第84話 最初のカップは、戦いの始まり
俺とエレノアが足を踏み入れた鋼鉄の回廊は、まるで巨大な獣の食道だった。両脇にびっしりと並ぶ兵士たちの視線が、無数の棘となって全身に突き刺さる。カチャリ、と誰かの鎧が立てる微かな音ですら、この静寂の中では脅迫のように響いた。先導するセラフィーナの背中だけが、純白の衣装で、この鉄色の世界から浮き上がって見えた。
「随分と物々しいお出迎えですこと。お客様をもてなすのに、槍の穂先を向けるのが、大神殿の流儀なのかしら?」 エレノアが、わざとらしく、しかし鈴を転がすような声で言った。その声は、この殺伐とした空間には不似合いなほど、穏やかに響き渡る。
セラフィーナは、振り返らずに答えた。その声もまた、完璧な微笑みを湛えているのが分かる。 「まさか。これは、もてなしではありません。儀式ですわ。神敵を聖域へと導く、浄化のための…ね」
「儀式、ですって? それは奇遇だわ」エレノアはくすくすと笑う。「わたくしたちも、これから儀式を始めるところですのよ。『ティータイム』という、世界で最も平和で、最も大切な儀式を」
言葉と言葉が、見えない火花を散らす。兵士たちの困惑が、さざ波のように広がっていくのが肌で感じられた。彼らは、伝説の魔女と聖女による、荘厳な魔術の応酬を想像していたのだろう。まさか、お茶会の作法を巡る舌戦が始まるとは、夢にも思わなかったに違いない。
「…カイト」エレノアが、俺にだけ聞こえる声で囁いた。「少し、肩の力を抜きなさい。バスケットの中のジャムが、あなたの緊張で分離してしまいそうだわ」 「無茶言うな! これだけの殺意に囲まれて、リラックスできるのはあんたぐらいだ!」 「あら、失礼ね。私だって、少しは緊張しているわよ。最高の紅茶を淹れられるかしら、って」
この人は、本物だ。俺は、その底知れない胆力に、もはや笑うしかなかった。
やがて、回廊が終わり、巨大な天幕が張られた広場へとたどり着いた。連合軍の司令部。その中央には、軍議にでも使うのであろう、大きなテーブルと、いくつかの椅子が置かれていた。そして、その一番奥。セラフィーナの玉座のように置かれた椅子の隣に、彼女は立っていた。
リリアだ。 聖女候補としての純白の儀式服に身を包み、その表情からは一切の感情が抜け落ちていた。彼女は、俺たちを見ると、ほんのわずかに肩を震わせたが、すぐにセラフィーナの隣で、美しい石像のように固まってしまった。その瞳は、俺たちを見ているようで、どこか遠い場所を見ている。
(…リリア) 俺の胸が、チクリと痛んだ。あいつは今、一体どんな気持ちで、そこに立っているんだ。
「さあ、どうぞ。お好きな席へ」 セラフィーナが、テーブルへと手を差し伸べる。その仕草は、まるで断頭台へ招待するかのように、優雅で、残酷だった。
俺は、無言でバスケットをテーブルの中央に置くと、リリアの正面の椅子を引いた。エレノアも、その隣に静かに腰を下ろす。
「では、早速始めましょうか」 俺は、セラフィーナの言葉を待たずに、バスケットからティーセットを取り出し始めた。カチャ、カチャ、と陶器の触れ合う音が、やけに大きく響く。周囲を取り囲む屈強な騎士たちの視線が痛い。だが、ここで怯んだら終わりだ。俺は、まるで我が家のテラスにでもいるかのように、堂々と、そして手際よく準備を進めた。
「エレノア、お湯を」 「ええ」 エレノアが指先をポットにかざすと、何もない空間から清らかな水が注がれ、次の瞬間には、くつりと心地よい音を立てて沸騰し始めた。その神業のような魔法に、騎士たちから息を呑む声が漏れる。
俺は、沸いたお湯でカップを温めると、ダージリンの茶葉をポットに入れる。立ち上る、豊かで、甘い香り。それは、この鉄と血の匂いが支配する戦場には、あまりにも不釣り合いな、幸福の香りだった。
「…セラフィーナ様。そして、リリア」 俺は、三つのカップに、美しい琥珀色の液体を注ぎながら、言った。 「お茶が入ったぞ。砂糖とミルクは、どうする?」
その、あまりにも日常的な問いかけ。 セラフィーナの完璧な微笑みが、初めて、ほんのわずかに引きつったのを、俺は見逃さなかった。 リリアの唇が、何かを言おうとして、微かに開く。
最初のカップが、テーブルに置かれた。 それは、ただの紅茶ではない。 俺たちの覚悟と、エレノアの魔法と、そして、失われた日常の香りが詰まった、最初の一撃だった。 戦いは、静かに、しかし確かに始まっていた。




