ただの娘としての、抗いがたい記憶。  彼女の中で、二つの世界が、激しくせめぎ合っていた。


 広場は、再び静寂に包まれた。  数万の軍勢が、ただ一人の少女の、小さな選択を、息を詰めて見守っている。


 やがて。  リリアの、震える手が、ゆっくりと持ち上がった。  彼女が手に取ったのは、スコーンではなかった。  蜂蜜の壺でもない。


 彼女は、目の前に置かれた、琥珀色の紅茶が満たされた、ティーカップを、そっと手に取った。


「…少し、喉が渇いただけよ」


 誰に言うともなく、そう呟いたリリアの声は、震えていた。  セラフィーナの顔から、聖母の微笑みが、完全に消え失せた。  その瞬間、この戦場の天秤は、確かに、俺たちの方へと、わずかに傾いたのだった。

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