第82話 史上最も危険なピクニック
俺とエレノアが出発の準備を整えている間、リビングの空気は奇妙な静けさに包まれていた。それは、嵐の前の静けさというよりは、舞台の幕が上がる直前の、役者たちの息詰まるような沈黙に近かった。
リリアは、テーブルの向かいの椅子に、ただ静かに座っていた。その手は、まだ温もりの残るティーカップを、壊れ物を扱うかのようにそっと握りしめている。彼女の視線は、俺とエレノア、そして窓の外に広がる、かつて戦場だった荒野を行き来していた。その瞳には、不安と、罪悪感と、そしてほんのわずかな、期待の色が混じり合っていた。
「…我が君。そして、伴侶殿」 ザラキアスが、いつになく真剣な面持ちで俺たちの前に進み出て、恭しく跪いた。 「ご武運を。このザラキアス、命に代えても聖女様をお守りし、御身らの帰還を城にてお待ちしておりますぞ!」 「…死ぬな」 彼の隣に立ったゴウガが、短く、しかし重い言葉を添える。その二人の目には、もはや普段の戯れの色はなかった。彼らは彼らなりに、この作戦の異常さと、俺たちの覚悟を理解しているのだ。
「ええ、ありがとう。リリアのこと、お願いね」 エレノアが微笑むと、二人は力強く頷いた。リリアは、そのやり取りを、ただ黙って見つめている。自分が「守られる」立場にあることへの、もどかしさを噛み締めるように。
俺たちが持っていく「武器」は、実にシンプルだった。 エレノアが選んだ、美しい細工の施された銀のティーポットと、揃いのティーカップ。数種類の自家製ジャムと、焼きたてのスコーンを詰めた大きなバスケット。そして、最高のダージリン茶葉。それだけだ。俺は、そのバスケットを手に提げた。ずしりとした重みが、これから始まる戦いの重さと、どこか比例しているように感じられた。
「なあ、エレノア。本当に正気か?」 玄関の扉に手をかけながら、俺は最後の確認のように尋ねた。 「普通、敵陣に行くときは、こういうピクニックセットじゃなくて、軍隊を連れてくもんだぞ」 「あら、最高の武器じゃない」 エレノアは、振り返って悪戯っぽく微笑んだ。彼女は、いつもの優雅なローブではなく、動きやすいシンプルな濃紺のドレスを身にまとっている。その姿は、戦場へ赴く魔王というより、本当に湖畔の散策にでも出かける貴婦人のようだった。 「一杯の紅茶は、百万の軍勢に勝ることもあるのよ。特に、心が乾いている相手にはね」
その言葉と、絶対的な自信に満ちた笑顔に、俺の心の最後の不安が、すっと消えていく。そうだ、俺は一人じゃない。この、世界で一番頼りになる魔女様と一緒なのだ。
「…違いない」 俺は、バスケットを持ち直し、覚悟を決めて扉を開けた。
俺とエレノアは、二人きりで、静かに歩き始めた。 美しく生まれ変わった庭を抜け、昨日の戦いで無残に抉られた荒野へと足を踏み出す。足元には、折れた剣や、砕けた鎧の破片が転がっていた。その一つ一つが、命のやり取りがあったことの証だ。そんな場所を、俺たちは、まるで何でもない散歩のように、並んで歩いていく。
やがて、地平線の向こうに、連合軍の野営地が見えてきた。 無数の天幕が立ち並び、林立する旗が風にはためいている。それは、一つの巨大な、鋼のハリネズミのようだった。数万の兵士たちの視線が、荒野に現れた、あまりにも場違いな二つの人影に気づき始めているのが、肌で感じられた。
ざわめきが、風に乗って聞こえてくる。 俺は、ごくりと唾を飲み込み、バスケットを握る手に力を込めた。全身に、数万の視線が突き刺さる。そのどれもが、敵意と、警戒と、純粋な困惑に満ちていた。
やがて、野営地の見張り台から、甲高い角笛の音が響き渡った。 それは、敵襲を告げる鋭い音色。 その音を合図に、野営地の入り口に陣取っていた騎士たちが、一斉に剣を抜き放ち、分厚い盾の壁を形成する。鋼の壁の向こうから、無数の槍の穂先が、俺たち二人に、まっすぐに向けられた。
数万の敵意の、ど真ん中へ。 俺は、隣を歩くエレノアの横顔を盗み見る。彼女は、少しも臆することなく、ただ穏やかに前を見据えていた。
「さあ、カイト」 彼女が、楽しそうに囁く。 「お茶会の始まりよ」
俺たちは、歩みを止めることなく、その鋼の壁と、無数の槍の穂先に向かって、まっすぐに進んでいった。




